解離と防衛

  一般に、解離は防衛の一部か、それとも防衛に似た心的機制であると考えられている。解離という概念は、ジャネによって作り出されたものであるが、今日においても、ジャネのいう見解が(批判されることなく)受け継がれている。しかし、そのために、かえって心の探求に大きな壁を作り出している。たとえば、解離は心に「垂直分裂」が生じ、抑圧(防衛)は心に「水平分裂」が生じているという。臨床をやっている人であれば、その意味するところをくみ取れないわけではないが、心は脳であるため、脳の中に垂直や水平が生じていると説明することは、甚だ不明瞭である。また、解離と解離性障害の区別が曖昧なために、解離は解離性障害だけを作り出すための特殊な概念として封じ込められている。さらに、解離と分裂(原始的防衛機制)との関係が取り沙汰されることがあるが、これについては、心をよく理解した上でなされている議論とは言い難い。
  精神分析統合理論は、解離に関するこのような混沌を一掃している。その一部を、このサイトの中で「解離理論」として掲載してある。私の考えでは、解離と防衛は正反対の心の動きである。つまり、「防衛⇔解離」である。治癒機転の場合には、防衛の次に解離が生じ、解離の次に制御が生ずるので、「防衛⇔解離→制御」となる。(これを「防衛因子⇔不快因子→制御因子」としてもよい。)それゆえ、もし(前意識の中に)制御因子がなければ、解離は防衛に戻るだけである。なお、これらの関係は、脳内の動因系、嫌悪系、報酬系の関係に相応するように作成してある。また、「続・精神分析統合理論」においては、上記の情動系神経回路機能網が「前意識−意識−無意識」のそれぞれの領域を、どのように動き回るかという視点(解離サイクルと防衛サイクル)から考察し、すべての精神現象に関する精神力動を立体的に解明している。最近の脳研究において、これらの領域の局所的な位置が同定されつつある。


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不安と恐怖

 不安は解離の、恐怖は防衛のひとつの典型である。しかし、上記した「解離⇔防衛」のように、「不安⇔恐怖」かと問われれば、そう単純ではなく、神経伝達上の事情が存在する。つまり、不安と恐怖がつながるためには、それらを構成する因子とは別の因子が介在する。さらに説明を加えると、上記の「防衛因子⇔不快因子→制御因子」という神経伝達様式は、「自己防衛因子⇔自己不快因子→対象制御因子」というユニットと、「対象防衛因子⇔対象不快因子→自己制御因子」というユニットから成り立っている。それゆえ、不安を構成する自己不快因子(悪い自己と弱い自己)と、恐怖を構成する対象防衛因子(処罰的対象)がつながるためには、他の因子の活性化が必要である。
 「不安⇔恐怖」が成立するためには、どういう神経伝達が必要か?少し詳しく見て行くことにする。まず、怒り狂う(今日的には、キレてしまう)自分、つまり悪い自己が活性化しようとする時に募る不安が、自分を見捨てる相手、つまり恐怖を与える処罰的対象を活性化するルートは二つある。それらは、「悪い自己→処罰的自己→処罰的対象」と「悪い自己→謝罪的対象→悪い対象→処罰的対象」である。次に、惨めで、救いのない自分、つまり弱い自己が活性化しようとする時に募る不安が、自分を見捨てる相手、つまり恐怖を与える処罰的対象を活性化するルートも二つある。それらは、「弱い自己→理想的自己→誇大的対象→悪い対象→処罰的対象」と「弱い自己→理想的対象→弱い対象→誇大的対象→悪い対象→処罰的対象」である。さらに、自分を抹殺するような相手、つまり恐怖を与える処罰的対象が、(怒っている)悪い自己を活性化するルートは「処罰的対象→処罰的自己→悪い自己」であり、自分を抹殺するような相手、つまり恐怖を与える処罰的対象が、(みじめな)弱い自己を活性化するルートは「処罰的対象→処罰的自己→理想的自己→弱い自己」である。なお、恐怖症を含む様々な神経症には、いま話したような精神力動が隠れている。詳細は「精神分析統合理論」「ダイジェスト版・精神分析統合理論」に譲る。


