ここ一年(平成20年と21年)、私は月二回の精神科救急に携わってきた。むろん、それは夜間の仕事である。その期間中、私は患者やその家族だけではなく、その関係者である警察や役所の職員などと、多く接触してきた。まず、電話でどういう状況にあるのか?について聞き、即断し、指示を与える。この電話での即断には、結構きついものがある。指示を間違えると、えらいことになるからだ。次に、電話での対応で収まらない場合は、私の担当する救急外来に来てもらう。日によっては、数人の患者が多数の関係者らと共にやってきて、夜10時過ぎには外来待合室が一杯になることもあった。

  それでは、どういう患者が訪れるのか?大雑把ではあるが、四つ位に分類できる。第一は、初発の場合である。たとえば、精神病がいま、まさに発病して、収拾のつかない状況に陥っている場合である。第二は、最近一年以上もの間、病状が軽快していたので、通院も服薬も止めてしまっている場合である。あまりにも長く受診していなかったので、過去に治療を受けた病院への連絡を躊躇したような場合である。第三は、長期にわたって大きな病院の外来に通院しているが、現在そこの病床は満床で、受け入れることができないといった場合である。第四は、最近急速に増加したクリニック(診療所)に通院しているが、日中の決められた日時にしか連絡できないといった場合である。

  私の印象によると、本来の精神科救急に該当する第一の場合と第二の場合の受診率は極めて少ない。今まさに発病しかけた患者様の精神科受診の多くは、日中にどこかしらの病院へ新患として受診する場合が多いからだろう。それと同様に、長期間、軽快していた患者の場合においても、夜間を狙って具合が悪くなり、周囲の人達を巻き込んで救急を利用するといった場合もまた、さほど多くないようである。これに対して、第三の場合と第四の場合が頗る多い。すでに、かかりつけの病院があり、そこへは何度も入院しているが、今回は満床だから、救急へ行けと、日中の外来で作ってもらった紹介状さえ持参する患者や家族がいる。その紹介状の日付を見ると、前回の退院から、未だ三ヶ月が経っていないという事情がある。また、はやっているクリニックは日中の診療時間において沢山の患者を診察する。しかし、その患者が夜間に具合が悪くなっても、クリニックは対応しない。夜間に留守電さえ設置していないクリニックは、決して珍しくない。

  こうした様々な事情を理解しながら、精神科救急をやってみると、はたして本当に精神科救急は必要なのか?と、問いたくなってくる。なぜならば、本当にどうしたらよいか、わからずに精神科救急を訪れるというよりは、すでにかかりつけの病院やクリニックがあるにもかかわらず、そうした所が適切に対応しないがゆえに、仕方なく(あるいは、意図的に)精神科救急を訪れるという場合が、圧倒的に多いからだ。だから、その日の救急を終えた私は、いつでも「これじゃ、まるで尻拭いじゃないか!」という気持ちにさせられた。大きな精神病院では、外来患者数も多い。その患者が夜間に具合が悪くなった。その時、大きな精神病院は合唱する。「私達の病院は、救急(救急指定)病院です。ぜひ、受診して下さい」と。自分の所へかかっている患者を見守り続け、具合が悪くなったら、いつでも診療に応ずる。そんなこと、当たり前ではないか!それを、ことさらに救急と呼ぶ必要はあるのだろうか?実際には、三ヶ月限定の入院期間であり、状況によって、患者はたらい回しされることになる。また、クリニックにいたっては、日中に沢山の薬を出しておいて、夜間は全く「我、関せず!」である。つまり「調子が悪くなったら、救急へ行って!」である。これが、日本の精神科医療の現状であるとわかればわかるほど、出てくるのはため息だけである。だから、本当に「治癒」が求められるのである。しっかりとした治療をしないから、精神科救急患者が増える。そうした患者の蔓延に、厚生労働省は多額の税金を投入する。一体、何をやっているのか、厚生労働省にもっとしっかり考えてもらいたい。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅵ)

  今回は、自由について取り上げようと思うが、一口に自由と言っても、その範囲は極めて広い。様々な領域において、様々な角度から議論できるであろうが、私が取り上げることのできる自由は、現象界の中でも精神現象に関する自由である。(つまり、自然現象における自由、生命現象における自由、社会現象における自由については、私以上に語れる人の方が多いので、これらの点については言及しない。)すでに私は、精神現象について語る上で、最も重要な三つの真実について紹介した。もう一度、それらを列挙すると、第一は、不二の法則である。苦悩と自由は、不二の法則に則っている。とらわれ(こだわり)のない心とは、どういう心であり、それはどのようにして得られるか?これらの疑問に対しては、さとりに関する考察の中で明らかにした。第二は、真性ホメオ・スターシスである。情動制御と認識形成とは、「持ちつ、持たれつ」の関係にある。つまり、情動制御がしっかりしていれば、認識の内容も正しく、得た認識が適切なものであれば、それは情動制御の確立に貢献する。第三は、覚醒度である。我々は様々な現象界の中で感じ、考える機能を有しているが、それらの機能は有化(主客分離)と呼ばれる。これに対して、感じ、考えた内容に秩序を与え、かつその秩序を解除して、感じ、考える以前の現象に戻す機能を、無化(主客融合)と呼んでいる。この有化と無化との関係、つまり、有化に対する無化の割合が、覚醒度である。この覚醒度を高めることによって、不二の法則や真性ホメオ・スターシスを得ることができる。

