心(精神)について理解し、勉強するならば、心はどういう動き(精神力動)をするのかという点に注意や関心を向ける必要がある。なぜならば、心は一時も静止することなく、動き続けているからである。ただし、その際に、たとえ心が気まぐれに動いている場合であっても、その気まぐれは必ず一定の規則に従っているので、その規則性を見つけ出すことが大切である。つまり、知覚系や思考系、それに情動系や(意志の発動機関である)孤独型誇大的自己から発した刺激が、脳内の神経伝達経路を用いて、様々な心性を作り出していく。その際に、どういう伝達経路を用いているかという心の中の配線図とその使用経路を見つけ出すことが、心の仕組みの理解につながる。

  すでに、私は「情動系神経回路機能網」や「脳内神経回路機能網」について紹介したが、これらを理解し習得すれば、心の動きがつぶさにわかるようになる。これは余談であるが、私は患者さんから「先生と話している時は、幻聴が止まっている」と、よく言われる。その患者さんとは、かつてニッタ・クリニックで根治療法を受けていた人達はもちろんのこと、いま勤務している精神病院に入院中の患者さんも含まれる。入院中の患者さんは抗精神病薬を服用しているが、それでも幻聴は続いている。しかし、私と面接している間は、それがなくなる。その理由は、どういう心が幻聴を起こしているのか?について話し合い、患者さんがその原因になっている具体的な心性を理解すると、幻聴は止むからである。

 

          新しい精神分析療法:精神分析統合理論の臨床体験

  自分にとって大切な人や、自分の身体の一部を失った際に生ずる、心の外傷体験を対象喪失という。すでに私の両親は他界しているが、中でも父は80才を超え、しかも認知症症状が進んでいたので、父の死は私の予測の範疇にあり、外傷体験にはならなかった。しかし、68歳で亡くなった母の場合は、その死が突然だったので、相当な外傷体験を味わった。程度の差はあっても、対象喪失は生きている人に苦しみを与える。その苦しみをいかに乗り越えるか?ひとつの大きな課題である。そうした心の反応とその後のプロセスについて、小此木先生が「対象喪失」(中公文庫)という本の中で、わかりやすく説明してくれているので、私が改めて説明し直す必要はないと考える。対象喪失は、それを体験する人に「喪の仕事」(悲哀の仕事)を要求するが、そうした場合においても、やはり情動制御の程度が問題になる。故人への憎しみや恨み、それに処罰型罪悪感に囚われる場合は、攻撃系制御システムが十分機能していないことを意味するが、そうした囚われがなければ、悲しさや寂しさを中心とした脆弱系制御システムをめぐる課題だけに留めることができる。

  その対象喪失が心の問題として浮上する場合、時々「対象喪失は自己喪失をきたす」という言い方をする場合がある。そこで、今度は自己喪失をテーマにするが、この自己喪失という概念は極めて曖昧であり、使用する際には注意を要する。怒っていても、悲しんでいても、あるいはもっと正気を失っていても、やはりそれは自己であるから、厳密には自己喪失ではない。それでは、どう表現すべきか?最も適切な表現は、自己の「主体性」を失うかどうかという言い方である。そこで、主体性とは何かという疑問が生ずる。主体性については、このホームページでも「いわゆる主体性」や「現代人のさとり」の中で言及するので、それを読んでもらいたい。対象喪失の際には、一時的に対象制御因子や対象制御補助因子を失うことになるので、うぬぼれ(開き直り)や、お節介(利他主義)でもって主体性を維持することになる。しかし、すでに情動制御がしっかりしていれば、まもなく制御因子は回復し、再び許しの環や救いの環が機能するようになる。むろん、主体性を失えば、様々な病的同一化などが活性化してきて、症状形成につながる危険性があるので、日頃の精神衛生が肝心である。

 

           新しい精神分析療法:精神分析統合理論の臨床体験

  精神現象を(生命現象の範疇に含めるという視点からではなく)社会現象の範疇に含ませることによって、産業精神医学という領域を設けることが可能である。しかし、当サイトにおいては、そうした視点からの議論を積極的に行なわなかった。その理由は、精神現象に関する基本をしっかりと理解すれば、いかなる状況においても、それを応用することが可能であり、それぞれの集団に見合った理解と対策を講ずればよいという、かなり高みの見物的なポジションを維持してきたからである。あくまでも、私の立場は医療側にあり、その対象は患者とそのご家族にあり、企業側にはない。つまり、企業の苦悩を解消する側にはいないのである。しかし、実際に職場で様々な問題が生じ、それをどう解決したらよいか、全く見当もつかないという状況が多発している。そこで、この記事はそうした点で悩んでいる様々な企業の管理職に対して、多少の理解を促し、対策の参考にできるという趣旨で作成した。むろん、そうは言っても、個別的なケースに対する具体的な指示ではない。そうではなく、様々な精神障害を持つ人達の、会社で取りやすい言動について紹介し、その紹介からある程度の目星(診断)をつけることができるようになれば、あとは当サイトの他のところに記載した内容に該当させて理解を深め、対策を講ずることができると考える。