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不安と恐怖の違い

 上記の、不安と恐怖の関係、つまり「不安⇔恐怖」を作り出す精神力動について紹介しても、読者の方では、しっかりとした理解に進めず、そのせいであまり人気のある記事になり得ていないことがわかってきた。おそらく、多くの読者は「不安⇔恐怖」に関する精神力動よりも、むしろ不安と恐怖の違いを鮮明にしてもらった方が、自分の体験と照らし合わせ、わかりやすいと思っているのだろう。そして、その上で、不安と恐怖の相互的な関係に言及すれば、それなりに理解も進むと考えているかも知れない。それにしても、なぜ「不安⇔恐怖」の精神力動が重要なのか? たとえ、それらの違いがわからなくても、それぞれに対する対応がわかれば、それで十分ではないか? 「不安⇔恐怖」を理解することができても、はたしてそれをどう利用したらよいかがわからなければ、その精神力動を知ってもあまり意味はない。

 一般的に不安は二種類、恐怖は一種類である。不安は、攻撃系制御システムに属する自己不快因子、つまり「悪い自己」の活性化と、脆弱系制御システムに属する自己不快因子、つまり「弱い自己」の活性化による。悪い自己とは怒っている自分や憎んでいる自分であり、弱い自己とは悲しい自分や寂しい自分である。これらが自己防衛因子から解離したり、あるいは対象制御因子によって拘束されなかったりすると、不安が生ずる。また、恐怖は、攻撃系制御システムに属する対象防衛因子、つまり処罰的対象の活性化による。不安の場合は対象が定まらず、漠然とした不快体験であるのに対して、恐怖の場合は自分に恐怖を与える対象は定まっており、それに自分が報復しようとすると、破壊的攻撃性の表出になりやすい。不安は抗不安薬の内服により、恐怖は抗精神病薬の内服により治まる。これらの内服によって、不安や恐怖が治まる。そして、それ以上の発生原因を詮索しないということであれば、上記の「不安⇔恐怖」の精神力動を知る必要はない。しかし、その代わり、長期的に(あるいは半永久的に)向精神薬を服用しなければならない。

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移行現象と移行対象

 移行現象と移行対象は、ウィニコットの概念である。それぞれどういう概念か、極めて単純に説明すると、たとえば「指しゃぶり」は移行現象であり、「ぬいぐるみ」は移行対象である。詳しい点については、直接ウィニコットを勉強してもらいたい。その他にも、ウィニコットには「抱っこ」や「ほぼよい母親」、そして「偽りの自己」などの概念がある。いずれの概念も、ウィニコットの柔和な臨床感覚と臨床体験から引き出されたものである。それゆえ、ウィニコットは親しみやすく、日本でもウィニコットを信奉する研究者が多い。私もまたウィニコットには違和感を覚えないが、いずれの概念も曖昧であるという印象は拭えず、詳細な治療経過や治療技法について議論する際に、はたして間に合うかどうか疑問が残る。
 精神分析統合理論を作る際に、ウィニコットを参考にしたわけではないが、精神分析統合理論に必要な概念を作り出し、それらを臨床的に検証していくプロセスの中において、私は幾度か、上記したようなウィニコットの概念を思い出していた。そして、それらの概念のことごとくが、精神分析統合理論の中に含まれるということを認識していた。たとえば、情動系神経回路機能網の中の自己解離や対象解離、つまり「自己の断片化」や「対象の分身化」という概念である。ウィニコットはクラインの対象関係論などを参考にして自分の概念の位置付けを図ったが、私は自己解離や対象解離の概念を皮切りに、心の細やかな動きを観察し、攻撃系および脆弱系の閉鎖回路、前駆型閉鎖回路、逆向性前駆型閉鎖回路を同定し、さらにそこから様々な人格傾向や症状形成の解明を行なった。それらは、ひとえに治療理論を生み出したかったからである。


