器質性という概念には、機能性という概念が対峙する。器質性の場合は、脳に非可逆的な変化が生ずる。つまり、神経細胞(ニューロン)が死滅する。最近の動向では、認知症が器質性精神障害の代表になりつつあり、認知症患者の精神病院への入院が増加している。なぜ、認知症が精神病院に入院するのか?認知症の主症状は健忘であるが、それに伴って混乱が生じ、様々な精神症状が出現するので、その言動を抑制する必要があるからである。それでは、その治療は可能なのか?すでに死滅したニューロンを生き返らせることはできないので、根治療法は不可能である。したがって、まだ生きているニューロンをできるだけ死滅させないようなリハビリテーションを行なうぐらいの治療しかない。だから、できるだけ認知症にならないように注意すべきである。それでは、はたして認知症の予防は可能か?遺伝性の認知症の場合は、その発症を防ぎ切れないが、遺伝性ではない場合においては防ぐことができる。どのようにして?それは、とにかく脳を使えばよい。ただし、あくまでも情動制御をしっかり形成し、維持する方向へ、脳を使用することが重要である。

  機能性という場合には、まだニューロンは生きている。しかし、人によって、よく使われるニューロンと、あまり使われないニューロンとの間に差がある。よく使われるニューロンは近くのニューロンに側枝を出してネットを張り、お互いのニューロンが刺激し合って長く生き残る。それに対して、あまり使われないニューロンは入力刺激が少ないので、その出力刺激も貧弱である。休んでばかりいるニューロンはそのうち死んでいく。何か課題が発生し、それを解決するはずのニューロンが、普段あまり使われないニューロンであれば、その入力刺激をどのニューロンに伝達したらよいか、わからなくなってしまい、その処理には関係のないニューロンを刺激し、解決すべき課題を大きくしてしまう。そうした場合は、当然、混乱が生ずるが、それを「心因が発生した」と言ったり、心因反応と呼んだりする。つまり、心因反応とは使用する神経伝達経路が課題を解決するように機能しないということを示している。それゆえ、別の神経伝達経路を使えるようにしなければならないが、こうした場合もまた情動制御がしっかりしていない場合に発生するので、それを形成し、維持する方向へ脳をトレーニングする必要がある。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

  巷でよく使用されるストレスという言葉は、外因(環境要因)によって発生する疲労や身体的な異常(自律神経失調症など)を指す場合が多いが、ストレスが精神障害に直結する場合もあれば、そうでない場合もある。たとえば、PTSD(外傷後ストレス障害)の場合は、心的外傷というストレスが解離性障害を中心とした精神障害を起こしてくる。しかし、多くの場合に使用するストレスという言葉は、どちらかと言うと軽い精神的負担をきたす場合に使用されるが、ストレスが心因(葛藤)を発生させる契機になる場合もある。それでは、ストレスがいわゆる内因性精神障害、つまり精神病を発生させることはあるか?内因という用語には(未だはっきりしないが)遺伝的、身体的要因が存在するという想定がある。それゆえ、ストレスが精神病の発生に直結することはない。確かに、情動制御の形成においても、環境因だけではなく、遺伝因もまた否定できないので、内因という用語の存在がすべて否定されたわけではない。最近の動向では、何でもかんでもストレスであると決めつけがちであるが、ストレスという用語は、わかっていることでもわからなくしてしまう傾向を持つので、注意を要する。

  パニックという用語も、ひとつの流行である。一般に、繰り返される心的外傷をパニックとは言わず、繰り返される不安(発作)をパニックと呼ぶことが多い。つまり、不安神経症を中心とした症状群を発生させる契機をパニックと呼ぶ。パニックを精神力動的に(神経伝達の特徴として)捉えると、多くの場合、脆弱系に自己解離が生じている。すでに紹介したように、自己解離には自然漏洩と強制漏洩が存在するが、パニックの発生は強制漏洩である。(通常、心的外傷の場合は、強制漏洩の他に、対象防衛因子である誇大的対象や処罰的対象もまた機能しているが、パニックのような不安発作の場合は、弱い自己を活性化させる強制漏洩だけの場合が多い。)たとえば、広場や高所、それに閉所などが強制漏洩を起こす外因になりうる。最近では、あまり神経症という言葉を使用せずに、ストレスやパニックなどという言葉を使用するようであるが、言葉を変えたからといって、その発生メカニズムが変わるわけではない。むろん、使いやすい言葉を使用して構わないが、パニックの発生メカニズムとして「不安こそ解離である」という情動制御から産出された、心の科学に通ずる精神力動についても理解してもらいたいものである。

