解離に関する従来の考え

 世の中で一般に使われている「解離」という概念の意味と、私が使っている「解離」の意味とは、かなり異なっている。多くの読者は世の中で使われている解離の使い方に慣れているので、そちらが正しく、それに対して私の使い方はわかり難く、間違っていると思っている人もいるだろう。しかし、実際には、私の使い方が遥かにわかりやすく実用的であり、解離だけではなく解離性障害の位置づけも明確になるという特徴がある。そこで今回は、はじめに世の中で使用されている解離についての私の考えを簡単に紹介し、その上で私の理論構成について掻い摘んで紹介する。
 一般に使われている解離という概念の意味を一言で表現すると、それは「外傷の防衛」という意味である。外傷とは心的外傷のことであるが、この外傷がどういう範囲のものか?もし「すべての外傷」であるということであれば、人生においてそれほど頻繁に遭遇しない災害や事故、それに事件などのような比較的大きな外傷から、日常的な対人関係の中で頻繁に生じている誹謗や中傷などの比較的小さな外傷まで含まれる。たとえ、こうした極めて広い範囲のものを外傷と呼んでも、今度はそれを外傷として受け止めるかどうかという個人差の問題が発生する。大事件に巻き込まれても、それを外傷として受け止めない個人もいれば、相手のちょっとした言葉遣いが外傷になる個人もいる。だから、一口に外傷といっても千差万別であり、曖昧である。
 防衛に関する精神力動を解明したのはフロイトである。フロイトは、いわゆる外傷説を捨て「不安−防衛論」モデルを提示したが、上記の解離に関する使い方からみると、それは「外傷−防衛論」モデルということになり、フロイトが捨てた考えをもう一度拾い直し、不安を外傷に置き換えたという印象を与える。しかし、それはフロイト理論に対抗しようとする研究者の露骨な乗っ取りを感じさせるので、不安の防衛は抑圧、外傷の防衛は解離という具合に分けて考えようとしているようでもある。もちろん、精神医学に関する教科書には、このような露骨な表現は見られない。たとえば、H.I.カプランとB.J.サドックの臨床精神医学テキストでは、解離は「情動的苦悩を避けるために、自分の人格あるいは自分の独自性を一時的だが、徹底的に一部変更すること」と定義されている。この定義には外傷という言葉も防衛という言葉も入っていない。しかし、やはり一言で表現するとなると、それは外傷の防衛という表現になる。


                     解離理論

解離に関する私の考え

 上記のテキストに載っている解離の定義を繰り返し読んでみると、それは解離の定義というより、解離性障害の定義に相応しいのではないかと思う。むろん、解離性障害は解離を源として発生するが、私の考えでは、解離を源として発生する精神現象は他にもいろいろある。そのいろいろある中のひとつが解離性障害である。つまり解離という概念は極めて広範囲のものであり、解離性障害という症状群は極めて特殊な症状群である。したがって、私は解離と解離性障害の間に大きな差があると考えるが、とりあえず解離に関する私の考えを紹介する。
 最も素朴な疑問として、解離とはどういう意味であるか、広辞苑で調べてみる。すると、解離とは「解け、離すこと」であると載っている。これに対して、私は解離を「剥がしたり、剥がれたりすること」の意味に理解している。防衛が剥がされた時、何が起こるか?たとえば、ひきこもっているところへ何らかの外的刺激が入ってきた場合、最も考えられる反応は一般成人であれば怒るだろうし、幼い子供であれば泣くだろう。これらの反応はいずれも「情動失禁」である。それまで静かな心を維持していた自分の人格は、その外的刺激を契機にして怒った人格や泣き始める人格に変化する。だから情動失禁は人格変化も伴っている。難しい解離の定義を憶えている人であっても、情動失禁という言葉をあまり知らないが、情動失禁こそ万人に共有されている精神現象である。なぜならば、幼少時において情動失禁を体験したことのない人はいないからである。このように、防衛が剥がされただけで人格変化も生ずるわけだから、上記の仰々しい解離の定義が妥当かどうか疑わしい。精神分析統合理論においては、いわゆる「上戸(じょうご)」、たとえば怒り上戸や泣き上戸に関する精神力動から情動失禁の重要性について言及している。
 もう一度、広辞苑で解離について調べる。すると、[理]として「ひとつの分子がその成分原子、原子団または他の分子に分離し、しかもそれが可逆的であるような分解」であると載っている。この中の「可逆的」であるという部分が重要である。この見解を採用すると、上記の解離の定義は「防衛←外傷」という一方通行である。もっとも、フラッシュ・バックという現象をもって、その逆もあると反論できるかも知れないが、いつもフラッシュ・バックが生ずるとも言えず、そうした反論はこじつけのような気もする。それよりは、いっその事「防衛⇔情動失禁」あるいは「防衛⇔解離」とすれば極めてわかりやすい。このように、私の考えは「情動失禁=解離」から出発している。解離をこのように定義した上で、解離性障害について考えていくと大変わかりやすい。だから、こうした背景を語らずして、ぶっきら棒にいろいろ紹介してきているので、わかり辛いところが多々あるかも知れない。(正確に言えば、情動失禁は自己不快因子が運動系を刺激することによって生ずる。運動系を刺激する直前の情動体験こそ解離であるが、わかりやすくするために「情動失禁=解離」と言い切った。)


