一、二種の情動

  たとえ、どのような心の苦しみであっても、その原因は「悪い情動」と呼ばれる怒りや憎しみの処理と、「弱い情動」と呼ばれる寂しさや惨めさの処理に関するテーマへと集約される。それは、不安や焦燥であっても、絶望やうつであっても、あるいは無気力や離人感であっても、さらには幻覚や妄想であっても然りである。もし何らかの精神的変調が生じた場合、メンタル・クリニックや心療内科に相談し、その相談した主な症状に対する(向精神薬の)投薬を受けるのが一般である。そして、それによって症状が軽快すれば、そのうちに服用を忘れてしまう。しかし、再びストレス状況下に曝されると、また同じような症状がぶり返す。なぜならば、それは上記の原因、つまり二種の情動が健全にコントロールされていないからである。

  なぜ、そのように言えるのか?これは、私の治療体験から引き出された有力な見解である。鋭敏な治療能力を持つ「治し屋」と呼ばれる優れた治療者であれば、私のこの見解に反対しないだろう。精神分析によって、まるで玉葱の皮をむくように、症状形成や防衛機制などの層を取り除いていくと、最後には(二種類の情動として規定できる)怒りや憎しみ、それに寂しさや惨めさが現れる。むろん、我々は日常的に沢山の感情を体験するが、その中の不快な感情は二種類の情動に集約される。こうした事情は、複雑な精神現象を繰り広げる人間よりも、むしろ動物の場合が観察しやすい。もしある動物が見知らぬ存在と出会った時、その動物は二通りの反応を示す。それは、威嚇するか、それとも逃げるか、のどちらかである。威嚇は怒りが原因であり、逃亡は惨めさが原因である。しかし、人間の場合は、そうした動物的本能を包み隠す大脳皮質が発達しているので、複雑な反応としての防衛機制や症状形成になる。

 

  二、二種の情動特性

  怒りや憎しみなどの悪い情動の処理の仕方と、寂しさや惨めさなどの弱い情動の処理の仕方を観察すると、それらには極めて特徴的な性質(情動特性)のあることがわかってくる。たとえば、怒りの場合、「自分が怒ると、相手も怒る」と思う場合と、「自分が怒っても、相手は怒らない」と思う場合がある。前者の場合は、自分の怒りが相手に拡散する傾向を示すが、この認知の仕方はまさに動物や、精神に異常をきたしている人間に見られる。これに対して、後者の場合は、自分の怒りが相手に拡散せず、自分の中で収斂する傾向を示すが、この認知の仕方は認識(の形成)と呼ばれ、正常な精神を持つ人間に見られる。また、たとえば惨めさの場合、「自分は惨めでも、相手は惨めではない」と思う場合と、「自分は惨めだが、相手もまた惨めである」と思う場合がある。前者の場合は、自分の惨めさが相手に伝わらず、自分の中で収斂する傾向を示すが、この認知の仕方はまさに動物や、精神に異常をきたしている人間に見られる。これに対して、後者の場合は、自分の惨めさが相手に伝わり、相手もまた惨めさを共有する傾向を示すが、この認知の仕方は認識(の形成)と呼ばれ、正常な精神を持つ人間に見られる。

  これらの情動特性を、より専門的な別の言葉で表現すると、悪い情動の他者拡散傾向と弱い情動の自己収斂傾向は、我々の情動に関する認知内容であり、それらは精神(心)の異常を示す所見であるのに対して、悪い情動の自己収斂傾向と弱い情動の他者拡散傾向は、我々の情動に関する認識内容であり、それらは精神(心)の正常を示す所見である。そして、これらの内容こそ、我々人間の心の正常と異常とを区別する唯一の所見であり、すべての苦悩、つまりいかなる症状であっても、いかなる疾患であっても、その根底に存在する最も重要な課題である。

 

  三、許しの環と救いの環

  それでは、どうすれば、怒り(悪い情動)や惨めさ(弱い情動)などのつらい思いを、異常(動物)心理として処理するのではなく、正常(人間固有)心理として処理することができるか?そのためには、相手(他者)の力(健康な心)を借りなければならない。どういう力か?もし自分が怒った場合(悪い自己が活性化した場合)は、相手が謝って改善してくれれば、自分の怒りは治まる。また、もし自分が惨めに感じた場合(弱い自己が活性化した場合)は、相手がその惨めさを共有してくれれば、自分の惨めさは治まる。前者は謝罪的対象(対象制御因子)の力であり、後者は理想的対象(対象制御因子)の力である。

  それでは、逆に、相手から怒られた場合はどうか?もし相手の怒り(悪い対象の活性化)が適切な場合は、謝罪的対象を取り入れ、それに同一化して作り上げた謝罪的自己(対象制御補助因子)でもって、自分が謝罪し改善しなければならないが、もし相手の怒りが不適切な場合は、反撃しなければならない。この場合もまた相手の反撃の仕方(反撃的対象)を取り入れ、それに同一化して作り上げた反撃的自己(対象制御因子)を使用する。つまり、自分の言動に問題があって、相手から注意や叱責を受けた場合、もしその注意や叱責を非難として受け止めれば、それは怒りの他者拡散傾向に該当するので、異常心理が発生する。これに対して、もしその注意や叱責を相手の反撃、つまり反撃的対象(対象制御補助因子)として受け止めれば、それは怒りの自己収斂傾向に該当するので、正常心理が発生する。

