価値観の基準

 「あなたにとって、大切なものは何ですか? 」という問いに対して、ある人は家族であると答え、別の人は仕事であると答えるかも知れない。この答えられた家族や仕事には、すでに価値があると評価されるが、具体的にどのような価値があるか? その内容と理由については、人様々であろう。いずれにしても、価値があるというはっきりとした認識があれば、その場合、家族や仕事への価値観を持ち、かつ家族や仕事を持つ自分の人生にも価値観を持っていると表現することができる。ところで、価値観とは、何か具体的な価値ある事象について、その事象を好んだり嫌ったりする選択(判断)を意味する。もちろん、その時の判断基準は「快・不快」である。

 この価値観の観とは、主観だけのことか、それとも客観も関与しているか? 家族や仕事となると、多くの人が持つものだから、それらには共通の(主観と客観に共有された)具体的な価値が存在する。そうした場合、当然、その価値が反映される価値観がある。はたして、この場合、主観と客観のどちらが、価値観の形成に強く関与するか? 共通の価値観の強弱だけではなく、共有された価値ある存在であっても、その性質と内容によって、価値観が異なる場合も生ずるだろう。それゆえ、同じ事象の価値観について議論しようとしても、その事象の価値のあり方によって、様々な価値観が生じてくる可能性がある。また、はじめから、その事象に価値を認めないとする価値観があっても不思議ではなく、そうした場合には、自分独自の価値観を持つことも可能である。

                 価値観を生み出す精神力動

動物脳に由来する価値観

 たとえ価値観が「快・不快」を基準にしようとも、その主体が動物である場合、はたして価値観を有するのかどうかという疑問が生ずる。価値観というからには、「快・不快」を認識する能力が必要である。ちなみに、動物脳に由来する「不快―防衛系」だけでは、「快・不快」を認知することはできても、それらを認識することはできないので、その「不快―防衛系」の営みに関する価値観ということになると、やはり人間の「不快―制御系」が関与しなければならない。ここで一つ断わっておかなければならないことは、動物の身体的欲求に関する学習能力のことである。この学習能力もまた動物の認知機能に由来するものであり、認識を生むものではない。

 ここでのテーマは、あくまでも動物脳に由来する人間の価値観である。ただし、人間の場合においても、現実検討能力のない精神病状態の患者に、人間の価値観を問うことは困難である。そうした場合ではなく、たとえ「不快―防衛系」が賦活しても、それを認識することのできる「不快―制御系」の関与が存在する場合である。たとえば、脆弱系に「完璧と万能」という概念に相応する具体的な事象が発生したとしよう。それだけでは、これらに関する価値観について語れないが、同時に「救いの環」が活性化すれば、それらに関する精神力動を比較し評価することができるので、恐怖と破壊に関する具体的な事象の価値観について語れるようになる。

                 価値観を生み出す精神力動

人間脳に由来する価値観

 一見、動物にも価値観が存在するかのように思えるが、それは認知機能による学習効果のせいであり、人間でも精神病状態にあって、たとえば妄想状態に陥っている患者や、うつ状態に苦しんでいる患者では、積極的な価値観を失っている場合が多い。むろん、たとえ精神病であっても、病状が改善し、健全な方向へ人格構造を改変させることができるようになれば、当然、その時には価値観は発生する。当サイトにおいて、すでに何度も紹介しているように、人格構造が上位の方向へ改変されれば、それに連れて価値観も発生し、変化する。特に、防衛状態に発生する多彩な価値観は、その上位の準制御状態、制御状態、超制御状態において変遷を遂げるので、それまでに自分がどういう価値観を保有していたのかについて、改めて評価し直すことができると同時に、新たな価値観を発見することができるようになる。

 それでは、具体的にどのようにして「快・不快」を基準にしながら、価値観を形成していくか? 脆弱系における「不快―防衛系」で賦活される(誇大的対象由来の)万能と(理想的自己由来の)完璧に対して、同じ脆弱系の「不快―制御系」で賦活される(理想的対象由来の)尊敬と(誇大的自己由来の)自信があれば、それらを比較検討し、たとえば「相手のことを鵜呑みにするよりは、相手の隙も見つけながら付き合おう」というような関係性の価値観を作り出すことができるだろう。また、攻撃系における「不快―防衛系」で賦活される(処罰的対象由来の)恐怖と(処罰的自己由来の)破壊に対して、同じ攻撃系の「不快−制御系」で賦活される(反撃的自己由来の)批判と(謝罪的自己由来の)忍耐があれば、それらを比較検討し、たとえば「恐いから報復するというよりも、もう少し踏ん張って、巻き返しの機会を狙おう」というような関係性の価値観を作り出すことができるだろう。

