さとりの持つ意味

 さとりについては、「精神分析統合理論」や「ダイジェスト版・精神分析統合理論」の中で十分に議論した。そして、それらを基にして、「続・精神分析統合理論」では、精神分析とさとりとの因果関係を明確にし、今度はそれを基にして、我々が日常的に体験する様々な精神状態の健康度ランキングを十段階に分けて議論した。ここでは、そうした一連の考察について、簡単に紹介しておく。
 一般に、さとりは仏教の中か、それとも仏教との関係において取り上げられる。しかし、本来、仏教とさとりとは性質を異にする。言うまでもなく、仏教は宗教ゆえ、仏陀への信仰が前提になる。しかし、さとりはそれを前提にしない。むしろ、信仰があれば、それはさとりへの妨げになる。なぜならば、信仰心と、さとりによって培われる自己の主体性とは、水と油のような関係にあるからである。それゆえ、信仰よりもさとりを重視した仏陀は「信仰を捨てよ」と、教えた。
 ところで、フロイトは、我々の精神構造を「エス・自我・超自我」として規定し、議論した。「エス」は我々の欲求を意味し、「超自我」は欲求の禁止を意味する。「自我」はそれら両者の間にあって、調整を行なう。このフロイトの概念は、我々人間だけではなく、群れをなす動物にも当てはまる。それゆえ、人間固有の精神状態、つまり精神病からさとりに到るまでの幅広い精神状態を、このフロイトの心的装置を用いて議論することは不可能である。そういう意味において、精神分析の変革が求められる。
 そこで、私は、まず情動制御理論の中で、動物由来の心性と人間固有の心性を区別し、前者を不快−防衛系、後者を不快−制御系として議論を深めた。特に、不快−制御系の形成、つまり情動制御は人間の健康な精神に必須であり、その形成段階を八段階に分け、精神分析的根治療法を完成させた。次に、精神現象生成理論の中で、一般健康人がさとりに到るまでの方法論を提示した。情動制御が安定すれば、覚醒度が上がってくる。つまり、諸々の現象、特に対峙する現象の平等性が実感され、不二の法則に気付くようになる。さとりとは、不二の法則に精通した自己に顕れる主体性を意味する。つまり、その精神状態は「天上天下唯我独尊」である。さとりの頂上に立てば、すべての精神状態を見渡すことができ、そのランキングを十段階として評価することが可能になる。以上のように、さとりは仏教よりも、むしろ精神分析とより密接な関係にある。


                     精神分析とさとり

とらわれ(こだわり)のない心

 日本人であれば、誰もが一度は体験したことのある「五肢選択」問題をサンプルとして使うことにする。何でもよい。読者が勝手に思う内容A とBを設定し、適切だと思われるものを、以下の中からひとつ選んでもらいたい。(もし読者が精神分析関係者であれば、Aを間主観性理論、Bを関係性理論としてもよい。)

   1、それはAである。
   2、それはBである。
   3、それはAであり、かつBである。
   4、それはAでなく、かつBでもない。
   5、それは1から4までの、いずれでもよい。

 1から4までの選択肢はごく普通の内容である。しかし、5の選択肢はどうか?こんな内容の選択肢を見たことはあるか?奇妙な選択肢であるが、この5を選べば必ず正解である。
 タイトルで示したように、いまテーマにしようとしているのは、とらわれ(こだわり)のない心である。それがどういう心性であるか、わかりやすく説明しようとしている。その答えが選択肢5である。学校の試験でもこんな選択肢があれば、いつも楽勝である。しかし、まじめに勉強している人がこんな選択肢に出会うと、「ふざけるな!」と怒り出すかも知れない。この選択肢5を素朴な思いで評価してみると、確かに選択肢5は質問にまともに答えず、はぐらかしているような印象を与える。そこで「選択肢5を選んだ人は、その根拠について記せ」と指示したら、はたしてどれだけの人がこれを選ぶだろうか?選択肢5を選ぶためには、その上の四つの選択肢の内容をすべて吟味し、それらをすべて否定した上で選択しなければならない。つまり、そうした手続きを取った上で選択肢5を選ぶとすれば、その人はすでに「とらわれのない(こだわりのない)」心の持ち主であるということを実証している。


