精神障害の中でも、特に統合失調症に関する遺伝子研究が、(たとえ袋小路に追い詰められていても、)いまだに様々な研究機関によって行なわれているようである。私としても、私が同定した情動系を構成する14個の因子が、何らかの遺伝的な制約を受けているだろうことは否定しないが、仮にそれらの因子の幾つかに遺伝的な素因を見出すことができても、その発見から何か具体的な治療法や予防策を引き出すというプロセスの作成は至難の業ではないかと考える。それに対して、私の諸々の研究の中でも、特に二種類の情動特性による心の正常と異常の判別は、比較的簡単に使用できる。たとえば、思春期(青春期)に入る直前の学童期において、悪い情動と弱い情動のそれぞれが、認知だけではなく認識も獲得しているかどうか?これを選別することができれば、発症前に精神病状態や病的状態を見分けることができるようになる。そのためには、私の提唱する情動特性が多くの研究者によって賛同を得、どういう内容のものでスクリーニング法を作り上げるか?ということが十分に検討される必要がある。ただし、たとえそうした判別が可能になったとしても、やはり根治療法ができるような体制がなければ、折角のスクリーニング法も空回りしてしまう恐れがある。だから、とにかくすでに紹介した根治療法を一日も早く実証し、そうした体制作りを行なうことが先決であろうと考える。精神医学や心理学に携わる人達の真摯な取り組みを希望する。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅱ)

  多くの精神科医は、病院やクリニックを訪れる患者の診療や書類書きなどに追われ、学問とは縁遠い日々を過ごしているので、むしろ心理相談室などで、ダブルの心理療法を行なうことはできないだろうか?もちろん、それは精神病や重症人格障害の根治療法を二本立てで行なうことを意味する。

  今まで私も多くの臨床心理士(サイコロジスト)と接触してきたが、精神科医療現場における臨床心理士の立場は、決して優遇されたものではない。折角、大学や研究会などで勉強してきても、実際の仕事は心理テストの他、病院の諸々の雑用である。臨床と言っても、外来主治医から依頼された少数の患者の相談にのる程度のものである。時々、気の毒に思うものの、現在の医療制度では致し方ない。

  私は、そうした臨床心理士の立場を挽回させる良いチャンスであると思う。もし私の方法論を採用し、人格変化や完治などの結果を出すことができれば、精神科医だけではなく、専門家であると豪語する精神分析医さえも、実力的には抜くことができるし、それがひいては臨床心理士に対する厚生労働省の見方を変えることにも、つながるかも知れない。私個人の意見としては、治し屋は何も医者でなきゃならないという思いはない。

  ただし、その場合、勉強やトレーニングは必須である。むろん、それらは精神分析に関するものである。たとえば、精神分析セミナーを受けたり、精神分析学会に研修症例を出したりして、とりあえず従来の精神分析の骨格だけは学び、それだけでは足りないと思えば、自分の精神分析(教育分析:訓練分析)を受ければよい。そして、それから私の精神分析統合理論を学ぶのである。私の理論を学ぶ前に、感じ方や考え方に癖をつけるのはどうかと思うが、私の理論は難しいので、先立つ知識と臨床体験は必要である。また、心理の人達が好むユング心理学、それに認知療法や行動療法などは、私の理論を勉強しようとする際には全く役に立たないということを断わっておきたい。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅱ)

  今一度、「精神分析とは何か?」という問いを発するが、私にとってこの答えはさほど難しいものではない。つまり、精神分析とは「転移操作」であり、それが効果的であるかどうかは、患者が治ったかどうかという、極めて明瞭な結果によって示される。

  感情転移という精神現象は、唯一、心の科学を可能にした治療概念であるが、それではこの感情がどこから発生するのか?と言えば、それは無意識という広大な心的領域から発生すると答えるのが常識的である。従来の考えによると、無意識は無限に近い神秘的な存在であるという評価を受けていて、沢山の宝が埋蔵されている世界であった。確かに、治療関係から発生する「動かし難い」感情の波は、我々治療者を相当に疲弊させる。これは、湧いてくる感情の源が、底知れぬ深いところにあり、特に不快な感情は汲めども汲めども尽きぬ傾向がある。このような神秘的で底知れぬところから「感情を伴った関係の仕方」を作り出す動態(力動)に注目したフロイトの観察は見事であった。

