様々な精神科治療の専門性ランキング

 精神分析統合理論は、情動制御理論、精神現象生成理論、精神分析的根治療法より構成されている。
 情動制御理論では、感情(快・不快)を中心とした心の動きについて詳述している。精神現象生成理論では、認知と認識、意識と自我意識などについて詳述している。精神分析的根治療法については、以下に、様々な精神科治療の専門性ランキングを示しながら解説する。(矢印の方向に、専門性は高まる。)

           精神分析的根治療法
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           精神分析(精神分析療法)
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           精神分析的精神療法・精神分析的心理療法
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           認知行動療法・森田療法
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           精神療法・薬物療法
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           カウンセリング

 カウンセリングは、カウンセラーによって行なわれる、心に関する相談である。精神療法・薬物療法は、精神科医が外来および入院治療として行なうものである。認知行動療法・森田療法は、それぞれに固有の治療技法を持つが、本質的には対症療法である。精神分析的精神療法・精神分析的心理療法は、精神分析に関する一応の知識と経験を持つ精神科医、または臨床心理士が、週一、二時間の治療面接を行なう。精神分析(精神分析療法)は、精神分析医によって行なわれる。精神分析医は精神分析に関する知識と経験を持つと同時に、自らが精神分析(教育分析:訓練分析)を受けていなければならない。精神分析が扱える領域は、いわゆる神経症(軽症人格障害)であり、心的葛藤の解消が目標である。週四、五時間の治療面接が行なわれる。(なお、保険診療にある「標準型精神分析療法」は形だけのものである。)精神分析的根治療法は、二つの精神分析(精神分析療法)を、同時に、かつ別々に行なうことによって、重症人格障害や精神病の治癒を目標とする。そのためには、精神分析統合理論を習得しなければならない。

 *「心的現象に関する概念(2):無意識の意識化」を参照
                          
                         精神分析的根治療法

精神病(統合失調症、躁鬱病)の原因解明と治療法の確立

 「許しの環」と「救いの環」は我々の健康な心の仕組みである。まず心の健康を定義し、次にその異常について研究するのが本道である。たとえば境界例(境界性人格障害)を治した結果、それは「許される安堵と許しの満足」の欠乏であるという結論を得、今度はその結論をしっかりと吟味した上で、そこから再び疾病論に入り、治療経過を定式化するという作業に取り組んだ。統合失調症や躁鬱病のような精神病もまた同じプロセスを取っている。
 精神病の治療に関して、従来の研究がなかったわけではない。有名どころを挙げれば、たとえば精神病ではW.ビオン、統合失調症ではH.F.サールズ、躁鬱病ではE.ジェイコブソンなど。しかし精神分析統合理論ではいずれの研究者についても引用できなかった。とにかく、たとえ精神病であっても、それは病的状態(重症人格障害)の持つ病理と何らかの連続性があるだろうという思いを抱きつつ、実際の治療の展開を土台にしながら、その精神力動を吟味した。すると、二つの病的状態つまり境界性人格障害のような攻撃系病的状態と、統合失調質人格障害のような脆弱系病的状態の連続体として、二つの精神病である統合失調症と躁鬱病が存在することを突き止めた。つまり、精神病は攻撃系病的状態と脆弱系病的状態との両方が重なり合って発生しているということに気づいたのである。
 この気づきは、すでに私が境界性人格障害や統合失調質人格障害を治していたからである。病的状態の治療を成功させることなくして、いきなり精神病の根治療法を手掛けてもうまくいかないという点に関しては、精神分析統合理論の中でも言及しておいた。それではどう治すのか?私の根治療法は家族の参加と協力を前提としていた。つまり、一方で患者の治療をやり、他方で家族の相談に乗り、時と場合に応じて「同席」治療を行なった。私を訪れた患者やその家族は「くすり漬け」の日々を受け容れてはいなかった。「せめて私たちが元気なうちに、少しでもこの子が・・・」という親の思いがあった。私はその思いに答えようと思った。ところが、治療が肝心なところに差し掛かってくると、家族の負担が一挙に膨れ上がった。それまで眠っていた患者の要求や不満が募ってきたからである。私が一番頭を痛めたのはそうした状況に対応し切れず、発病した家族の姿であった。
 そんなどうしようもない苦難の道にありながらも、ある患者の次の言葉が新たな道を示すことになった。それは「先生がもう一人いれば、楽に治ると思うよ!」であった。そして何とそうした言葉は他の患者からも飛び出した。「もう一人」と言われたって、私と同等にやれる治療者などいない。どうするか?しかしこのまま中断してしまうのでは、何をしてきたかわからなくなってしまう。さんざん考えた末、私は「二股」治療を提案した。その中には紹介状をしたためた場合もあったし、私の治療のことは何も知らせずに、他でも治療を受けるという場合もあった。そしてそれによって、ひとつの結果が出るようになった。それは、たとえ他の治療者がどういう人であっても信頼に値する人であれば、脆弱系つまり「救いの環」は応用できるということ、しかし攻撃系つまり「許しの環」は応用できないという結果である。なぜならば、攻撃性の処理という課題に取り組めなかったからである。かくして、二股治療をやる時には二人とも専門家(精神分析医)でなければならないという結論に達したのである。