  機能性精神疾患のうち、精神病であるのは統合失調症と躁鬱病である。(「機能性」に対峙する言葉は、「器質性」である。今日における器質性精神疾患の代表は「認知症」である。)統合失調症と躁鬱病の原因は共有されているので、この両疾患の間には様々な移行部分があるが、それを考慮しなくても、だいたい区別することが可能である。統合失調症の特徴は幻聴にあり、それがすべての社会生活の弊害になる。それゆえ、(わけもなく)出勤拒否に陥り、家庭でも自室に閉じこもる傾向が強い。一般健康人とは、その言動が大きく異なるので、違和感を覚えやすく、観察する側の判断が間違うことは少ない。これに対して、躁鬱病は気分変動の激しい精神病である。躁鬱病は鬱病相と躁病相とを繰り返す傾向があるので、その変化に注意すべきである。鬱病相では黙って動かず、仕事もはかどらないので、欠勤(休職)しがちである。それに対して、躁病相は人によってかなり異なっている。ハチャメチャで、明らかに逸脱しているというケースから、何の支障もなく、仕事も人一倍スムーズにこなすというケースまである。特に、知的な仕事に従事している場合は、時に際立った能力を見せることがあるが、対人的にも厳しく、軽蔑的である。しかし、些細なつまずきで、いきなり鬱病相に突入する場合があり、そうした変動から区別がさほど難しい疾患ではない。

  病的状態(重症人格障害)のうち、攻撃系病的状態に属する疾患群は、境界性、演技性、反社会性、強迫不全性人格障害の四疾患群である。それぞれの疾患に関する特徴については、当サイトでのそれぞれの項目に該当する紹介を参考にしてもらいたい。ここでは、企業体が参考にできる特徴について言及するが、これらの疾患群に罹っている人達は、どこか一箇所の会社に長く勤めることは難しい。つまり、転々と職を変えるという特徴がある。その理由は、欲求不満耐性(忍耐力)が低いからである。だから、採用時に注意すべきである。また、会話は滑らかで、対人的には全く支障がないかのように見える。その理由は、他人に悪い印象を与えないために、必死に取り繕う傾向があり、そうした能力も備わっているからである。いわゆる「ぶりっ子」である。そのくせ、第三者同士を不仲にさせる天才的な能力を発揮することがある。たとえば、Aさんに対して、「Bさんは、あなたのことを良く思って(良く言って)いない」と言い、今度はBさんに対して「Aさんは、あなたのことを良く思って(良く言って)いない」と言う。すると、いつの間にか、AさんとBさんは仲が悪くなってしまう。そういう風に持ってくる才能がある。さらに、長袖ばかり着る人は、手首切りを隠しているかも知れないし、「必ず、返すから」と言って、金銭を騙し取る場合があるかも知れない。

  病的状態(重症人格障害)のうち、脆弱系病的状態に属する疾患群は、統合失調質、統合失調型、妄想性、受身的攻撃性人格障害の四疾患群である。それぞれの疾患に関する特徴については、当サイトでのそれぞれの項目に該当する紹介を参考にしてもらいたい。ここでは、企業体が参考にできる特徴について言及するが、いずれの疾患も対人的にひきこもりやすいので、たとえば機械的な流れ作業を好む傾向が強い。その理由は、対人的に「優劣」関係を作りやすいからである。ただし、欲求不満耐性(忍耐力)はあるので、転々と職を変える傾向は少ない。あまりストレスを与えなければ、むしろ、長く会社に留まる人の方が多い。しかし、すぐに緊張して、言動もぎこちないという特徴がある。おそらく、会社での困った人達になりやすい最も可能性の高い疾患群のひとつが、脆弱系病的状態の中の妄想性人格障害であろう。なぜ、この疾患が企業体の苦悩になるか?それは、自分のミスをすべて正当化し、他人のミスをひどく責めるからである。この疾患を持つ人が、もし個人的に何か注意されると、それをすべて自分への悪意と見なし、半永久的に恨み続けるし、もしそれを集団的に行なった場合は、訴訟も辞さないという構えを見せるだろう。だから、対応が厄介である。できれば、攻撃の矛先を企業体以外の所へむけさせればよいが、はたしてうまくいくかどうか、難しいところである。