  無意識から関係と関係の間を転移する不快な感情が湧いてくるのだから、それを治療で「想起、反復、徹底操作」するという流れは極めて自然である。ところが、フロイトはこれだけでは物足りなく感じたのであろう。それは無意識の構造化、つまり「欲動、自我、超自我」という審級となって登場した。むろん、これらもまたフロイトの観察と考察によるものであるが、はたしてこの構造化は適切なものであったかどうか?その当時、これを提出された人達がその正誤について判断しようと思っても、フロイトに匹敵する観察と考察がなければ、太刀打ちできなかったのではないだろうか。一部の研究者はこのフロイトの考えに賛同しかねて離反していった。しかし、たとえ構造論を否定しても、感情転移という真実を否定してしまえば、その時点において、心の科学は存在しない。大切なことは、フロイトの発見した真実と、フロイトの独断とをしっかり区別することであるが、フロイトの発見に感動した人達は、フロイトの独断さえも正しいと、構造論を鵜呑みにした。かくして、精神分析は二つの顔を持つことになった。ひとつは、立派な治療法としての精神分析、もうひとつは、メタ・サイコロジー(超心理学)としての精神分析である。この後者に群がる人達は無数である。

  今までに存在する膨大なフロイト批判の中には、フロイト自身の考えに由来するものと、フロイトの発見を過小評価することに生きがいを感ずる人の考えと、二通りある。フロイト自身に対する批判は私の考えにあるので、他の人の意見を必要とはしない。それは、やはりフロイトの臨床体験の狭さである。いわゆる神経症の治療という点においては申し分ないが、重篤な精神疾患に関するフロイトの観察や考察には限界がある。むろん、フロイト一人で診れる患者の数には限りがあったので、そうした現実は仕方がないが、十分な観察に基づかない考察の流布は、その後の訂正をひどく困難なものにする。私がフロイトの真実と独断との間を割って入ることができたのは、精神病や病的状態の治療をやり、それなりの成果を得たからである。しかし、その際にも、やはり感情転移という真実を拠り所にしていたことは間違いない。転移性精神病を作り、それを解消するプロセスが重要であるということは、すでに紹介したところである。それと、もうひとつの理由としては、自分の心の問題に対して盲目であってはいけないということである。自分がわかっていないと、せっかく治療がスタートしても、その治療がゴールに辿り着けるという保証はない。この点、フロイトはどうだったか?

  フロイトの発見を過小評価することに生きがいを感ずる人は、良い意味では客観的にフロイト信仰を牽制できる人であるが、悪い意味では悪性羨望の持ち主である。いずれにしても、その対象はメタ・サイコロジーである。このメタ・サイコロジーという言葉であるが、これは一体、何物か?もう一度、「欲動、自我、超自我」を取り上げる。はたして、これらは「心」なのか、それとも「脳」なのか?このように問うと、答えに困る。熱心にフロイトを読めば読むほど、そうした曖昧さが浮上してくるので、ついに読者は「これは心でも脳でもない」と思って、フロイト理解を諦めてしまう。だからこそ、メタ(超)なのである。いつも、ここのところが槍玉に挙げられる。もっとフロイトが脳科学にラブ・コールを送るような書き方をしていれば、門外漢に弄ばれることもなかったかも知れない。そこで、いよいよ精神分析統合理論の登場である。私は堂々と「許しの環と救いの環」を強調する。精神分析統合理論の特徴は、第一に、これらを用いて精神病の詳細な治療経過と治療操作とを議論することができる。第二に、これらを用いてほとんどすべての精神現象を説明することができる。第三に、脳機能と重ね合わせて議論することができる。はたして、私の理論もまたメタ・サイコロジーであろうか?否、本物のメタ・サイコロジーかも知れない。しかし、実際には、精神分析統合理論によって、無意識という神秘的な領域は、ほとんどそのすべてが白日のもとに曝されることになった。かつては広大な海のようであった無意識は、今や小さな水溜りでしかなくなった。おそらく、そうした変化を生みだした精神分析統合理論を読んだ人は、かつてフロイト批判を行なった時のように冗舌になることはできないだろう。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅱ)

  精神分析に関する様々な記事を読んでみると、相当に辛辣な内容の書かれたものがある。たとえば、「精神分析は科学ではなく、フィクションに過ぎない」とか、「すでに精神分析は終わった」などである。私は精神分析の内部の人間、つまりインサイダーであるが、今から二十年前の私、つまり精神分析統合理論を書く前の私であれば、このような記事に触れると、かなり不快な思いを抱いていたであろう。しかし、今の私にとっては「なるほど」と思われる部分が多い。しかし、それと同時に、そうした批判はもう時代遅れのものであるという思いがする。そこで、今の私の精神分析に対する思いを少し紹介しておくことにする。