  次に、相手が惨めさを訴えた(弱い対象が活性化した)場合はどうか?この場合は、理想的対象を取り入れ、それに同一化して作り上げた誇大的自己でもって、相手の惨めさに共感できなければならない。これが共感的主体性である。ただし、相手に存在する惨めさが、何の手も加えられずに表出されれば問題はないが、その相手が自分の惨めさを隠しながら、不遜な態度や傲慢な態度を示す場合があるので、注意を要する。そうした場合、隠された相手の惨めさに共感することができないので、相手の惨めさを相手の怒りに変換し、それを処理するために反撃的自己を使用する。その反撃的自己は誇大的自己を活性化するという特徴(反撃的主体性)を持っている。ところが、もし相手の不遜や傲慢に対して、そうした適切な対応ができなければ、相手が隠しているように、自分もまた惨めさを隠したり、相手の不遜や傲慢から生じた自分の怒りを適切に処理できなかったりして、異常心理が発生する。

  怒りと惨めさの正常な処理の仕方について、もう一度、心の動き(精神力動)を整理して説明し直すと、自分の怒りが謝罪的対象を活性化し、相手の怒りが反撃的自己を活性化する。このパターン、つまりこのサイクルが回り続ける状態を、許しの環と呼ぶ。また、自分の惨めさが理想的対象を活性化し、相手の惨めさが誇大的自己を活性化する。このパターン、つまりこのサイクルが回り続ける状態を、救いの環と呼ぶ。

 

  四、複合拘束

  精神が健康な人には、許しの環も救いの環も複数存在する。たとえ精神分析によって、ひとつの許しの環を作っても、あるいはひとつの救いの環を作っても、それだけでは適切な社会生活を営むことは困難である。つまり、ひとつだけでは健康度が弱く、異常心理の勢力に負けてしまう。そこで、それらを二つ以上作る必要がある。このことは、反撃的対象や理想的対象の持つ性質が複数存在することからも説明可能である。一般に、人が反撃する時は、反撃される人の言動が不適切であり、その人の問題意識を高めようとする場合である。精神分析で言えば、患者の病理に関する反撃である。その他にも、たとえば関係のあり方が限界に達し、修正や改善がなければ、関係そのものが破綻するといった場合である。患者の家族関係は、そうした限界状況にある場合が多い。また、理想的対象の性質も複数存在する。理想的対象の理想的という意味は、人の持つ善良な性質を示すが、その中でも特に、すなおさとまじめさが重要である。これらもまた相手から取り入れられる性質であり、自然発現してくる類のものではない。これらの重要な性質のひとつひとつに、許しの環の形成と救いの環の形成が必要である。

 

  五、疾患形成

  許しの環と救いの環が、それぞれ幾つずつ存在するかによって、機能性精神障害の分類、つまり精神科の病名を決めることができる。したがって、保有する許しの環と救いの環の数が、精神構造(人格構造)を決定する。

  統合失調症や躁うつ病のような精神病では、許しの環も救いの環も存在しない。統合失調症と躁うつ病との区別は、正常心理によるものではなく、異常心理(気質や防衛の流動化など)によるものである。

  疾患群が八個存在する病的状態(重症人格障害)では、許しの環と救いの環の、いずれかひとつが存在するグループに二大別できる。ひとつは、救いの環がひとつ存在する「攻撃系」病的状態であり、その中には、境界性、演技性、反社会性、強迫不全性人格障害の四疾患群が入る。もうひとつは、許しの環がひとつ存在する「脆弱系」病的状態であり、その中には、統合失調質、統合失調型、妄想性、受身的攻撃性人格障害の四疾患群が入る。また、四疾患群ずつの区別は正常心理によるものではなく、異常心理(気質や防衛機制など)によるものである。

  疾患群が六個存在する防衛状態(防衛人格障害または軽症人格障害)では、許しの環と救いの環の、いずれもひとつずつが存在する。その中には、焦燥性、強迫性、回避性、ヒステリー性人格障害(「攻撃系」防衛状態)と、自己愛性、依存性人格障害(「脆弱系」防衛状態)が入る。この六疾患群の区別は正常心理によるものではなく、異常心理(葛藤や病的同一化など)によるものである。

  精神的に健康な人の場合は、許しの環と救いの環のいずれかが、ふたつ存在し、もう一方が、ひとつ存在する。許しの環も救いの環もふたつずつ存在する人は、よほど精神的に健康な人である。ちなみに、さとりをめざす時には、ふたつずつが必要である。

 

  六、根治療法

  言うまでもなく、治療者は精神的に健康でなければならない。従来の精神分析において、治療可能であった疾患群は、上記の疾患群のうちの防衛状態である。防衛状態にある患者は、断続的に社会生活(就労)が可能であるため、ひとつの治療でも治癒せしめることは可能である。なぜならば、治療者以外の人(治療外対象)からも、対象制御(補助)因子を取り入れることができるからである。ところが、病的状態や精神病では、社会生活(就労)が困難な場合が多く、治療外対象が家族のみといった現状にある。むろん、様々な精神科リハビリテーションを利用している患者も多いが、それらは病気そのものを治癒させ得るものではない。そのような患者を、ひとつの治療で治癒させることができるか?と言えば、よほど家族が改心しない限り、不可能である。たとえ家族の参加や協力があっても、ほとんど有効な治療外対象として機能しないので、もしひとつの治療だけを行なったとしても、その治療関係は、憎み合う関係や救いのない関係に陥ってしまい、そこから脱出することは困難になる。そこで、もし二人の治療者による、ふたつの治療を同時に行なえば、治療関係は相対化され、許しの環や救いの環が作り易くなり、ひいては治癒につなげることができるようになる。二人で治療すれば、治療者の能力もごまかせなくなるし、治療効果もより鮮明なものとして捉えることができるようになる。

  以上の内容を理論化し、技法化した前人未到の書こそ、精神分析統合理論である。

 

                       精神分析統合理論の大綱

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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