すでに精神分析は、いわゆる精神療法の中の、ひとつの治療法に成り下がった。いわゆる神経症の治療に関しては、行動療法の他に、認知療法、そして抗不安薬などがあり、それらは精神分析よりも大きな顔をして、その存在を主張している。かつてフロイトが解明し、記載したヒステリーや強迫神経症などは、今や精神分析の手を離れ、さほど難しい勉強やトレーニングをしなくても、多少の臨床経験があれば、誰でも治せるようになった。こうした状況を甘く評価すれば、それだけ人の心に対する関心が大きくなり、対人的な交流の仕方にも注意を払うようになったと言うことができる。そして、そういう意味では、精神科医療は進歩したと判断できる。

  しかし、重症人格障害や精神病の治療となると、厳しい評価が下る。原因解明という点において、未だ十分な成果を上げられない脳研究や遺伝子研究は、その実態とかけ離れた大きな宣伝をして研究費を工面しようとしている。あるいはまた、治療効果という点で、かつての向精神薬に比べ、さほどの違いを見せない新薬の販売競争も、精神科医療を翻弄している。そうした中において、精神分析はなす術も無いまま、ただひたすら衰退の道を歩み続けている。もっとも、こうした原因はフロイトにある。「転移」だけ発見して、あとは余計なことを言わなければ、まだ精神分析を勉強しようとする人達に可能性を残したに違いない。フロイトの考えを受け継いだ研究者らは、ことごとくフロイトのジレンマに引っかかってしまった。

  境界例の治療だと言ってみたところで、許しの解明がなければ、どう治療するのだろうか?ひきこもりの治療だと言ってみたところで、救いの解明がなければ、どう治療するのだろうか?しかも、そうした解明もさることながら、それらの治療を治療者一人で何とかしようとして、何ができるだろうか?子の病気を作った親を味方につけられるだろうか?そんなことをしても、治療者がくたばるだけである。あるいは、A-Tスプリットはどうか?私は20年前、メニンガーでそれを学んだが、その時、「この方法では治らない!」と、はっきり自覚した。私の「定式化」の作業と照合しても、A-Tスプリットの理論的根拠は何もない。だから、私は苦しんだ。精神病を治す方法がないからである。しかし、「何とかしなければならない。」ずっと私はそう思い続けてきた。

  そういう思いで完成したのが、精神分析統合理論である。書きつけた原稿の十分の一に凝縮したので、たとえサラリと書かれた文章であっても、その中には様々な発見が含まれている。しかも、それが八百ページを超えている。書く方も大変だったが、読む方も苦労を強いられる。しかし、そんなに簡単にわかれば、我々の苦悩など存在しない。万能細胞の研究は世界中が一線に並んでスタートしているので、はたして日本人がその実用化に勝てるかどうか?それに対して、精神分析統合理論は日本語で書かれている。つまり、日本人の研究者にとっては有利である。だから、この特権を利用して、できるだけ多くの専門家が一日も早く精神分析統合理論を理解し、その実用化を図ってもらいたいものである。海外の研究機関に嗅ぎつけられる前に、日本国内でやり始めることができるかどうか、これは将来の日本の精神医学にとって重要なことである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅰ)

  急性期病棟と認知障害という言葉が定着しつつあるようだが、何だか奇妙な感じがする。その理由は、これらの言葉の文字通りの意味と、実際に使われている意味とでは、ひどくかけ離れているからである。急性期という言葉は、統合失調症の病像を表す言葉である。だから、統合失調症に限って、たとえば寛解期、急性期、慢性期などとして使用する。ところが、実際に急性期病棟に入院してくる人の中には、何度もうつが再燃した人や、何度も連続飲酒発作を起こした人が含まれている。全体の割合で見れば、統合失調症急性期で入院する人はわずかしかいない。そこで、私は同僚の精神科医に聞いてみた。すると、その精神科医も少し返答に困った様子であったが、しばらくして「三ヶ月だから」と答えた。これは、短期という意味である。一般に精神科の入院期間は長く、かつては年単位であったから、三ヶ月は短い。しかし、そうであれば、短期(入院)病棟でよいではないか?「まあ、そんなことはどうでもいいじゃないか!」と、片付けられそうなことであるが、学問に精通した人であれば、こんな名前をつけるだろうか?

