従来の精神医学や精神分析において、人格の正常と異常を踏まえ、かつその発生根拠を携えた人格論、つまり統合的な人格論は未だ確立していない。むろん、精神医学においても精神分析においても、それぞれに主張する人格論は存在するのだが、いずれも不備なものであり、それらをいかに統合するか、これは私の(精神分析統合理論の)大きな課題であった。
現在の精神医学の中における人格論は、WHO の国際疾病分類(ICD)や、アメリカ精神医学会精神障害診断統計用語集(DSM)を中心として形成されている。昔に比べれば、いずれも洗練されてきているので、実際の臨床に十分利用できるものになっている。しかし、それは症候学的な特徴を基礎にした診断のレベルに留まっている。つまり、そうした特徴から様々な人格障害の診断は可能になっても、その原因や治療というレベルになると、ほとんどその筋道は存在しない。(人格障害を扱ったギャバード先生の「精神力動的精神医学」は、DSM 分類に沿って彼の臨床体験とその考察を論じたものであるが、大変わかりやすく実用的な著書である。私は直接彼から教わっていることもあって、精神分析統合理論の作成においては、たいへん参考になった著書である。)精神科の一般診療においては、こうした診断基準に心理テストの中の人格検査を併用する場合が多い。しかし、たとえそのような情報を集めても、原因や治療方法というレベルの問題になると、やはり納得できるものではない。
他方、従来の精神分析はどうか?フロイトの臨床的研究の中心は神経症にあった。フロイト時代の精神医学の状況は、せいぜい精神病と精神病質を区別するぐらいのものであっただろうから、そんな中へ新しい疾患群として神経症を提唱したことは画期的であった。しかもそれ以上に大きな発見として感情転移があり、それを利用して治療できるという可能性を作ったのだから、この時点において、精神分析だけではなく精神医学もまた誕生したと言っても過言ではない。そうした事情があるわけだから、フロイト時代はまだ本格的な人格論を展開する時期ではなかった。フロイトは神経症の原因や治療を確立するために構造論や局所論を作り上げたが、このメタ・サイコロジーは今日の人格論ではない。私の精神分析統合理論において、神経症は防衛状態(軽症人格障害)、つまり攻撃系防衛状態(強迫性、回避性人格障害など)と脆弱系防衛状態(自己愛性、依存性人格障害)や、一部の(疾患形成ではなく、症状形成としての)症状群に該当する。
その後、神経症の治療はありふれたものになり、もっと病態水準の低い疾患群が注目されてきた。それが境界例であり、今日の境界性人格障害である。O. カーンバーグがこの疾患群を提唱したことも画期的であり、精神分析は躍動感に溢れた。この時、カーンバーグは境界性人格構造(BPO)という概念を使用し、総括的な人格論を展開した。彼はその総括的な人格構造を形成する構成要素として、自我同一性や欲求不満耐性、それに原始的防衛機制などを挙げたが、その他にも精神発達論である M. マーラーの「分離・個体化過程」も取り入れた。ところが、その後、彼の大風呂敷に綻びが出始めた。それはおそらく治療戦略の狭さのせいであろう。まだその当時は治療技法としての解釈が大きな割合を占めていた。そんなところへ、 H. コフートが共感という治療技法を携え、自己愛性人格障害に関する感情転移の詳細を記載した。はたして、どちらが正しいのか?いや、どちらもそれなりに正しい。いろいろに評価されながら、この二人によって、二つの人格論が対峙することになった。だから、今日、様々な学派に分かれて収拾のつかない状況に陥っている精神分析の歴史は、(その他にも存在する人格障害の治療論に基づいた)様々な人格論の台頭によって生じてきているとも理解できるのである。
こうした状況を踏まえながら、上記の DSM 診断マニュアルは様々な人格障害の診断基準を設けたが、解釈と共感の二つだけでは「境界例の治癒」という成果を得るには不十分であった。さて、そこで登場したのが、私の精神分析統合理論である。複雑な精神分析の変遷を理解し、それを修正しようとする私の作業もまた難業であった。先ず、フロイトの神経症理論を支えるメタ・サイコロジーからの離脱である。フロイト理論が病的状態(重症人格障害)や精神病状態にも使用することができるところまで、私はそれを剥がし取った。次に、カーンバーグの境界例理論に関して、私は二つのことを行なった。ひとつは欲求不満耐性の形成理由を解明したこと、そしてもうひとつは発達論を放棄したことである。欲求不満耐性(忍耐)は、私が解明した許しの力動から生じている。許しの解明から、新たな謝罪技法が誕生した。また、人格に関する構造論を作り上げるには、発達論を使用してはいけないということにも気づいた。なぜならば、人格論は精神の横断面であるのに対して、発達論は精神の縦断面である。発達論を採用すれば、精神構造論はチャンポンになってしまって、正確な人格論には到達できない。さらに、コフート理論に関しては、弱い対象を追加することによって、救いの精神力動を解明した。その結果、新たな優越誘導技法が誕生した。ここまで持ってくることによって、初めていかなる人格障害の治療も可能になったのである。
すでにお気づきのように、治療方法の発見によって、様々な人格や人格傾向、さらには人格障害の原因であるメカニズムについて解明できたのであり、今度はそこから正常な精神状態について定義し、すべての人格構造、つまり精神構造を解明することができたという変遷がある。ここまでくれば、精神病根治療法に挑まない人はいないわけで、フロイトの「精神病は精神分析では治らない」という発言に逆らってみたくなるのも当然である。私は覚悟を決めて大学を捨て、つまり「エリート分析家」を捨て、ひたすら一人で悪戦苦闘した。そして、それなりの成果を得ることができたので、精神病根治療法に関する二つの論文を書き上げ、精神分析統合理論を完成させた。このように、人格論や人格構造論にはそれなりの歴史がある。私はそうした歴史を踏まえながら、しかし実用的でないものは、すべて切って棄てた。そんなことをされると、同じ精神分析の業界にいる研究者らはよい顔をしないだろうが、精神分析を科学にするためには仕方のない作業である。読者の方々はこうした事情をよく理解し、すでに人格構造論つまり精神構造論はでき上がっていることを理解して頂きたい。
精神分析的根治療法
精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。