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解離性障害の位置づけ

 解離を「情動失禁=解離」や「防衛⇔解離」として定義すると、解離を基盤として発生する精神現象は沢山あり、必ずしも「解離→解離性障害」だけではなくなる。むろん、このように考えた方が臨床をやる上で実用的である。それでは、私の考える解離を基盤として発生する精神現象にはどういうものがあるか?それは以下に示す五つ位に分けることができる。
 ①無症状
  たとえ解離が生じても、それが速やかに再び防衛されたり、あるいは制御されたりすれば、何らの症状も起こらない。
 ②不安を中心とした症状群
  不安、心気症、ヒステリーを含む身体化、それに恐怖症などの、いわゆる神経症に入る症状群の背後にも解離が存在する。これらの症状群を情動失禁の前駆状態として考えて差し支えない。すでに「不安こそ解離である」と紹介したが、解離が生じても、部分的に防衛されたり制御されたりすれば、不安を中心とした症状群になる。
 ③ひきこもり
  たとえ解離が発生しても、それが再び防衛され尽くせば、ひきこもりに戻る。日常生活で嫌な事(心が傷つけられた事)があっても、自分の住処に戻ってひきこもれば疲れもとれ、また翌日には何事もなかったかのように過ごす人が多い。自分の人格や独自性を変更しなくても、解離をうまく処理しながら生きている人は無数にいる。ところで、このひきこもり(防衛)を原点として(すでに紹介した)様々な神経伝達が始まる。
 ④解離性障害
  解離性障害の中核的な症状群は「解離性同一性障害」つまり「多重人格」である。健忘や遁走、自傷他害、それに犯罪はその部分症状群である。しかし、離人感(離人症)は解離性障害ではない。なお、解離性障害には「解離型自我意識」という特徴がある。解離型自我意識は「解離サイクル」に応じて生ずるが、これについては後述する。
 ⑤情動失禁
  解離が生じ、①から④までのいずれの場合にも該当しなければ、やはり情動失禁が発生する。子供の場合が最も顕著である。また統合失調症にも発生しやすい。統合失調症に情動失禁を観察したことのない臨床家は珍しい。ただし躁鬱病では情動失禁は生じ難い。なぜならば、脆弱系自己防衛因子(理想的自己)の威力が絶大だからである。精神分析統合理論には、たとえば「防衛の流動化」といった概念が登場するが、それは精神病に見られる情動失禁の観察から得られたものである。