  防衛状態(軽症人格障害)に属する疾患群は、焦燥性、強迫性、回避性、ヒステリー性、自己愛性、依存性人格障害の六疾患群である。それぞれの疾患に関する特徴については、当サイトでのそれぞれの項目に該当する紹介を参考にしてもらいたい。ここでは、企業体が参考にできる特徴について言及するが、防衛状態に属する疾患群は、病的状態に属する疾患群よりも、企業体の被る迷惑度は少ない。おそらく、問題になるのは、焦燥性人格障害と自己愛性人格障害のふたつではないかと考えられる。焦燥性人格障害を持つ人は、いつもカリカリしていて、時々、罵声を浴びせるので、周囲がピリピリしていなければならないという雰囲気を作り出す。しかし、それでも何かの拍子でご機嫌になり、柔和な一面も見せるので、付き合いにくい人という程度で済ますことができるかも知れない。自己愛性人格障害は、すべての人格障害の中で、最も自己中心性を求める人である。羨望が強く、批判的ではあるが、能力的には優れている人が多い。おそらく、個人的に付き合うには、なかなか苦労はいるが、この手の人は企業体に同一化しやすい傾向が強いので、企業体そのものと対立することは少ないように考える。他に、強迫性人格障害の人は、その完璧主義に他人を巻き込むし、回避性人格障害の人は、いざという時には役に立たないし、ヒステリー性人格障害の人は仮病になりやすいし、依存性人格障害の人は愚痴っぽい。

 

          新しい精神分析療法:精神分析統合理論の臨床体験

  ある種の問題を抱えた精神障害者を、時々「処遇困難例」と言う場合があるが、これは精神科の診断名でもなければ、疾患名でもない。また、ある種の問題と言っても、その中にはいろんなものが入っている。たとえば殺人や傷害などの犯罪を起こした場合は、法的な(刑法上の)問題が生じてくるので、それを「触法精神障害者」という別名で呼ぶ場合が多い。今ここで取り上げるのは、むしろ法に触れない(触れても軽犯罪のレベルに止まる)精神障害者の起こす問題についてである。

  現実に、何十回も入退院を繰り返している患者は、いわゆる「処遇困難例」になりやすい。症状診断的に見れば、アルコールやギャンブル、それに覚醒剤などの物質依存、あるいは脅迫や暴言、それに暴力などの衝動行為、さらには手首切りなどの自傷行為や摂食障害、それに盗癖(窃盗)や性的偏倚(性倒錯)など、周囲を巻き込んで、その対応を困難にさせる場合が多く、疾患形成から見れば、(病的状態)重症人格障害に発生する症状群を持つ患者が、処遇困難例になりやすい傾向がある。

  さらに、診断的な特徴を追加すれば、脆弱系病的状態(統合失調質人格障害、統合失調型人格障害、妄想性人格障害、および受身的攻撃的人格障害)は自宅でひきこもる傾向が強いので、救急外来を訪れることは少ないが、攻撃系病的状態に属するすべての疾患群、つまり、境界性人格障害、演技性人格障害、反社会性人格障害、そして強迫不全性人格障害は、時々、警察の世話になりながら、救急外来を訪れることが多い。

  それでは、誰が処遇困難に思うか?まず、患者の家族が対応に困り、次に、精神病院が困る。家族が困るということは、患者の破壊衝動を抑えることができないからである。また、精神病院が困るというのは、そうした破壊衝動を病棟内に持ち込まれ、他の患者を巻き込んで、その破壊衝動を発散させようとするから、その看護と管理を行なっているスタッフが、その収拾に追われ、それだけでくたばってしまうからである。だから、そうした患者には、ほとぼりが冷めたら、さっさと退院して頂く。つまり、処遇困難例と銘打たれた患者は、家庭にも病院にも適応できず、まるでピンポン球のように、家庭と病院を行ったり来たりしている存在である。

  いわゆる処遇困難例の患者を除けば、精神病院はけっこう平穏である。しかし、短期入院システムの導入によって、その平穏さは次第に切り崩されてきているので、その代りに、認知症の入院受け容れは経営維持にとって必須の条件である。これも時代の要求に合わせた精神病院の生き残り作戦であるが、それと同時に、上記のいわゆる処遇困難例もまた精神病院にとっては貴重な患者になりつつあるという皮肉な現実が生まれようとしている。なぜならば、「さっさと退院」という精神病院側の思いと、短期入院システムとは調和しているからである。だから、そうした患者を数多く入院させている精神病院は、「うちこそ、本当の精神科医療の担い手である」という思いを抱き始めているようだ。

