フロイトの構造論

 ここで取り上げるテーマは、フロイトの構造論と精神分析統合理論の関係についてである。周知の通り、フロイトには二つの構造論がある。ひとつは「エス、自我、超自我」であり、もうひとつは「意識と無意識」である。これらに私の概念を対比させると、前者では「不快因子、防衛因子、制御因子」であり、後者は同じである。前者における顕著な違いは、超自我と制御因子の内容である。たとえば「過酷な超自我」という言い方をすると、私の概念では「自責回路」を使用しているということになり、「自我理想」という言い方をすると、それは私の概念の「対象制御因子」の性質に似ている。しかし、自我理想は人物表象ではないので、私は採用しない。
 説明を続ける。後者の「意識と無意識」については同じであっても、内容が異なる。フロイトは、意識に「現実原則」を、無意識に「快感原則」を採用した。しかし、私はこれらの概念を使用しない。私は意識と無意識の区別を「脳内神経回路機能網」の中で区別した。つまり、意識や自我意識の発生を「二つの誇大的自己」と「覚醒的自己(髄我)」の連動性に求め、無意識を「知覚系・思考系・情動系」の三つ巴の関係に求めた。ヒトの脳にも存在する「動物脳」によって発生する「快・不快原則」と、ヒト固有の脳として進化した「快・不快原則」を区別することによって、防衛と制御(それに解離)を区別し、かつ正常と異常を区別した。この私の修正は、現実原則と快感原則の調和を図ったものである。


                     フロイト修正論

防衛機制

 久しぶりに「精神分析用語辞典」から引用しよう。防衛機制に関する一節である。

 とりわけ、アンナ・フロイトの論文がこの問題を扱っている。彼女は、具体的な症例にもとづいて防衛機制の多様性、複雑性、拡がりを記載し、ことに防衛を目的としてきわめて多様な活動(幻想、知的活動)がもちいられること、防衛がただ欲動の復権をめざすものにたいしてだけではなく、感情、状況、超自我の要請など不安の増大をひきおこすものにたいしてもちいられることを明らかにした。彼女は防衛機制として抑圧、退行、反動形成、分離、遡及的取り消し、投射、取り込み、自己自身への方向転換、対立物への逆転、昇華などを列挙したが、・・・メラニー・クラインはきわめて基本的な防衛として次のものを記述している。つまり対象の分裂、投影による同一化、心的現実の否認、対象の全能的制御などである。

 アンナ・フロイトは防衛機制の目的について述べた後、幾つもの防衛機制を列挙している。私は「精神分析統合理論」の中で、これらの精神力動について取り上げている。しかし「何が何を防衛する」という厳密な視点から吟味すると、抑圧だけを防衛機制の代表にしてよいと考える。なぜならば、アンナ・フロイトが記載した他の機制は、情動系神経回路機能網(情動制御システム)や、脳内神経回路機能網(たとえば「⇔知覚系⇔思考系⇔情動系⇔」など)の中の別の機能として同定することができるからである。また、メラニー・クラインの記載した分裂、投影性同一視、否認などは(アンナ・フロイトのそれと区別し)、原始的防衛機制と呼ばれている。私も不快因子同士の連動性を基盤として、その防衛のあり方に、投影性同一視と否認を採用している。分裂は情動制御システムを用いて説明することができる。

 我々の精神構造は情動制御システムを中心として機能している。その中に不快―防衛系と不快―制御系とが混在している。それゆえ、様々な神経回路(刺激伝達経路)が発生し続けている。その中でも「防衛因子⇔不快因子⇒制御因子」が作り出す「防衛⇔解離⇒制御」は、情動制御システムの中心的な役割を果たしている。こうしたシステムの中で、いかに防衛機制を位置づけるかという方向性を示せば、かつてアンナ・フロイトとメラニー・クラインが、それぞれ描いた防衛機制のすべてを体系化して記載し直すことが可能になる。ちなみに、いま述べたような極めて複雑な仕組みが、我々の心として稼働しているので、その一部である防衛機制だけを取り上げて議論するのは適切ではない。もう古くなって使いようがないと思われるような用語がたくさんある中、権威があるというだけで注目し続けるのは「心盲の固執」であると言っても過言ではない。

 