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解離と解離性障害に関する私の理論構成

 以上のような見解に基づき、私は独自の「解離理論」を展開している。したがって、すでに確立している解離の定義を容認し、私の理論構成が間違っていると考える読者は、精神分析統合理論を読み切ることはできない。解離を引用したテキストに示されるように定義してしまうと、解離は解離性障害に直結するものの、本来極めて幅の広い解離という精神現象の一部でもって、解離を代表させてしまうことになりかねない。そういうことになると、かえって解離という精神現象の自由を奪うことになり、「不安−防衛」論モデルに対抗し、かつそれに匹敵するような「外傷−防衛」論モデルを構築しなければならなくなる。しかし、そうしたフロイトの真似事が長い時代にわたる淘汰を受けて生き残れるかどうか疑わしい。だからこそ、「不安−防衛」論モデルも「外傷−防衛」論モデルも包括するような新しい精神医学、新しい精神分析学の樹立が重要なのである。防衛と制御に関する考察を行なう際には、それに匹敵するほど広域な領域を持つ解離も含めて考えなければならない。
 以下の項目は、精神分析統合理論の中で、解離が関係する重要な箇所を抜粋したものである。五つ選んでおいたが、いずれも解離が精神分析統合理論の中核を成していることを示すものである。
 ①二種の自己不快因子
  二種類の自己不快因子とは、悪い自己と弱い自己である。いかなる疾患群(機能性精神障害)の根治療法であっても、これらの(対象制御因子による)制御は根治療法の要の部分である。そうした情動制御に先立って、多くの患者が(その程度は様々であるが)情動失禁を体験する。そして、その情動失禁が制御されるようになれば、治癒は近づきつつあると理解することができる。
 ②防衛と解離の対等性
  ヒトの情動制御は二種類の「快・不快原則」に則って機能している。その神経伝達様式は、まず「防衛因子←不快因子」であり、次に「防衛因子→不快因子→制御因子」である。この両者を合わせると「防衛因子⇔不快因子→制御因子」である。この神経伝達様式を「防衛⇔解離→制御」と書き換えることが可能である。
 ③自己解離と対象解離
  解離は自己(表象)だけではなく、対象(表象)にも生ずる。自己解離は自己の断片化を意味し、対象解離は対象の分身化を意味する。むろん情動失禁を生ずるのは自己解離の方であるから、情動失禁は自己の断片化に相応する。繰り返し発生する心的外傷によって引き起こされる情動失禁は、その度に自己の断片化を起こしている。そうした体験の積み重ねが、まさに多重人格(解離性同一性障害)の源になる。
 ④自然漏洩と強制漏洩
  解離に関する考察を行なう際に、いつもその考察を不毛なものに化してしまう要因は心的外傷という概念であった。心的外傷の性質を検討すればするほど、その頻度や強弱に悩まされ、一向に整理されない概念として残り、それは他の概念の整理まで奪ってしまう混沌のプロセスへと私を放り込んだ。そうした苦難のプロセスを経て、ようやく見え出した内容が、自然漏洩と強制漏洩に関する概念であった。心的外傷は一方でその内容(その中でも強度)は重要であるが、他方でそれをどれだけ制御できる能力が、それを受ける個人に備わっているかという点もまた重要である。その両者を包含して整理する概念こそ、自然漏洩と強制漏洩である。詳細は精神分析統合理論に譲るが、もし解離(自己解離)が自然漏洩であれば(不快−制御系が不十分ながらも機能するので)それは不安を中心とした症状群の発生につながり、もし解離(自己解離)が強制漏洩であれば(不快−制御系はほとんど機能しないので)それは情動失禁や解離性障害の発生につながる。
 ⑤解離型自我意識
  解離型自我意識は解離性障害に特徴的である。この解離型自我意識について理解するためには、まず意識と自我意識の関係について理解する必要がある。そして次に情操型自我意識と防衛型自我意識について理解する必要がある。解離型自我意識は、情操型自我意識が防衛型自我意識に変化し、さらに防衛型自我意識が情操型自我意識に変化するという往復の動きをするのが原則である。それによって、解離性障害に見られる様々な症状群の形成メカニズムを説明することができる。詳細は精神分析統合理論に譲る。


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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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