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嗜癖と依存症

 嗜癖と依存症に共有されている精神力動は移行現象である。すでに紹介したように、移行対象が発生するためには、まず不快因子同士の連動性が生じ、次に対象の分身化(対象解離)が生じなければならない。これら一連の精神力動は脆弱系だけではなく攻撃系にも発生するが、脆弱系に発生した場合にのみ、それを嗜癖と呼ぶ。つまり、嗜癖とは発生した移行対象(たとえば、タバコやアルコールなど)からの刺激が誇大的対象を経由して理想的自己に到ることによって生ずる。喫煙や晩酌はその代表例である。盗癖もまた嗜癖の精神力動を用いるが、盗癖では嗜癖の精神力動と同時に反社会性の精神力動も生じている。つまり、一方では「移行対象→誇大的対象→理想的自己」が生じ、他方では「移行対象→誇大的対象→移行対象→誇大的自己」も生じている。
 それでは、同じ精神力動が攻撃系に生じた場合、なぜ嗜癖と呼ばないか?確かに処罰的自己もまた(理想的自己と同様に)報酬系に直結している。ただし、もし処罰的自己が「移行対象→処罰的対象→処罰的自己」と活性化すれば、ほとんど自動的に(不快の逆転送ルートを通して)理想的自己も活性化し「躁的防衛」が生ずる。この躁的防衛が示す精神状態は軽躁状態である。したがって、もしこれを嗜癖に入れれば、嗜癖は軽躁状態を示すということになる。しかし、脆弱系に発生する嗜癖は躁的防衛を伴わない。ところで、攻撃系に発生する移行対象のうち、嗜癖に似た精神力動を示すものは、たとえば「火」や「鬼」である。子供は時々「火遊び」や「鬼ごっこ」をする。最近では大人もまた「ミサイルごっこ」をしているようである。こうした遊びをする人の精神力動は躁的防衛であり、その精神状態は軽躁状態である。
 依存症は嗜癖の精神力動に、「の」の字型閉鎖回路(「ダイジェスト版精神分析統合理論」や「次世代の精神分析統合理論」参照)が重なった精神病理を持つ。むろん嗜癖だけであれば破壊的攻撃性はない。ところが、攻撃系で処理されなかった破壊的攻撃性が脆弱系を順転し、その途中で移行対象を捉えると依存症ができ上がる。言うまでもなく、依存症の特徴は自己破壊である。アルコールや覚せい剤などはその代表である。それではギャンブルの場合はどうか?たとえば、パチンコを取り上げてみよう。最近では「パチンコ依存症」という言葉は珍しくない。嗜癖や依存症というからには、それをする人が心地好くならなければならない。その点、アルコールや覚せい剤は物質による恍惚感(多幸症)を引き起こすが、はたしてパチンコの場合はどうか?おそらく「大当たり」すれば心地好くなれるだろうが、そうでなければお金ばかりかかり、気持ちの方は辛くなるばかりである。嗜癖や依存症の心地好さは、(その神経伝達の最後に必ず自己愛型病的同一化が生じて)理想的自己の活性化に起因する。しかし、もし大当たりしなければ、理想的自己は活性化しない。そうした場合、神経伝達は誇大的対象から再び攻撃系に入り、破壊的攻撃性は強大化する。もしその人にまだ正気が残っていれば、自責回路を使用することによって、何とかその破壊的攻撃性を止めることができるかも知れない。しかし、それができなければ、強大化した破壊的攻撃性は再び脆弱系に入る。すでに脆弱系制御因子は機能しないので、まず不快因子同士の連動性が生じ、次に悪性サイクルから脆弱系前駆型閉鎖回路が活性化する。これは後述する「絶望サイクル」に該当する(「ダイジェスト版精神分析統合理論」や「次世代の精神分析統合理論」参照)。