  ところで、私は「無化の機能こそ、自由の象徴である」と考えるので、この無化機能とは何か?それは、どのようにして得られるのか?について話しておくことにする。我々は絶えず様々な現象界を観察し、体験し、そこから発生した疑問に対して研究し、学習する。こうした一連の作業を通して、我々は精神を集中させることができるし、それによって思わぬ発見や発明に恵まれることもある。むろん、これらの作業はすべて脳によって行なわれるが、観察や研究や学習のレベルを上げるということは、神経細胞(ニューロン)同士の連絡網を密にしていくことを意味する。神経細胞には、多くの末端を有する樹状突起があり、それらがまるで成長する樹木のように伸び、他の神経細胞と連絡する。神経細胞は刺激すれば刺激するほど、そうした作業を活発化する。そうしてでき上がるのが、脳内ネットである。脳内ネットができ上がれば、刺激伝達も錯綜してくるが、どんどん伸びゆく末端同士が連絡するようになると、別々のルートから伝達された刺激がそこで衝突し、新たな興奮を引き起こす。その時、我々は「わかった!」と閃くが、その連絡網からさらに樹状突起が伸び、その末端がもっと別の樹状突起と接続すれば、より高度な内容の発見を可能にする。このように、すべての人の神経細胞の数は同じでも、その神経細胞を使うか、使わないかによって、脳内ネットの量だけではなく、脳の質もまた異なってくる。つまり、脳内ネットを作れば作るほど、閃きに恵まれるので、その人は賢くなれる。そして、まさにその閃きこそ、自由の源である。したがって、無化する能力をつければつけるほど、我々は自由になれるということである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅵ)

  「老」と「死」は、自然な現象であり、「病」ではない。「老」は多くの人に共有されているし、「死」は万人に平等である。自然な現象について、何の条件も設けずに、その意義や価値について議論しようとしても、はたして上手くいくかどうか、わからない。しかも、私の専門は「病」にあり、「老」や「死」について、哲学的、宗教的な考えを披露することはしない。ただし、巷では、よく「死に方」がテーマにされやすいので、この点について、少し言及しておくことにする。

  死んだ人にとって、死に方は全く問題ではない。ところが、死ぬ人にとって、死に方は(大きな)問題であると、多くの人は考えている。死ぬ人もまだ(僅かに)生きているから、この問題は専ら「生」の中にある。死に方を「生」の問題として考える時、それは二つの視点に分けられる。ひとつは、死んでいく自分の問題であり、もうひとつは、残される人の問題である。死んでいく自分の問題は、覚悟性の有無である。覚悟とは、「いつ、どこで、どういう形で、死んでもよい」という、とらわれのない心によって生ずる。むろん、様々なとらわれがあれば、死に方も悶々としてくるであろうが、そうした内容については、このサイトのいろんな所で言及したので、それを勉強してもらいたい。残される人の問題は、対象喪失の程度である。人によっては、事故や事件に巻き込まれ、悲惨な死に方をすることもある。そうした場合、残された人は、いかにして対象喪失を切り抜けるか?これが、自分の「生」の大きな問題になる。また、身近な人に死なれて意気消沈したり、自分もまた死にたくなったり、死ぬんじゃないかと怯えたりする反応は、当然のものである。そうした思いをどう処理するか?これらの点についても、このサイトのいろんな所で言及したので、それを勉強してもらいたい。

  最後に、もうひとつ言及しておきたいことは、これから死ぬ人の、残される人に対する配慮についてである。死ぬ人の最も整った情動制御は、謝罪的自己と誇大的自己の同時活性化である。この組み合わせの具体的な心性は「感謝」である。「生」に感謝する気持ちがあったり、そうした思いを残される人に伝える機会があったりすれば、それは大変結構な配慮である。なぜならば、残される人は、死ぬ人を謝罪的対象や理想的対象として取り入れたり、再確認したりすることができるからである。つまり、死ぬ人はできるだけ自己不快因子(悪い自己や弱い自己)を活性化しない方がよい。なぜならば、残される人が死ぬ人から刺激を受けて、不快因子同士の連動性を起こす可能性があり、対象喪失からの解放に時間を要するからである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅵ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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