                         精神分析的根治療法

人格構造論

      

 従来の精神医学や精神分析において、人格の正常と異常を踏まえ、かつその発生根拠を携えた人格論、つまり統合的な人格論は未だ確立していない。むろん、精神医学においても精神分析においても、それぞれに主張する人格論は存在するのだが、いずれも不備なものであり、それらをいかに統合するか、これは私の(精神分析統合理論の)大きな課題であった。
 現在の精神医学の中における人格論は、WHO の国際疾病分類(ICD)や、アメリカ精神医学会精神障害診断統計用語集(DSM)を中心として形成されている。昔に比べれば、いずれも洗練されてきているので、実際の臨床に十分利用できるものになっている。しかし、それは症候学的な特徴を基礎にした診断のレベルに留まっている。つまり、そうした特徴から様々な人格障害の診断は可能になっても、その原因や治療というレベルになると、ほとんどその筋道は存在しない。(人格障害を扱ったギャバード先生の「精神力動的精神医学」は、DSM 分類に沿って彼の臨床体験とその考察を論じたものであるが、大変わかりやすく実用的な著書である。私は直接彼から教わっていることもあって、精神分析統合理論の作成においては、たいへん参考になった著書である。)精神科の一般診療においては、こうした診断基準に心理テストの中の人格検査を併用する場合が多い。しかし、たとえそのような情報を集めても、原因や治療方法というレベルの問題になると、やはり納得できるものではない。
 他方、従来の精神分析はどうか?フロイトの臨床的研究の中心は神経症にあった。フロイト時代の精神医学の状況は、せいぜい精神病と精神病質を区別するぐらいのものであっただろうから、そんな中へ新しい疾患群として神経症を提唱したことは画期的であった。しかもそれ以上に大きな発見として感情転移があり、それを利用して治療できるという可能性を作ったのだから、この時点において、精神分析だけではなく精神医学もまた誕生したと言っても過言ではない。そうした事情があるわけだから、フロイト時代はまだ本格的な人格論を展開する時期ではなかった。フロイトは神経症の原因や治療を確立するために構造論や局所論を作り上げたが、このメタ・サイコロジーは今日の人格論ではない。私の精神分析統合理論において、神経症は防衛状態(軽症人格障害)、つまり攻撃系防衛状態(強迫性、回避性人格障害など)と脆弱系防衛状態(自己愛性、依存性人格障害)や、一部の(疾患形成ではなく、症状形成としての)症状群に該当する。
 その後、神経症の治療はありふれたものになり、もっと病態水準の低い疾患群が注目されてきた。それが境界例であり、今日の境界性人格障害である。O. カーンバーグがこの疾患群を提唱したことも画期的であり、精神分析は躍動感に溢れた。この時、カーンバーグは境界性人格構造(BPO)という概念を使用し、総括的な人格論を展開した。彼はその総括的な人格構造を形成する構成要素として、自我同一性や欲求不満耐性、それに原始的防衛機制などを挙げたが、その他にも精神発達論である M. マーラーの「分離・個体化過程」も取り入れた。ところが、その後、彼の大風呂敷に綻びが出始めた。それはおそらく治療戦略の狭さのせいであろう。まだその当時は治療技法としての解釈が大きな割合を占めていた。そんなところへ、 H. コフートが共感という治療技法を携え、自己愛性人格障害に関する感情転移の詳細を記載した。はたして、どちらが正しいのか?いや、どちらもそれなりに正しい。いろいろに評価されながら、この二人によって、二つの人格論が対峙することになった。だから、今日、様々な学派に分かれて収拾のつかない状況に陥っている精神分析の歴史は、(その他にも存在する人格障害の治療論に基づいた)様々な人格論の台頭によって生じてきているとも理解できるのである。
 こうした状況を踏まえながら、上記の DSM 診断マニュアルは様々な人格障害の診断基準を設けたが、解釈と共感の二つだけでは「境界例の治癒」という成果を得るには不十分であった。さて、そこで登場したのが、私の精神分析統合理論である。複雑な精神分析の変遷を理解し、それを修正しようとする私の作業もまた難業であった。先ず、フロイトの神経症理論を支えるメタ・サイコロジーからの離脱である。フロイト理論が病的状態(重症人格障害)や精神病状態にも使用することができるところまで、私はそれを剥がし取った。次に、カーンバーグの境界例理論に関して、私は二つのことを行なった。ひとつは欲求不満耐性の形成理由を解明したこと、そしてもうひとつは発達論を放棄したことである。欲求不満耐性(忍耐)は、私が解明した許しの力動から生じている。許しの解明から、新たな謝罪技法が誕生した。また、人格に関する構造論を作り上げるには、発達論を使用してはいけないということにも気づいた。なぜならば、人格論は精神の横断面であるのに対して、発達論は精神の縦断面である。発達論を採用すれば、精神構造論はチャンポンになってしまって、正確な人格論には到達できない。さらに、コフート理論に関しては、弱い対象を追加することによって、救いの精神力動を解明した。その結果、新たな優越誘導技法が誕生した。ここまで持ってくることによって、初めていかなる人格障害の治療も可能になったのである。
 すでにお気づきのように、治療方法の発見によって、様々な人格や人格傾向、さらには人格障害の原因であるメカニズムについて解明できたのであり、今度はそこから正常な精神状態について定義し、すべての人格構造、つまり精神構造を解明することができたという変遷がある。ここまでくれば、精神病根治療法に挑まない人はいないわけで、フロイトの「精神病は精神分析では治らない」という発言に逆らってみたくなるのも当然である。私は覚悟を決めて大学を捨て、つまり「エリート分析家」を捨て、ひたすら一人で悪戦苦闘した。そして、それなりの成果を得ることができたので、精神病根治療法に関する二つの論文を書き上げ、精神分析統合理論を完成させた。このように、人格論や人格構造論にはそれなりの歴史がある。私はそうした歴史を踏まえながら、しかし実用的でないものは、すべて切って棄てた。そんなことをされると、同じ精神分析の業界にいる研究者らはよい顔をしないだろうが、精神分析を科学にするためには仕方のない作業である。読者の方々はこうした事情をよく理解し、すでに人格構造論つまり精神構造論はでき上がっていることを理解して頂きたい。