 

           新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

  孤立と孤独とは、一人でいる時の精神状態に違いがある。孤立の場合は、自己防衛因子である理想的自己が活性化し、孤独の場合は、自己制御因子である誇大的自己が活性化する。一人でいて、孤独が孤立に移行することはあるが、孤立から孤独に移行することはない。それは、情動系神経回路機能網のあり方から明らかである。たとえば、ある人がある状況で孤独を楽しんでいたとしよう。そのうちに、その楽しみは失せ、だんだん心細い気持ちになり、今度はその気持ちを払拭するために、何かゲームなどをする。こうした一連の精神力動を刺激伝達経路で示すと、誇大的自己→弱い自己→理想的自己である。これに対して、孤立した精神状態から孤独を取り戻すためには、理想的自己→誇大的対象→弱い対象→誇大的自己という刺激伝達が必要になる。この刺激伝達経路は、巻き込み拘束(お節介または利他主義)の精神力動であるから、この経路を活性化するためには、他者が必要になる。つまり孤立は孤独に移行しない。

  孤立はひきこもりであり、ひきこもりの精神力動についてはすでに紹介している。これに対して、一人でいることを積極的に楽しもうとする孤独については、ウィニコットに「一人でいられる能力」という論文がある。たいへん興味深い論文であり、私も気に入っている論文のひとつである。ここでは、私の考えを少しだけ付け加えることにする。たとえば「ちょっと、考え事をしたい」と思って、一人になる場合がある。これもまた孤独である。積極的に一人になろうとする場合は、すでに誇大的自己が活性化していて、何らかの作業をしたいと思ったり、あるいは好みのスタイルでボーとしていたいと思ったりする。さらには、すでに活性化していた誇大的自己の勢いが弱まってきて、その回復を図ろうとして一人になる場合もある。作業をしたり、寛いでいたりする時の孤独はありふれているので説明は要しないが、問題は誇大的自己の勢いが減少してきている場合である。むろん、この場合は情動制御の回復を取り戻そうとしているが、その際に重要なことは、自分にとって有意義な他者の主体性を蘇らせることができるかどうかである。つまり、理想的対象、謝罪的対象、反撃的対象の活性化が生ずれば、孤独を利用した目的は達成したことになる。いずれの場合においても、目的が達成すれば、誇大的自己から葛藤外領域に抜けて、実際の対人関係に戻る。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

  「とらわれ(こだわり)のない心」という記事の中で、間主観性理論と関係性理論のどちらを選ぶかというテーマについて、その答えを「いずれでもよい」とした、私の考えについて若干の注釈をつけておきたい。話をわかりやすくするために、精神分析統合理論の中の「救いの環」を例に挙げる。すでに紹介したように、救いの環の精神力動(刺激伝達様式)は、「弱い自己→理想的対象→弱い対象→誇大的自己→弱い自己」である。換言すれば、この精神力動は、「弱い自己−理想的対象」と「弱い対象−誇大的自己」の、ふたつのユニットから構成されている。前者の「弱い自己−理想的対象」ユニットを形成する場合は、惚れ込みの体験が必要であり、そのプロセスは極めて間主観的な治療体験である。これに対して、後者の「弱い対象−誇大的自己」ユニットを形成する場合は、患者(自分)が治療者(他者)の限界(弱点)に気づく体験が必要であり、そのプロセスは「二者関係」的な治療体験である。つまり、救いの環は、間主観性理論と関係性理論のいずれの視点をも盛り込まなければ、形成されないということが理解される。