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原初的分別と究極的分別

 今まで、私は一方で、情動制御の確立から発生する「主体性」の重要性について、他方で、とらわれのない心や、こだわりのない心を特徴とする「さとり」の重要性について主張してきた。しかし、主体性とさとりの関係については、あまり取り上げてこなかった。人によっては、(自己の)主体性にとらわれたり、こだわったりする立場で、さとりについて主張するのは矛盾しているのではないかという疑問を抱くかも知れないので、この両者の関係について明確化しておくことにする。結論を先に示せば、その関係は「主体性→さとり→主体性」となる。つまり、さとりの入り口と出口に主体性が陣取っている。さとりに到る前の主体性とは、未だとらわれやこだわりが徹底して自覚されない精神状態、つまり不快−防衛系の活性化が十分に自覚されない精神状態であり、そうした精神状態において「不快因子同士の平等性」を獲得することができれば、さとりに到る。さとり切るということは、とらわれやこだわりを徹底して自覚することを意味するが、生きていくためには、さとりから出る必要がある。その際に、もう一度、主体性を蘇らせる。しかし、さとった後の主体性については、あまり適切な言葉がないので、仏陀の「天上天下唯我独尊」を借りることにしている。
 上記の文脈を、もう一度、言葉を変えて説明する。「ダイジェスト版・精神分析統合理論」第二十八章「さとり」の中の「3.とらわれ(こだわり)のない心」において、五肢選択問題を提出している。それらを列挙すると、
  ①それはAである
  ②それはBである
  ③それはAであり、かつBである
  ④それはAでなく、かつBでもない
  ⑤いずれでもよい
である。その中で、④と⑤を採用せず、①②③の中から選択する場合を原初的分別(原初的判断)と言い、すべての中から⑤を選択する場合を無分別(無判断)と言い、すべての中から、あえて④と⑤を選択しない場合を究極的分別(究極的判断)と言う。我々の関与する現象界に存在する大部分の内容ABは、①②③の範疇で分別が可能である。しかし、特に心的現実を構成する情動系に属する内容AB(たとえば、愛憎のような情動)は①②③の範疇で分別できない場合が多く、そうした場合は、④も採用し、④を含めて⑤を選択する。さらに、ABの内容(たとえば、金銭感覚)が、上記のように物的現実と心的現実にまたがって存在する場合、一旦は原初的分別を超え、④を採用し、④と⑤を選択肢に入れる。しかし、その後、吟味した上で、④と⑤を選択せず、①②③の範疇に戻って分別し直す。それゆえ、もう一度、分別を蘇らせるので、「原初的分別→無分別→究極的分別」となり、この一連の心的作業は上記の「主体性→さとり→主体性」を置き換えたことを意味する。


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禅と情動制御

 すでに「精神分析統合理論」や「ダイジェスト版・精神分析統合理論」の中で言及したように、禅の体験によって得られる特徴は、幽玄体験と本質否定に関する認識である。他方、さとりの特徴は不二の法則にあり、これは思考系、知覚系、及び情動系において、それぞれ「有=無」「自=他」「快=不快」が成立した時の心の状態である。禅は、不二の法則のうち、「有=無」と「自=他」を可能にするが、これら二つによって、概念の知覚化と悟性の平等性が獲得される。つまり、「思考系→知覚系」が幽玄体験を作り出し、その前後の「思考系←知覚系」が異なった本質をもたらすので、その結果、本質否定という認識に到る。ただし、禅は不二の法則の残りの部分である情動系を含まず、「快=不快」には無頓着である。それゆえ、たとえ禅の修業を行なっても、それがさとりに直結するわけではない。
 さとりに到るためには、「快=不快」を成立させなければならない。情動系に関して不二の法則を発見するためには、情動制御の確立が必須の条件である。複数の許しの環と、複数の救いの環の形成により、不快因子同士を平等化し、「悪い自己=悪い対象」と「弱い自己=弱い対象」を成立させる。不快因子同士の力量に不平等があれば、不快因子同士の連動性にむらが生じ、それにつれて防衛因子の活性化が助長され、概念の知覚化は幻覚を作り出し、悟性は妄想を作り出す。もし不快因子同士が平等な力量を持つようになれば、たとえ自己不快因子が活性化しても、不快因子同士の連動性を用いて、容易に誇大的自己を活性化させ、自己の主体性を維持することができる。(「続・精神分析統合理論」第二章、様々な心性のランキングの中の第一段階は、このような精神力動を用いている。)