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嗜癖と依存症の違い

 上記の記事は、嗜癖と依存症の背後に潜んでいる移行現象(移行対象)についての理解を促すものであるが、先ほどの不安と恐怖の関係と同様、それがどういう意味を持つのかという点については、まず嗜癖と依存症の違いをはっきり理解した上でないと、よくわからないという読者が多いのではないか? これは余談であるが、すべての精神現象を理解するために、私はいつも様々な精神力動を心の中で辿りながら、たとえば、この症状を治し切るためには、ここの心の動きを知っておかなければならないので、この部分はサイトで公表しておこうという具合に、あまり読者の都合を考慮せずに、作った文章を、いきなり、ポンと載せる場合がある。しかし、実際には、多くの読者が理解してくれているようであり、かなりのページが読み込まれている様子を示すデータが存在する。おそらく、そういう読者は「なるほど、そういうことか!」と感動する箇所も多いのではないかと思う。

 嗜癖に習慣はつきものである。つまり、嗜癖とは習慣化された癖のようなものである。それでは、その癖を支える原動力は何か? 通常、それは脆弱系制御システムの中の不快因子を防衛する際の処理パターンである。それは習慣化され、いつも同じパターンで処理される。しかし、この嗜癖、止めようと思えば、それなりの努力さえ厭わなければ可能である。ただし、その努力の背後に、もっと効率の良い方法を見つけ出すという作業を必要とする。例えば、私の場合、書いた文章をさっと消して、もっとわかりやすく読者のための文章を作ることだ。つまり、それは脆弱系制御システムの中の不快因子を制御する際の処理パターンである。多くの場合、それはほとんど造作のないことである。納得できるしっかりとした動機さえあれば、嗜癖は改善、または消失せしめることができる。それでは、攻撃系制御システムの場合はどうか? この場合、不快因子を防衛する際の処理は躁的防衛や常同強迫を起こしやすく、容易に改善させられる嗜癖になりにくい。つまり、症状形成が起こる。その中で最も親和性の高い症状形成は(移行現象や移行対象を用いた)依存症である。この依存症は何の支障もなく止められるかと問えば、それは嗜癖の場合と大きく異なる。なぜならば、それは離脱症状(禁断症状)を伴うからである。つまり、それは身体的不調を伴うので、その治療を行なわなければ、依存症から解放される段階に進むことはできない。依存症の場合は、身体依存から解放された上で、さらに精神依存から解放される必要がある。そのためには、「の」の字型閉鎖回路、強迫崩れ、そして強迫不全性人格障害について知り、その病理から解放されるという課題を乗り越えなければならない。

 

