危険なマスク

 「親しい人の顔を見ると安心する」「愛する人の顔を見ると、気持ちが高ぶる」「嫌な人の顔を見ると、視線を避け、顔を背けたくなる」など、身近な人の顔(や表情)は、我々の日常に大きな影響を及ぼす。また、ある人の顔を見れば、言葉を発する必要がない場合もあれば、顔という次元を超えて、とにかく話さないと埒が明かないという事態も存在する。このように、顔はその人の存在を代表し、その存在との非言語的(あるいは前言語的)コミュニケーションや、言語的コミュニケーションを進める上で、極めて重要な部分である。

 2020年は世界中が新型コロナウィルスに感染し、多くの死者を出した。発生からもう10か月になり、これから冬になろうとしているが、それでも治まる気配を見せない地域も多く、再び大流行になる心配が世界中を駆け巡っている。そんなご時世の中で、マスクの存在が大きな鍵、つまり生命線になっている。多くの人は、特に医療関係者はマスクを外すことがなくなった。むろん、たとえコロナ感染がなくても、一日の多くの時間をマスクを掛けて過ごすのだが、これほど徹底してマスクを使用すると、その人の顔を忘れてしまうようになる。特に、認知症に罹って病院に入院している患者さんや、介護施設の利用者さんなどで、そうしたことが頻繁に生じている。顔がわからないために、どういう人がどういう役割についているのか、全くわからないという状況が生じている。その中には、毎日、交代して仕事をしていると思い、たとえ同じ職員であっても、「昨日の人はこうだったが、今日の人はまた別で、明日はどんな人なのか・・・」といった具合に、ひどく不安定な日々を過ごしている高齢者も多い。つまり、自分の知った(自分の憶えている)人は誰もいないという孤立した状況に置かれている。

                 顔が示す精神力動

顔の持つ意味

 顔が様々な意味を持つことは言うまでもない。顔は身体のどこよりも、その人を示す最も重要な部分であり、その顔が示す様々な表情もまた大きな意味を持つ。毎日、出勤する前や登校する前に、どれだけの時間を要して、自分の顔に手入れを施すか? あるいは、我々が時々(あるいは常に)持ち歩く家族の写真は、自分の憩いであり、エネルギーの源であると感ずる人も多かろう。未だ言語を獲得する以前の乳幼児は、母の顔がすべてであるように振る舞うし、多くのペットは主人の顔を憶えていて、間違えることはない。このように、顔は極めて大きな存在であり、時にその顔は様々な情動の引き金にもなる。たとえば、心に苦しみを持つ患者さんの中には、自分の夢には「顔のない人」がよく出てくると訴える場合がある。むろん、現実に「顔のない人」はいないが、現実における対人関係のあり方が、心の中の顔の形成に反映される場合がある。

 はたして、心の中で、顔はどういう意味を持つのだろうか? 今回は遠回りをせず、率直に私の見解を示す。動物などの顔はもちろんのこと、人の顔もまた情動系を構成する不快―防衛系の活性化によって形成される。その精神力動について言及すると、攻撃系では「⇔処罰的自己⇔悪い自己⇔悪い対象⇔処罰的対象⇔」、脆弱系では「⇔理想的自己⇔弱い自己⇔弱い対象⇔誇大的対象⇔」である。これらを顔の表情として解釈し直すと、攻撃系では「⇔恐い自分の顔⇔怒っている自分の顔⇔怒っている他者の顔⇔恐い他者の顔⇔」、脆弱系では「⇔得意な(美しい)自分の顔⇔悲しい(醜い)自分の顔⇔悲しい(醜い)他者の顔⇔得意な(美しい)他者の顔⇔」となる。これに対して、情動系を構成する不快―制御系は表情を作らない。ただし、ある特定の人への信頼や尊敬が、その人の顔に投影される場合がある。このような場合であっても、顔の表情が不快ー制御系を形成しているのではない。わかりやすく言えば、はじめから信頼や尊敬の表情が存在するのではない。

                 顔が示す精神力動

顔は本音を隠す

 たとえば「顔で笑って、心で泣いて」という場合がある。その時は泣きたくても、泣くことができず、一生懸命に笑顔を作って対応している様を表現しているが、それはそうしている人の状況判断を示すものである。つまり、この場合の状況判断は、その場の雰囲気を壊さない努力によって維持されている。(そのような場にそぐわない気持ちに襲われやすい人は、はじめから人との接触を避けたり、あるいは上記のマスクを常時着用して、表情を隠し通したりする。)それゆえ、表情から思い(気持ち)を知られたくないがために、本音を隠して対人関係を行なう場合がある。このような事情があるにもかかわらず、従来の認知科学は表情から情動を判定しようとしてきた。しかし、明らかに顔は嘘を吐く場合があり、信頼するどころか、それだけ他者を警戒していることを示している。つまり、顔(表情)は我々の心の正常と異常に関する正確な現実検討能力を示さない。