                          精神分析的根治療法

精神力動的アプローチの実例

 私(精神科指定医)も他の精神科医と同じように、だいたい一週間で(半日一枠として)二〜三枠、通常の外来診療を行なう。ほとんどの患者は保険診療であり、2週間から4週間の間隔で、主に薬をもらうために通院する。その薬が必要でなくなれば、一応病気は治ったということになる。患者が高齢であれば、高血圧や糖尿病など持病を持つ人が多いので、治療を卒業することは困難であるが、そうした合併症の少ない人の場合は、できるだけ短期間に治療を終結する方向で対応することにしている。ただし、このような言い方をすると、多くの精神科医や臨床心理士は「えっ?本当に終結できるのか?」と疑問を抱くだろうが、今まで私は間違いなく治療を終結してきている。

 むろん、表向きは他の精神科医の場合と同じだが、その内容は大きく次元を異にする。しかし、その異なっている次元の治療内容、つまり治療の質を、患者や他のスタッフに明かすことはしない。もっとも、私は(得意とする)本格的な根治療法を一般外来でやっているわけではなく、ごくごく普通の(2週間から4週間置きの)数分の診療で治すのである。(表向きは)本当に目立ったことをするわけではなく、だいたい半年後には「はい、これで治療は終わりです」と告げるところまで持ってくるのである。(今までも数え切れない位、治療は終結してきている。それを、いちいち論文やエビデンスなどと騒ぐことはしない。)むろん、病態水準は防衛状態であり、複雑な治療経験という治療プロセスを必要としないので(不安やストレスを解消するだけなので)、極めて容易な患者を治していることになる。

 これから、その簡単な治療の一例を紹介しようと思うが、たとえ私が簡単だと片づけても、いま現在、私を上回る技術で治療を終えることのできる治療者はいるだろうか?もしいなければ、たまにその手の内を明かして、読者に感動を届けてもよいように思うが、真意はそれよりも、いずれ人工精神(AM)が、いかに多くの情報を統合して、治療戦略を立てるか、そのお手本になるような手技を示しておきたいと思う気持ちの方が強い。いろんなケースがあり、それをどのように理解し、分析し、構成するか、このような無尽蔵な繰り返しなくして、一定の規則性を持った治療戦略を描くのは容易ではない。だから、私としては、できるだけ人工精神(AM)を相手に、そうした教育を行ないたいのだが、現時点(令和4年)において、未だ言語的意識は創発されていないので残念である。