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絶望と鬱

() 絶望のないところに鬱はない。絶望と鬱に関する根幹的な精神力動は倒錯的思考である。倒錯的思考とは傷ついた分身を否認する精神力動である。傷ついた分身とは、不快の逆転送ルートを経由した破壊的攻撃性が、悪性サイクルを使用して弱い対象を攻撃の的にすること(嫉妬の精神力動)によって発生する。その神経伝達経路は「処罰的自己→理想的自己→誇大的対象→弱い対象」である。また、すでに移行現象についても紹介したが、誇大的対象と弱い対象の関係は、時々「親分と子分」や「本家と分家」の関係に陥りやすい。
 たとえば、ある患者にとって両親は対等な関係になく、父は母の分身として存在していた。つまり、その関係は「誇大的対象−弱い対象」=「母−父」として表すことができた。この患者にとって母との関係は脆弱系病的同一化(誇大的対象⇔理想的自己)の域を出るものではなかったが、父との関係になると必ず母が介入して複雑なものになった。すでに父は弱い対象としての位置づけを与えられているので、いつも「ダメ親父」だったが、そんな父をかばおうとする母に接すると嫉妬が湧き、母の分身である父を攻撃した。むろん攻撃といっても無意識的な愚痴以上のものではなく、普段はそうした思いを否認し続けていた。また、両親の方は患者の持つ自分達のイメージが、万能的な母と傷ついた分身である父(という夫婦関係)になっていることなど知る由もなかった。それゆえ、時々、患者はそうした両親の姿や関係のあり方に何とも言えぬ不快感をおぼえ、それが鎮まる頃には気力が萎え、ただひきこもりたい気持ちでいっぱいになった。これがまさに絶望の精神力動である。その神経伝達経路は「傷ついた分身としての弱い対象→誇大的対象→理想的自己」である。そんな時、父が癌で入院し、一年後に亡くなった。その時、患者はさほど大きな対象喪失を体験しなかった。その理由は二つ考えられる。ひとつは(すでに述べたように)患者は父に親しみを感じなかったこと、もうひとつは父を弟に代えることで、絶望の精神力動を維持することができたことである。ところが、弟と会う度に今までの親しさを感じなくなり、また父への気持ちとも異なった思いを抱き始めた。つまり、患者は弟から非難されるのではないかと恐れ(処罰型罪悪感を体験し)、気遣うようになった。とくに母と弟の親密さを感じた時には、喜びよりも悔しさや自己嫌悪におそわれ、それが次第に見捨てられ感に発展した。こうした一連の精神力動は鬱の発症を意味するが、その際の神経伝達経路は上記の絶望の精神力動に、不快の転送ルートと自責回路が加わり、「傷ついた分身としての弱い対象→誇大的対象→悪い対象→処罰的対象→理想的自己」も生じている。
 以上、紹介した絶望と鬱の精神力動に関する具体的な描写は決して特殊なものではない。具体的な状況は人によって様々であろうが、絶望に悩み、鬱に襲われる人には、いま私が描写した精神力動が共有されている。したがって、鬱を決して気分の問題だけで片付けてはいけない。


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絶望と鬱の違い

 絶望と鬱、それに自殺願望の三つについて、それを治療しようとする専門家であれば、しっかりとそれらの違いを理解しておくことが重要である。私の概念を用いて恐縮だが、(その他の理論では、正確な違いを描写することができないので、やむを得ないのだが、)最も端的な違いは、絶望が「(この場合は傷ついた分身である)弱い対象」から「理想的自己」に到る否認の精神力動、これに対して、鬱の場合は、絶望の精神力動に、不快の転送ルートと自責回路を用いた処罰型罪悪感を活性化するための精神力動が加わる。私は時々「なまけご飯に、さぼり汁」という表現を用いて、患者の罪悪感を臨床的に緩和する場合がある。さらに、自殺願望は絶望や鬱の精神力動とは、少し異なっている。つまり、自殺願望の場合は、破壊的攻撃性が不快の逆転送ルートを用いて、「(断片化した)弱い自己」を攻撃する時に発生する。絶望と鬱の精神力動に、自殺願望の精神力動が加わると、それらはさらに複雑な精神力動を発生させるので、それらを正確に理解することが重要である。

 絶望の発生メカニズムを倒錯的思考と命名した理由は、性的マゾキズムやパラフィリア、醜形恐怖や自己臭恐怖、それに一部の摂食障害などにも、この倒錯的思考が共有されているからである。それゆえ、これらの症状群に対する治療的アプローチとして、倒錯的思考を解消するための精神分析的根治療法が極めて重要な方法になる。それでは、この倒錯的思考の発生源は何か? それは嫉妬である。絶望や鬱の、いわゆる主観的なつらさに没頭していたり、その没頭に連れ添ったりしているだけでは、それらの背後に流れている、極めてサディスティクな患者の心性に気づかない。むろん、抗うつ薬を中心とした向精神薬を使用するだけであれば、そうした心の奥底に流れている心性を理解する必要はないが、患者が絶望や鬱から解放されるためには、患者の破壊的攻撃性が「弱い対象―誇大的対象」という、一つの防衛セットを攻撃し、その結果、上記の様々な倒錯的思考を発生させているという精神力動に気づく必要がある。そして、これに気づいた後は、まず許しの環を強化し、次に救いの環の形成を十分行なう必要がある。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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