                     フロイト修正論

フロイト修正論要綱

 フロイトから出発した時には、もちろんフロイトを修正しようなどという思いを抱いたわけではなかった。地道で根気強く、重症患者(病的状態)の治療を行ない、その結果、複数の治療を成功させていくにつれて、許しの心や救いの心の形成が治癒の鍵になっていることを実感した。しかし、それらによって、はたして精神病の治療も可能になるだろうか?これが私の最大の関心であり、この関心が精神病根治療法への挑戦に拍車を掛けた。そして幾つもの難題をクリアしていくと、やはり精神病においても、許しの心と救いの心の形成が最も重要な課題であるとの結論を得た。その結論から情動制御理論を作り上げたが、こうした一連の作業に没頭している間、私はフロイトのことをあまり考えなかった。何はさておき、得た真実の大枠を書き上げておかなければならないという思いで一杯だったからである。そうしておけば、いずれ古いものは自然に崩れ去ると思った。むろん、この点については、今もなお同じ気持ちである。そして、ついに精神分析統合理論を完成させた。
 月日が経つにつれて、私の脳の興奮も少しずつ収まってきたが、冷静になった今であるからこそ、フロイトと自分の比較も可能になってきたと言える。様々なフロイト批判については本書でも紹介してきたが、やはり最も大きな違いは二つの構造論にある。大胆な言い方をすれば、フロイトの二つの構造論を修正し、感情転移を精神病の治療にまで深く広げることによって、新しい(二十一世紀の)精神分析学を作り上げたと考える。その修正とは、第一に「エス・自我・超自我」を「防衛因子⇔不快因子→制御因子」とし、第二に「意識・前意識・無意識」を「前意識・意識・無意識」とする修正である。しかも、私の二つの新構造論は密接に関係していて、制御因子は前意識にあり、不快因子は意識直上にあり、防衛因子は無意識にある。(日常的には、不快因子は不快−制御系として前意識にあったり、不快−防衛系として無意識にあったりする。)つまり、情動制御理論はひとつのしっかりとした法則性を携え、精神現象生成理論の中核に位置している。このような修正を行なえば、すべての精神現象を単一理論で説明し切ることができるようになり、とりわけ精神病の根治療法を定式化することができるようになる。こうした修正によって、これからの精神分析は科学としての領域に入ろうとしている。


                     フロイト修正論

前意識−意識−無意識(新局所論)

