いかなる精神現象も、認知的解釈が施される際には、「快・不快を選ぶための迂回路を進む船頭」が必要である。情動由来の情報であれば、それはすでに情動系神経回路の中に入り、循環している。しかし、たとえ知覚由来の情報であっても、意識の機能を利用するためには、その選択を可能にする材料が情動系神経回路に入り、情動の持つ特性である「快・不快」の、いずれかを有するものに変化しなければならない。たとえば、今、私はテーブルの上のパソコンに向かっているが、このありふれた現実の知覚認知でさえ、何らかの知覚由来の情報が、「快・不快を選ぶための迂回路を進む」意識の機能を通して形成されている。(もし私がテーブルの上のパソコンに向かうセッティングに不快を感ずれば、その不快を払拭するために動き、目的を達成することは難しい。だから、そのセッティングが非常に快適でなくても、せめて不快を感じないようなものでなければならない。)
認知的解釈を受けた情報は、その後、二つに分岐する。第一は、意識を通過して形成された知覚認知のプロセスになり、第二は、情動認知から情動認識へのプロセスになる。この二つのプロセスは、心的現象として知覚と情動を安定させるために重要な手続きである。一方で、知覚由来の情報が、まるで情動認知が形成されるかのような仕組みを通して、知覚認知を形成して安定し、他方で、情動認知は情動認識に移行して安定する。知覚認知は、すでに情動認知から抜け出して、原則的には情動系以外の領域、つまり主として物的現実の中において、様々な現象を区別する。(すでに、一連の精神分析統合理論の中で言及した「情動排除型自我意識」を形成する中核的な存在であり、さらには認知言語と呼ばれる「感情潜在言語」の中核的な存在でもある。)これに対して、情動認知から情動認識への移行は、情動系から情動系以外の領域への移行を意味しない。つまり、情動認知も情動認識も情動系内に留まり、両者が絡み合って、様々な神経伝達経路を形成する。ただし、情動認知だけであれば、その情動に関する情報、たとえば主観的体験(心的現象)が、物的現実に相応したものであるかどうか、わからない。はたして「人の声が聞こえる」のは、その人の声が物的現実から発せられたのか、それとも自分の(心の中である)心的現実から発せられたのか、わからない。そこで、この区別をつけるために、つまり現実検討能力あるいは病識を持つために、情動認識を必要とする。
精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。