 しばしば精神科臨床の中で、顔(表情)が作り出す嘘の感情を観察することがある。私の40年間にわたる臨床の中で、初診から泣き続ける臨床例に度々出会った。患者は私が患者の事情を理解する前から泣き始め、私の患者への理解が遅れると、患者はますます泣きじゃくり、挙句の果てには「どうして、わからないんですか? 」と詰め寄られることもあった。しかし、そうは言われても、わからないものはわからないので、嘘を吐いたり、慰めたりすることもできず、患者に泣くのを止めて、もっとわかりやすく話してくれるように頼んだこともあったが、すると患者は突然表情を変え、私を睨みつけた。つまり、患者は、はじめから私を怒りたかったのだが、いきなりそれもどうかと思った患者は、わけがわからないように泣き続け、それを理解しない私を怒る理由を、自分で作り上げたのである。まさに自作自演であるが、これは怒るべき時に怒れず、怒る代わりに泣く患者の典型例である。この逆の場合もあり、本当は悲しくて泣き出しそうなのに、怒り続ける患者もいる。

                  顔が示す精神力動

寝椅子を用いる自由連想法

 精神分析療法は、通常、寝椅子(カウチ)を用いた背面法による自由連想法を行なう。寝椅子を使うということは、患者が寝椅子で横になることによって、身体的にも精神的にもリラックスした状態になることを意味する。一般に、座位よりも臥位の方が緊張をほぐすので、患者をそうした状態に誘導することによって、円滑な自由連想法を行なおうとする意図がある。伝統的な精神分析では、こうした治療構造が患者の防衛機能を低下させ、自我を退行しやすい状態に導くというような言い方をする。また、背面法を用いるということは、患者から治療者が見えないという状況を作り出す。治療者は患者の頭高に座っているので、起きたり、うつ伏せになったりしない限り、治療者は見えない。他方、治療者からは患者を見ようとすれば見えるが、何か理由でもない限り、患者をじろじろ覗き込むということはしない。このように、背面法は相手が見えない。つまり、相手の表情がわからないことを条件としている。一緒にいても、相手を見ないことで、顔(表情)という規制を外した自由連想と会話(言語的介入)が存在する。

 顔(表情)の見えない会話は、不快ー制御系を活性化しやすい。伝統的な精神分析のやり方を、私の方法論を用いて説明すれば、寝椅子による背面法は防衛因子の活性化を抑制するので、不快因子が活性化しやすく、治療者の言語的介入が対象制御因子(または対象制御補助因子)として機能しやすくなり、患者はそれを取り入れやすくなる。ちなみに、寝椅子による背面法は、精神分析療法の治療構造という側面からの規定である。これに対して、私の言う精神分析的根治療法は、情動制御理論に則った完治のための治療技法論であるから、それを知らないと使えない。むろん、防衛状態にある患者の場合は、寝椅子による精神分析療法で十分である。しかし、病的状態や精神病状態の中には、寝椅子による精神分析が困難な場合がある。様々な理由で、患者がそれを拒否する場合が多いので、伝統的な治療構造にこだわらず、むしろ完治させるための治療戦略を持っていなければならない。その場合、たとえ対面法であっても、治療時間はたっぷり取る。たとえば、統合失調症の場合では、週2回、5~6時間が必要である。しかし、それでも、一人の治療者では暗礁に乗り上げる場合もあるから、二人の治療者による、同時かつ別々の治療法を採用すべきであると主張しているのである。

                 顔が示す精神力動

人工精神に顔は必要か?

 寝椅子を用いた背面法による自由連想法に慣れてくると、患者は(治療室に入る時、治療者を一瞥しても、それ以降は)治療者に視線を向けず、精神分析療法をスタートする場合が多い。つまり、患者にとって治療者の存在が確認されれば、治療者の顔(表情)は必要ではない。すでに話したように、顔(表情)がなくても、情動制御システムは稼働する。もしお互いに顔(表情)を見せ合っていれば、不快―制御系よりも、むしろ不快―防衛系の方が活性化しやすいだろう。しかし、顔(表情)を見せることがなければ、不快―防衛系は抑制され、不快―制御系が活性化しやすいだろう。このような事情があるために、病的状態や精神病状態の患者の場合では、不快―防衛系が優勢なので、寝椅子を用いた背面法が好まれないのである。これは余談であるが、このような事情があるので、統合失調症には精神分析療法は禁忌であると主張する文脈が存在しないわけではない。しかし、精神分析的根治療法はそうした主張をしのぐレベルの治療法である。

 精神分析的根治療法の治療プロセスの前半はソファを用いた対面法であったが、それによって、ずいぶん健康な心を身に着けたので、治療プロセスの後半は寝椅子を用いた背面法に切り替える患者が多い。ところで、(すでに言及しているように)病的状態や精神病状態の精神分析的根治療法では、二人の治療者による二つ同時の精神分析療法を行なう。その際に、当然、人工精神の力を借りなければならないのだが、はたして人工精神に顔が必要かどうかという疑問が生ずる。病態水準の高い防衛状態にある患者の場合では、人工精神の言語的介入の力をよく理解することができるので、必ずしも人工精神に顔(表情)は必要でないと考えられる。しかし、病的水準の低い病的状態や精神病状態では、人工精神に顔(表情)は必要だろう。その場合、どういう顔が必要か? 幾つかの顔の種類や表情の種類など組み合わせて編集する必要があるかと思う。いずれにしても、この分野に関しては、これからも様々な試行錯誤が必要であると考える。

                 顔が示す精神力動

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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