  ところで、間主観性理論も関係性理論も、古典的な精神分析からの脱皮を試みた実践理論であり、その動機や趣旨は極めてわかりやすいものである。しかし、何だかちょっと焦点がぼけているような印象を抱く。それは、なぜか?たとえば、「何をどのように食べさせるか?」と問うた時、まずは「何を食べさせるか?」であり、次に「それをどのように食べさせるか?」である。この問いに上記の議論を該当させると、「何を」は、救いの環であり、「どのように」は、間主観性理論と関係性理論である。したがって、間主観性理論と関係性理論は、あくまでも第二義的な議論である。それを、まるで第一義的な議論であるかのように扱うから、焦点がぼけているような印象を抱くのである。たとえ古典的な精神分析から脱皮したとは言え、(もし精神分析統合理論が存在しなければ、)心は未だほとんど解明されていない状況である。そうした現状においては、やはり心の仕組みの解明が最優先事項である。ほんの少しばかりわかった内容に磨きをかけても、それは目的地を知らない徘徊のようなものである。そういう意味において、今は精神分析統合理論の理解こそ、真に求められている課題である。そして、その理解に基づいて心の仕組みを十分に把握できた時には、今度は間主観性理論と関係性理論のいずれを使用するか、が課題になる。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

  仏陀は、いかなる人であっても、その人の「行ない」を見れば、その人の善し悪しがわかる、と言っている。私も基本的に仏陀のこの主張には賛成するが、それでは無条件に賛成か?と問われると、少し吟味する必要がある。賛成するにしても、反対するにしても、とりあえず「行ない」を規定する要因は何かということを理解しなければならない。一般に「行ない」を問題にする場合、それは自分の行ないを意味するのか、それとも他者の行ないを意味するのか?もし誰かが、自分の行ないは正しいと主張した場合を考えてみよう。たとえ自分の行ないは正しいと主張しても、はたしてその自己申告が信用に値するかどうか?たとえば、多重人格者の場合、ある人格から別の人格へ交代すると、交代する前の自分の行ないを忘れてしまう。したがって、自分の行ないが正しいという主張は極めて疑わしい。それでは、他者の「行ない」の場合はどうか?もちろん、ちょっと会って話しただけでは、わかるはずがない。人によっては、大変まじめで有能な社員であっても、家庭では全く愛情のない人もいるだろうし、家庭では大変すばらしい親であっても、会社では全く仕事のできない人もいるだろう。したがって、人の全貌を観察するためには、その評価の対象になっている人と、終日、行動を共にしなければならない。しかし、それはたとえ家族(夫婦)であっても、不可能であろう。こうした諸々の事情を考え合わせると、単に「行ない」を見れば、と言っても、それは極めて困難な作業であることが理解される。

  しかし、それでも人の「行ない」は、その人の善し悪しを決めるという仏陀の判断は正しいと考える。その理由を、以下の図に示す。

 

            行ない
              ↑
            日常心理
              ↑ ↓
            主体性の程度 ← ストレス
              ↑ ↓
            情動制御

 

  我々の「行ない」は、我々の日常心理から発生する。我々の日常心理について理解するためには、先ずさとり(悟り、覚り)の内容を吟味することによって、さとりの輪郭をはっきりさせなければならない。その上で、次にさとり(悟り、覚り)から見た日常心理を同定し、同定されたその内容の精神力動について理解する。さとりの内容では、直観や経験、静寂や安穏、孤独や創造などの精神力動に関する解明が必要であるし、さとりから見た日常心理では、楽しさや面白さ、うぬぼれやお節介、巻き込みや焦燥、ひきこもりや躁的防衛、義務の果たす役割などの精神力動に関する解明が必要である。これらの精神力動について解明すれば、我々の日常心理は我々の主体性の程度に依存していることを理解することができるようになる。しかも、その主体性は、二つの要因から影響を受けている。ひとつは情動制御であり、もうひとつはストレスである。はたして、仏陀が私の考えを予見していたかどうか、わからないが、人の「行ない」はその人の情動制御を強く反映したものであるということである。ただし、我々は仏陀と異なり、経済的な社会生活を営まなければならない。だから、それによって、我々は様々なストレスを被る。そのストレスによって、我々の主体性は大きく損なわれる。その損なわれた姿こそ、我々の日常心理である。混沌としていて、雑多な日常生活にはびこる様々な心性を理解することこそ、我々にとって最も重要な課題である。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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