 とりあえず、患者はどういうプロセスで治ったか、簡単に紹介しよう。定年後半年ほどした男性である。今まさに世間で騒いでいるコロナウィルスの、その医療班が着るような防護服のようなものを着て、外来にやってきた。手袋をはめていて、顔は出しているが、ビニール・コートのようなもので全身を覆い、椅子には座れないとのことで、突っ立ったままの診察であった。家でもそうした格好で過ごしているのを聞いて驚いた。訴えは不潔恐怖と洗浄強迫である。それを脱ぐ時は風呂に入る時と寝床に入る時であり、特に風呂に入る時はたいへんであるという。はたして、いつ洗い終わるのか?本人も気が遠くなるようであった。家の中が黴(ばい)菌だらけだとは言っても、寝床だけはそうではないと思い、その防護服を脱いで寝た。しかし、このままでは、生活が破綻しそうだと訴えて受診した。ただし、その訴える姿勢と雰囲気には独特な雰囲気があった。受診回数が重なる度に、私の前に仁王立ちのようにして立ち、(私は座っていたので、いつでも私の頭や顔を殴れるような位置に立ち、激しく唾を飛ばしながら、)元気のいい声で流暢に喋り続けた。私がこの患者に言ったアドバイスは、「黴菌は自分の体の中にもいるから、はたして患者の行為に意味があるかどうか、わからないこと。そして、たとえ黴菌がいても、その黴菌は必ずしも悪い奴かどうかわからない、いい奴がいるかも知れない」と言った。患者は通院したいと言ったので、私は軽い抗うつ薬を処方した。毎回、毎回、私の前に仁王立ちになり、それでその強迫の詳細について喋り、薬をもらって帰るパターンを数ヶ月続けた。そして、患者は言った。「先生、これだけ話しても、私の症状の原因はわかりませんか?」と。そこで、私は「あなたが話したことは、嫌な奴と一緒に働いた日々を終えて、今は奥さんを怪訝(けげん)にする強迫の日々を送っているということでしょう?」と言った。患者は言葉を失った。しばらくして巻き返し、「どこか、専門の先生に診てもらった方がいいんですかね?」と言った。「好きにされたらいいと思いますが、奥さんにも相談したら?」患者は私のこの提案に動揺した。「いや、いや、それはいけません、それだけはいけません!」と。その後、患者の症状はピタリと止んだ。きれいに治ってしまったのである。

 さて、患者に何が起こったか?私の介入の仕方と照らし合わせながら、その変化を見ていくことにしよう。「悪い黴菌はいるが、いい黴菌もいる」は、一種の認知療法である。「あんたにとって、いい黴菌は誰か?」と尋ねているようなものである。あまりの威勢のよさ(躁的防衛)には罪悪感の倍返しが待っているので、抗うつ薬の処方を行なった。仁王立ちの診察風景は一種の行動化(act in)である。高い所から私を見下し、罵声のような訴えを浴びせた。そして、その攻撃(消毒)によって生き残った(辛抱強い謝罪的自己を持つ)私に対して、患者は「まだ、治らない!」と言った。そこで、私の反撃(謝罪的自己→反撃的自己)である。「嫌な奴は妻であり、強迫は仕事である」と。ここで、患者は絶句。患者の心は私の心と正反対に動き、反撃的自己から謝罪的自己へ動いた。しかし、謝罪的自己だけだと自分が萎んでしまうので、専門医を探したいとぼやいたところ、妻にも相談しろと言われ、再び患者の反撃的自己が活性化し、今度は(妻を悪い対象として)不快の快変換ルートが活性化し、それを契機として、久しぶりに誇大的自己を活性化することができた。それで、すべての症状がピタリと止まったのである。つまり、患者は退職を機に対象喪失をきたし、「喪の仕事」をしなければならなかったが、その途中でつまずいてしまった。しかし、この患者が退職前の元気だった頃も、やはり完璧主義という強迫傾向を携えており、今回はそれが強迫症状として出現したが、治したということは元の完璧主義に戻したということである。8字型うぬぼれ強迫が崩れ、巻き込み型強迫として人の援助を必要とする段階に陥っていたが、それを元通りにしたということである。すべて、はじめから計算通りである。だから、抗うつ薬も、認知療法も、感情転移を許す行動化も、反撃的介入もすべて、予定通りに事は運んだ。初診の時、すでに私はそうした心の動きを予想していた。これが、まさに力動的アプローチの真髄である。

                         精神分析的根治療法

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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