  それに、もうひとつ。認知障害という言葉がはやっている。認知症に見られる認知障害かと思っていたら、なんと統合失調症に見られる認知障害という意味であった。「今や、陽性症状や陰性症状は、非定型抗精神病薬によって治すことができるようになった。次は、統合失調症の認知障害の解決である!」これは、薬屋のキャペーンである。そして、薬屋をひいきにしている精神科医も合唱する。統合失調症の人は幻覚や妄想に襲われやすいので、そうした一側面を認知障害として理解することができるという意味であろうか?たとえば、私の外来に通院している患者は、多少の幻聴や妄想に左右されながらも、ちゃんと予約時間に間に合うよう、自家用車でやってくる。また、日常の生活について話すが、その内容もよくわかる。はたして、どの部分が認知障害か?幻覚や妄想の中の認知障害であれば、それは立派な陽性症状である。ちなみに、幻覚は「覚醒時における夢現象」である。それでは、夢は認知障害であろうか?夢には「概念の知覚化」という脳内刺激伝達経路が関与する。たとえ夢を認知障害にしなくても、覚醒時に生ずる概念の知覚化を認知障害と呼ぶことは可能である。しかし、たとえ統合失調症であっても、一流大学に入学することができる。そうした場合でも、認知障害と呼ぶのだろうか?

  自我意識を問題にする際には、それを「情動排除型」と「情動含有型」に区別する。認知症では、情動含有型自我意識が防衛型自我意識になるだけではなく、情動排除型自我意識も侵される。それに対して、統合失調症では、情動含有型自我意識が防衛型自我意識になっても、情動排除型自我意識は侵されない。つまり、認知症では情動系の関与しない認知機能も侵されるが、統合失調症では情動系の関与しない認知機能は侵されない。したがって、幻覚や妄想の中に認知障害を認めるのは勝手だが、統合失調症という疾患群そのものに認知障害を認めるのは、間違いである。それゆえに、上記のキャンペーンを知った時、私は違和感を覚えたが、それでは、いかにして防衛型自我意識を情操型自我意識に変えるのか?すでにお気づきの通り、私はこのホームページの所々において、「認知と認識」について言及しているが、いわゆる異常体験の中に見られる認知障害は、「情動制御」の欠如に由来して生ずる認識形成の無さに原因がある。したがって、情動制御を作り上げれば、自然と認識は発生してくるので、その結果、認知障害は解決する。まさに、その方法論こそ、精神分析統合理論に書かれている内容である。認識の形成が無ければ、いわゆる認知障害は改善されない。しかも、それは統合失調症の異常体験に特異的なものではない。重症人格障害の場合であっても、防衛型自我意識が出現すれば、いわゆる認知障害も付随して発生する。その点を正しく理解しておくべきである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅰ)

 15年間にわたり、小さなクリニックで自費診療をやり、精神病根治療法に関する方法論の開発に勤しんできた。大学を辞めてクリニックをやろうと思った時点において、すでに精神病を引き起こす成因を発見していたのだが、実証的な研究をやらないことには、誰も相手にしてくれないだろうと思い、この15年、私は誰もが想像を絶するような精進を続けた。そのおかげで、昨年、「精神病根治療法の定式化」と「精神病根治療法の具体的定式化」という二つの論文を作り上げた。これらは、著書「精神分析統合理論」の中に納められている最も重要な部分である。

 二つの論文が仕上がると、ずっと緊迫した治療状況を維持し続けてきた自分に苦しさを感じ始めた。気づいてみれば、すでに五十歳を過ぎ、頭はすっかり白くなっていた。私ははじめて自分の身体的、精神的限界を感じたのである。ここら辺で、一般の精神科医に戻ろう。保険医や指定医としての資格を利用し、少し楽をしてみたい。そんな思いになったのである。そうした私の思いを、妻(内科医)は「下界に降りる」と表現したが、下界に降りてみて、私は二つのことを感じ取った。ひとつは、かつて以上に、精神科医療は製薬会社の隆盛に貢献しているという事実であり、もうひとつは、精神科医療は厚生労働省の方針に翻弄されているという事実である。同じ精神科医療をやっていても、私と世間とのあまりの違いに驚くばかりであった。