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現代人のさとり

 現代人のさとりと題しても、昔と今とで、さとりの内容が異なっているわけではない。しかし、その契機や動機、それにさとりに到るプロセスは、かなり異なってきているように思う。さとりの契機や動機については、昔と今だけではなく、現代においてもその地域によって様々に異なっている。肝心なことは、さとって何が変わったのか、あるいは何を得たのかという点である。
 昔にさとった人のことを「聖仙」といったが、聞いた話によると、聖仙はよく自殺したそうである。さとってしまった後は、もう何もないので、さらに生き続ける動機を失う結果、自殺したらしい。しかし、自殺は自己破壊行為なので、「さとっても破壊の勝ちか?」と思うと悲しくなる。それに、さとって自殺では、得をするより損をしたことになりかねない。そういうことになると、さとりの面目丸つぶれなので、さとっても死なない場合の例を挙げることにする。たとえば、「心の動きがつぶさにわかる」ということが、その特徴として挙げられる。むろん、それだけではない。何か不幸なことが生じた場合、心の対応がさとった体験を柱として一本化できるという特徴が大きい。一般的には周りの人に慰められたり助けられたりして、さらに生き続けることになるだろうが、心に外傷体験を受けた場合は、慰められたり助けられたりする量が膨大になる。これに対して、さとりは普段からいろんな意味での「覚悟」を与えるので、一種の免疫ができるのと同じ効果を得ることができる。
 それでは、どういう心性、つまりどういう覚悟が現代人のさとりを意味するか?ここで、さとりを現代流にやさしく定義し直しておく。つまり、さとりとは「苦しいながらも自由な心を捨てず、主体的に生きる」ことである。しかし、このように定義すると、若干の説明と条件が必要である。苦しい心と自由な心とは「不二の法則」に則っている。これは「囚われることは、囚われないことと同じである」という意味であるが、そうした矛盾をはらむことができるかどうかは、ひとえに情動制御のあり方に依存している。また、主体的に生きるという表現はわかりやすいが曖昧である。いわゆる主体性は二つの誇大的自己(関係型および孤独型)の連動性によって形成される。もともと「主体性がない」精神状態は論外である。ただし、巻き込み拘束(お節介や利他主義)やうぬぼれ(開き直り)もまた主体性に含まれるので、それらを排除する必要がある。なぜならば、それらはさとりにつながらないからである。さらに、たとえば主体性を失うとか、主体性を拒否するといった場合はどうか?むろん、それらもまたさとりにはつながらない。ただし、我々の日常において、主体性を失うことが「楽しい」という実感を伴う体験であれば、無碍に否定することはできない。なぜならば、報酬系に直結する理想的自己の活性化を使用せずにはいられないからである。ただし、その場合においても、破壊的攻撃性は排除されなければならない。いずれにしても、防衛因子の活性化はさとりにつながらない。
 さとりの境地とは、いつも二つの内容を保持した心の状態である。ひとつは「自由な心」を実感できる精神状態であり、もうひとつは「すべての営みは苦である」と実感できる精神状態である。自由な心とは何事にも囚われず、(むしろ淡々と)生きていくことができる精神状態を意味する。自由な心では忍耐力(欲求不満耐性)の礎である謝罪的自己と、我々の主体性の権化である誇大的自己の両者が活性化し続けている。しかしそうは言っても、我々は様々な次元の事象に囚われる。たとえば身体に不都合が生ずると、それに囚われる。また、たとえ身体が健康であっても、我々の存在が精神的に肯定できるものであるかどうか、気になるところである。つまり他人の評価、そして自分自身の評価などである。自信がなく、怒りや脆さに打ちひしがれているようでは、やはり自由な心とは言えない。さらに、人は自分ひとりでは生きていけないので、関係が大切である。家族や学校それに職場の対人関係は良好かどうか?こうした諸々の事象において、我々は苦しみに囚われる。だから、すべての営みが苦を発生させるという真実はわかりやすい。しかし、それだけでは生きることが重苦しい。そうした重苦しさから解放されれば、我々の心は自由になれるのだが、はたしてそうなれるかどうか・・・
 精神分析統合理論はそうした諸々の課題に答えている。すでに何度も紹介した情動制御は、今日の我々が生きていくための手段である。とりあえず上記の課題に対して、簡潔にその処方箋を作ってみる。まず。身体的な病気を精神的に克服することは不可能だから、そうした場合には休養と適切な処置が必要である。もしそれが不治の病であり、死が近づいている場合は、人の力を借りて自由な心を取り戻す必要がある。また、心の辛さから体の病気を作る可能性もあるが、その場合は自分の自分に対する自信のなさや評価の低さがあるので、それを解決しなければならない。いわゆる健康な人であっても、ちょっとしたストレスで心が苦しくなってしまう場合は、自己制御因子や自己制御補助因子の活性化が困難になり、「不快因子同士の連動性」や「前駆型閉鎖回路」を使用する。さらに、自分の持つすべての関係が、苦悩の発生源になる可能性を秘めている。いたずらに苦悩化しないためには、関係する人達の主体性を信頼することも大切である。つまり、その場合には対象制御因子や対象制御補助因子の活性化が重要なポイントになる。
 いずれにしても、何か課題が生じたら、それをひとつひとつ解消していくしか方法はない。それに抵抗して課題が生じないように、たとえばひきこもるという生き方も、あるいは八方美人のようにどんどん広げまくるという生き方も、最終的にはうまくいかない。いろいろ試行錯誤して、ひとつひとつさとり、そのさとりを積み重ねていき、自分に「分相応」な生き方を発見することが、現代人のさとりである。


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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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