 フロイトの局所論(意識−前意識−無意識)と、私の「新」局所論(前意識−意識−無意識)とでは、心的構造の内容の配列の仕方が異なっている。フロイトの局所論では、前意識は無意識から派生するが、私の新局所論では、前意識は意識を挟んで無意識と対峙するものであり、前意識と無意識はまったく別物である。またフロイトの局所論では、前意識の内容と無意識の内容は異なっていて、フロイトはその判別機能を無意識の「検閲」にあると仮定した。これに対して、私の新局所論では、もし意識がなければ、前意識と無意識の境界はなくなる。ただし、前意識の内容(不快−制御系)と無意識の内容(不快−防衛系)は別なので、たとえ睡眠中においてそれらが混在していても(つまり「前意識⇔無意識」であっても)、それらは夢の内容の違いになって出現する。
 フロイトの場合、前意識の内容は無意識の検閲を受けるので、意識に上ってくる内容は制限される。それをフロイトは抑圧と呼んだわけだが、フロイトにとっての最大の関心事は無意識の構造化であり、無意識こそ精神を支配する機関であると考えた。しかし、前意識の存在を問題にする限り、私は意識の優位性を主張する。つまり、意識のおかげで前意識は発生する。こうした私の考えから、フロイトの検閲をどう理解するか?第一に、意識の発生そのものが検閲機能を果たしている。第二に、前意識に存在する不快−制御系が、無意識に存在する不快−防衛系の意識上への出現を阻んでいるので、そうした事情が検閲機能を果たしている。第三に、フロイトの超自我は無意識的心性を保有しているが、フロイトはその超自我に検閲機能を持たせている。この超自我を私の情動制御理論で理解すると、それは自責回路(処罰的対象→理想的自己)に該当するが、この自責回路は不快−防衛系に属するので、フロイトと同様、無意識的心性である。したがって、自責回路が活性化されるような精神力動が生ずれば、それはフロイトのいう検閲と同じ機能を発揮する場合がある。しかし、自責回路はたくさん存在する神経伝達経路の中のひとつに過ぎないので、いつも自責回路が活性化されるわけではなく、そういう意味では検閲機能が常時存在するわけではない。
 フロイトの言うように、意識は研究対象として捉えがたい性質を保有している。意識とは直観そのものであり、その直観を捉える時には、もはやそれは直観ではなく、自我意識である。しかし意識は前意識に存在する多くの精神内容を無化(主客融合)してきたし、それらをさらに無化する機能を持っている。そのいつでも意識化可能な前意識の領域はたいへん広いものである。つまり、知覚系をはじめとして、情動排除型自我意識、生活の形、情操型自我意識、それに不快−制御系などが存在する。しかも、これらはいつでも意識化可能であるが、意識そのものは暗闇を照らす懐中電灯ぐらいの力しか持っていないので、前意識に存在するすべての精神内容を一度に照らすことはできない。つまり、意識はいずれかひとつのものを無化(主客融合)する機能しか有していない。そうした事情のあるところへ、時々、意識下にある無意識内容が、前意識に存在する精神内容と連動して機能する。たとえば、意識が生活の形に関与している時に、無意識に存在する不快−防衛系の処罰的対象が情動排除型自我意識を刺激する。すると、すぐに意識はそれに気づき、生活の形から防衛型自我意識に関心を移す。その瞬間、我々は恐怖というものを体験する。ところが、この恐怖は前意識に存在する他の内容、たとえば情操型自我意識や不快−制御系と馴染まない。すると、今度はこれらの内容が意識に対して自分達を照らすように催促する。意識は再びそれに従って照らす対象を変えるので、その結果、恐怖はなくなり、いつもの健康な精神状態を取り戻す。
 このように、無意識がいちいち検閲して意識に上らせるかどうかを決定するのではなく、ある無意識内容がある前意識内容を刺激することによって、我々の異常心理や病的体験が意識に出現する。もしフロイトの言うように、無意識に検閲する機能があれば、我々の精神状態の最も深刻な幻覚や妄想が、なぜ意識に上ってくるのか、説明できなくなってしまう。たとえ残虐な殺意がこみ上げてきても、そうした精神内容はすでに獲得されている不快−制御系や情操型自我意識によって却下されてしまうから、再びそれは無意識の世界に戻っていく。もしそうした不快な感情や連想が湧いてきて、日常生活に支障をきたすということであれば、その方法として不快−制御系を強化し、時々意識を突いて出てくる不快−防衛系をひとつずつ退治していく必要がある。それが精神分析の言う徹底操作である。そしてそれが実現すれば、その結果、精神症状は消失し、情動系に関する無意識は縮んでくる。理想的には、不快−防衛系を根絶やしにしてしまうことであるが、それはそう簡単なわけにはいかない。不快−防衛系が縮んでくれば、感情転移は消失するし、治療者の抱く逆転移もまた広大な海から水溜りに変化してくる。以上、フロイトの局所論と私の新局所論について対比しながら紹介したが、はたして読者はどちらの考えを支持するだろうか?


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解離サイクルと防衛サイクル

  「続・精神分析統合理論:精神分析的根治療法」の中の「第三章:新構造論(新局所論)」の執筆によって、精神分析統合理論は完成した。その理由について、簡単に紹介しておく。
  私の新局所論では、精神を円にたとえて表現し、それを三分割し、それぞれの領域に、前意識、意識、無意識をあてがっている。そうすることによって、それぞれの領域が別の領域と(自由に)交流することができ、かつ、それぞれの領域が大きくなったり小さくなったりする様子を描き出すことができる。第一節から第四節までは、そうした内容について記載している。
  第五節では、解離サイクルと防衛サイクルについて紹介している。解離サイクルでは、不快因子が「←前意識←意識←無意識←」の順に回り、防衛サイクルでは、防衛因子が「→前意識→意識→無意識→」の順に回る。つまり、不快因子と防衛因子の回り方が反対である。これは、今まで議論し続けてきた解離と防衛の特徴に見合っている。また、制御因子は前意識の中で形成され、時々、意識の中へ出現するが、無意識へは移行しない。
  第六節では、解離サイクルと防衛サイクルを用い、様々な精神現象の動態を解明している。まず、否認および投影性同一視の精神力動、不快因子同士の連動性の精神力動、前駆型閉鎖回路の精神力動などについて図解し、次に、それらを利用して、基本的な精神現象の動態について記載した。第一は葛藤の場合、第二は自己愛型閉鎖回路の場合、第三は悪性サイクルの場合、第四は移行現象の場合、第五は倒錯的思考の場合、第六は多重人格や幻聴の場合である。フロイトの局所論や構造論は静的な性質ゆえ、扱える領域は第一の葛藤の場合のみである。今日、フロイト理論だけを用いる精神分析家はいないが、フロイトを超えて、すべての精神現象を理解する方法論も他にはない。そうした現状を打開するために、私の提出した新局所論と新構造論が役立つと考える。


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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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