 日ごろの臨床となると、くすりに関しては身近だが、厚生労働省とは接する機会もないので、とりあえず前者の方を話題にする。今まで私は原則的にくすりを使わなかったが、そのせいで新しいくすりのことは、ほとんど知らなかった。そこで、もう一度、研修生に戻った気分で、くすりのことを勉強し直した。そして、使ってみた。率直な印象は「本当に効いているのか?」である。もうしばらく使ってみないとわからないが、SDAやSSRIなどは臨床家の間でよく使われている。ほとんど唯一の武器としてくすりを使い、辛うじて精神科医としての自我同一性を保っている、ある精神科医は、新薬をまるで魔法薬のように思い込み、べた褒めする。その惚れ込みように感心して、私は「そうですか、それは素晴らしいですね!」と同調しておく。確かに、くすりはある程度の安定感をもたらすが、そのためには飲み続けさせなければならない。つまり、様々な精神状態を薬物依存状態に置き換えている。上記のくすりは、陽性症状だけではなく、陰性症状にも効くようだが、それでは陽性症状や陰性症状を引き起こしている、その原因にはどういうくすりを使うのか?こんな質問をすると、「えっ?」と思う読者がいるかも知れない。もしそう思う読者がいるとすれば、その読者は心の表層だけしか見ていないということになる。陽性症状や陰性症状の背後には、それらを引き起こす原因がある。その原因を理解し、治癒させる治療法こそ根治療法である。私の著書「精神分析統合理論」は、そうした方法論で埋め尽くされているが、もし読者が私の著書を手にしてみれば、いかに自分達の臨床が「治癒」から縁遠いものであるか、思い知らされるに違いない。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅰ)

  私が精神科医になってから、四十年が過ぎた。はじめのうちは、とにかく医師として、かつ精神科医として、一人前になるために、いろんなことを学んだ。そのためには、身体的なチェックから精神的な面接の仕方にいたるまで、幅広く勉強しなければならなかった。そして、ようやく自分で診断ができるようになり、先輩方から教わったくすりの使い方を基本に、自分で処方箋が出せるようになった。私の場合は、精神科医としての勉強と同時に、精神分析医になるための勉強も始めたが、その経緯については、私のプロフィールでも紹介しておいた。つまり、小此木先生のスーパービジョンを受けながら、精神分析セミナーに通い、さらにはメニンガー研究所で研修を受けた。そして、精神分析についても、一通りのことを理解することができるようになった。

  ここまで勉強すれば、自信満々になれるはずだったのだが、現実は全く違っていた。つまり、一生懸命、診療すればするほど、そして勉強すればするほど、私は如何ともしがたい苦痛に襲われたのである。それが理論と実践の狭間である。たとえば、ある時にはクラインを読んで「なるほど!」と思い、また別の時にはコフートを読んで「なるほど!」と思うのだが、心の中にはいつも「水のような」精神分析と「油のような」精神分析が同居していた。そうした不全感は私にとっては耐え難かったので、その辛さを何とかしようと思い、診療と勉学に拍車を掛けた。つまり、私はニッタ・クリニックで、毎日6〜7時間の精神分析と、毎日3〜4時間の勉強を15年間続けた。そして、ようやく情動制御理論を作り上げた。今まで読んだいかなる書においても、その何割かは観念や推察で占められている。しかし、情動制御理論は徹底した実践の積み重ねを基礎にしているので、飛躍や矛盾が少ない。診断さえつけば、その後の治療経過と治療結果とは自動的に出てくる仕組みになっている。そういう訳で、最近では悩ましい自分は解消している。

  ところで、そうした私の経験から改めて理論と実践の狭間について考えてみると、それは曖昧な理論と不十分な実践とから生じてくるものであると結論付けることが可能である。とりあえず、既存の理論から臨床に入るのだが、肝心なことは、やはり多くの患者を治したという経験である。それがあれば、理論の飛躍や矛盾が見えてくるので、自分なりに修正し、それを臨床に採用できる。そして、再び治療に成功すれば、さらなる修正が可能になり、より実践的な理論を作り上げることができるようになる。こうした本質化を徹底して行なうことが重要である。徹底した本質化の先には、必ず真実が控えている。それを掴むまで研究を止めてはいけない。途中で止めてしまえば、真実をゲットすることができなくなってしまう。私の得た真実は心に関するものであるが、今では「心の神秘」など全く存在しないという見解に達している。我々の心は、まさにコンピューターと同じく正確に機能しているというのが、偽らざる見解である。したがって、理論と実践との間に如何ともしがたい溝があると感じ、考えている研究者には、徹底した本質化が欠けていることになる。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅰ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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