  ところで、もし私が「処遇困難例」を「治療困難例」と呼んだら、精神病院のスタッフはおもしろくないかも知れない。処遇困難例と言うと、(厚生労働省のバックアップもあって)「大変な患者のお世話をしている」というニュアンスが強いが、治療困難例と言うと、(すでに精神病は新薬で治せるという思い込みもあって)自分達の医療のほころびを指摘されている、つまりケチをつけられているような思いにならんとも限らない。しかし、私から見れば、「認知症で維持」「新薬で維持」そして今や「短期入院で維持」という「維持尽くし」のように感じられる。認知症は仕方がないにしても、精神病や病的状態は「治癒」せしめられるべき疾患群である。むろん、精神病院は役に立っていないなどと言うつもりは毛頭ないが、しかし、少なくとも、治すための精神科医療があってもよいという純粋に精神医学的な思いを持ってもらいたいものである。そうしないと、精神科医療は、医療従事者の生活のためだけのものになってしまうような気がしてならない。

 

          新しい精神分析療法:精神分析統合理論の臨床体験

  「精神病の原因は、まだわかっていません。」精神病に関する医療機関の案内を見ても、必ずこのような断わりの文が出てくる。しかし、原因がわからないのにもかかわらず、精神病の治療について検索してみると、そこには沢山の治療法が紹介されている。これは一体どうしたことか?と呆れるばかりであるが、はたして精神病を我が子に持つ家族は、そうした状況をどう考えているのだろうか?精神病の原因がわからないという多くの理由は、それを遺伝子や神経伝達物質に求めているからだろうと思われるが、精神科医療サイドにいる者の思いとしては、毎日の忙殺された生活から、ついつい「そんな事はどうでもよい!患者が落ち着いているのだから、それでいいじゃないか!」と思いたくなるようである。しかし、それでも出る所へ出て、改めて質問されれば、やはり「精神病の原因は、まだわかっていません」と答えるに違いない。精神分析に「疾病利得」という言葉があるが、それは病気になって得をするという意味である。そういう意味で、上記の「わかっていません」は、「不明利得」のようなものである。

  これに対して、私の場合は事情が大きく異なっている。すでに精神病の成因を解明し、治療法を確立した。精神病は許しと救いの両方が欠乏しているために生じてくる。すでに私は許しの心や救いの心の作り方を知っていて、それを使えば精神病は治る。だから、許しと救いは立派な原因である。精神病の成因が、許しと救いの心の欠乏にあり、それは治療的に十分治せるものであるという立場に立つと、精神病の原因は「環境」に依存しているということになる。その環境を問題にすると、多くの患者にとっての唯一の環境は「家族」である。つまり、家族こそ、精神病形成の担い手である。もし家族に許しと救いの心が旺盛にあれば、その家族から精神病を発生させることはない。もっとズバリ言えば、「この親にして、この子あり」である。もう一度、話を戻して考えてみたいが、遺伝子や伝達物質などが原因であるという見解は、患者の家族にどういう思いを起こさせるか?絶望感か?それとも諦めか?もし「絶望しても諦めることはない!」と答えるならば、私の実践理論を知って、どう思うだろうか?確かに、私の実践理論には、まだ検証が必要ではあるが、今までなかった治癒への「光」であることは間違いない。しかし、その実践理論が示す精神病の原因が家族であると言われた場合、それを受け入れることは可能だろうか?

  「二人の分析医が同時に治療する」という「二股療法」(あるいは「二重療法」)は、精神病根治療法の究極であるが、この方法を思いつくまで、私はずっと患者の家族に協力を求めた。幸いにして、患者の完治した家族は見事に「改心」した。しかし、不幸にして、治療が中断した場合、患者の家族は私の見解を否定した。最も痛々しかったのは、患者の要求に沿って変わろうとしても変われず、ついに発病した家族であった。むろん、私はその応急にも追われたが、限界に限界を重ねた結果、私はその家族から、もっと距離を置いた治療法を思いついたのだった。激しい苦闘の末、私は家族の持つ問題点を探り当てた。私が得た結論は(家族に巣食っている)二つの無意識的心性であった。そのひとつは「責任回避」であり、もうひとつは「うぬぼれ」である。回避は反撃の使用を困難にする。家族の(患者への)反撃のなさは「憎み合う」治療関係からの脱出を不可能にした。また、うぬぼれは(患者への)共感の使用を困難にする。共感のなさは「救いのない」治療関係からの脱出を不可能にした。おそらく、精神療法をしっかりやっている臨床家は、いま私が話した内容にうなずくだろうが、精神病根治療法が確立した今となっては、患者の家族もまた自分の病的な心性に無関心ではいられなくなってきているということを、しっかりと認識してもらいたい。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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