  何はさておき、人の感情は癌のように転移するというフロイトの発見がなければ、心を科学するなどという考え自体、存在していたかどうか、はたして精神医学などと言えるような学問が存在したかどうか、怪しい。それ位、感情転移という精神現象の発見には価値がある。その理由は簡単である。たとえば、親子関係である。もしその親子関係が歪んでいれば、そのせいで子は親から培った不快な思いを抱きながら、一生過ごさなければならない。ところが、その親に対する思いを治療者に転移させ、その治療者の健全な心でもって、親に対する思いを洗い流すことができれば、新たな人生を歩むことができるようになる。それを心の病気が治ったというのである。

  ところが、批判の趣旨は、こうしたフロイトの業績を無に帰してしまうような「科学でない」や「実証されない」である。はたして、批判する人達の心理はどうなのか?一番に考えられることは、批判者はすべて「せっかち」な人達である。なぜならば、人間の歴史の中において、心の科学は始まったばかりである。人が石ころを道具として使い始めてから、現在の物理学や化学を作り上げるまで、どれぐらいの時間がかかっているか。それに対して、転移は心の道具のはじまりに過ぎない。精神分析が未だそういうレベルのものであるということを理解していれば、それを何とか立派なものにしようと加勢しても、目くじら立てて罵倒する必要はない。おそらく、そうした批判者は、はじめ限りなく精神分析に憧れ、そして一時的には精神分析をかじってみたが、自由に使いこなせるレベルに届かなかった人達ではないだろうか?

  人の心の苦しみを数値化したり、人間関係の信頼度を数値化したりすることができれば、それに越したことはないが、現状においてそれはアニメの世界である。だからと言って、私は精神分析に実証性が要らないと主張するつもりは毛頭ない。おそらく、最も簡単に数量化できるものは、治療の効果であろう。治った、治した、という事実を数量化すれば、これほど実証的なものはない。しかし、今までの精神分析にはそんな力はなかった。いわゆる神経症の心のからくりを理解することで、精一杯だったのである。それでもって、精神分析はすごいと自惚れるから、行動療法や認知療法に追いつかれてしまった。しかし、これからが精神分析の本領発揮である。むろん、それが精神分析統合理論であることは言うまでもない。

  すでに紹介したように、精神分析統合理論に使用されている既存の発見は(不二の法則と)感情転移だけである。フロイトの、いわゆるメタ・サイコロジーは、原則的に使用していない。ただし、フロイトの防衛論に関しては、私の制御論とドッキングできるように作成した。実際に、「心でもなく脳でもない」曖昧な概念を使用していたのでは、正確な治療経過について吟味できないし、ひいては治療経過にまで支障をきたす恐れがある。そんなことは二十年以上も前に私自身が気づいていたことである。しかし、そうなると、フロイトの発見に匹敵する、否、フロイト以上の発見がないと、新しい実用的な理論など作り上げることはできない。そこで、私は病的状態(重症人格障害)や精神病(統合失調症や躁うつ病)の治療に勤しんだ。そして、多くの発見に恵まれた。たとえば、人の感情はごまんとあるが、その中の不快な感情は二通りの動きを見せるという発見である。それが怒りと脆さの相反する特徴である。そして、何とこの二種類の情動特性が健康な心の持ち主と、心が病気に侵された人達との間の差として出現するということを突き止めた。すでに紹介した内容は、世界中どこを探しても載っていない内容である。すべて私が発見したものである。

  そこで、再び質問を発する。これらもまた、メタ・サイコロジーではないか?と。答えは、その通りである。しかし、フロイトとは状況が異なっている。私には詳細な治療経過と、若干の治療成果がある。しかも、誰よりも脳機能に関心が深い。だから、もう百年も経ったフロイト批判は止めにして、精神分析統合理論を批判すればよい。フロイト時代と同じように膨大な議論が発生しても不思議ではない。私個人の気持ちとしては、一日も早く私の理論の実証性を確認して、患者さんやそのご家族の思いに応えて上げたいのだが、周囲がまだ十分気づいていないのでは、どうすることもできない。いずれにしても、現在掲載されているような類の精神分析批判はもう古い。次なる精神分析批判は精神分析統合理論を読んで理解し、実践してはっきりとした成果を出してから行なわれるべきである。今、この記事を読んで下さっている皆さんには、すでに新しい精神分析(学)はでき上がっているということを宣言しておきたいと思う。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅱ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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