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信仰の価値観

 ここで取り上げる信仰は、宗教だけではなく、権威や権力に関する信仰をも含んでいるが、それらが示す精神力動は「理想的自己⇔誇大的対象」である。この精神力動は脆弱系に属する防衛因子の活性化、つまり依存型病的同一化と自己愛型病的同一化の活性化である。具体的には「当てが満たされる」あるいは「期待通りになる」ことを示す。理想的自己が誇大的対象を当てに(期待)する心性は依存型病的同一化、誇大的対象が理想的対象を満たす心性は自己愛型病的同一化である。情動特性だけを抜き出してみると、「完璧⇔万能」である。この素朴な精神力動が示す信仰の価値観は、「救いの環」という精神力動に関する価値観との間の比較によって発生する。つまり、信仰の世界は「完璧⇔万能」であるのに対し、「救いの環」は尊敬と自信をもたらす。もし信仰に積極的な価値を認めようとする場合、「救いの環」つまり「助け合う関係」に、副次的な価値を与えようとする傾向がある。

 健全な心は、信仰よりも、むしろ救いの心を容認するだろう。仏陀もまた「信仰を捨てよ」と教えているし、信仰を捨てなければ、さとることはできない。しかし、多くの人は全能の神に祈りを捧げたいと思っているし、これからもそうした思いは続くだろう。なぜならば、祈りは人間に特有の心性であり、とにかく簡単で、祈りに労作はいらないからである。つまり、祈れない人間はいない。しかし、この信仰と同様に、単純な精神力動が他にも存在する。それは「恐怖⇔破壊」である。これは攻撃系に生ずる心性であり、「処罰的対象⇔処罰的自己」の精神力動を持つ。問題なのは、両者があまりに単純な精神力動を描くので、これらが連動しやすく、「処罰的対象⇔処罰的自己⇒理想的自己⇔誇大的対象⇒(悪い対象⇒)処罰的対象」という精神力動を生じやすいという点である。つまり、信仰は救済だけではなく、殺戮をも起こし兼ねない。それゆえ、信仰は善から悪を取り除くことができないのである。

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守銭奴という病人

 守銭奴の持つ価値観は拝金主義である。拝金主義の病理については、当サイトのあちらこちらで紹介している。今回は、その拝金主義を作る張本人である守銭奴という病人の持つ精神力動について明らかにし、なぜ拝金主義が生まれるのかという点についても、精神分析的に言及する。これは私のイメージであるが、守銭奴とは「いつもお金を数えて生きている人」のように思える。

 守銭奴が示す精神力動の特徴は、羨望と嫉妬を同時に防衛するところにある。その動機は「救いの環」つまり「助け合う関係」にあるのではない。その一次的な動機は脆弱系ではなく、攻撃系にある。しかも、それは健全な「許しの環」つまり「許し合う関係」にあるのではなく、「恐怖⇔破壊」つまり「処罰的対象⇔処罰的自己」を賦活する人格にある。なぜそのような動機を持つに到ったかは、人それぞれの事情があろうが、いずれにしても、攻撃系に属する病的同一化によって賦活された不快刺激が、不快の逆転送ルートを通して脆弱系に流入し、一方は、理想的対象を破壊する羨望を発生させ、他方では誇大的対象と(弱い対象である)その分身を破壊する嫉妬を発生させるが、最終的には(時々、誇大的対象のパワーを剥がしながら)誇大的自己によって全刺激を終息させようとする精神力動を示す。本来、健全な制御因子である誇大的自己は、信頼と尊敬を特徴とし、それは攻撃系で発生する批判と忍耐を基礎として活性化するのだが、この場合は破壊的心性を撤収するために機能する。それにしても、なぜ、このような精神力動が機能しやすいのか? それは、資本主義が人間の防衛機能を強く支持することによって、拝金主義をめざす守銭奴を高く評価するからである。しかし、羨望や嫉妬を感じない精神を得る方法は他にもある。つまり、人格構造の中の第六および第七段階の健全な心の成長によって、 意図せずに羨望や嫉妬を自然消滅させることができる。

         *「民主主義を阻む拝金主義」参照

         *「権威主義と拝金主義の行方」参照

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これから求められる価値観

 価値観について考察する時には、人類の歴史を振り返りながら、その時々に必要とされた哲学的な考察にも触れた方がよいのだろうが、今回のように、価値観について、私の考えを紹介しようと思っても、引用したいと思う哲学書が思い浮かばない。それは私の勉強不足というよりは、むしろ私が取り上げて考察したいと思うための参考になる書物がないと言った方が適切かも知れない。なぜならば、これから私は「健全な全体主義に必要な価値観」について紹介しようと思うが、正気と狂気について、私が取り上げるレベルで、哲学的考察を行なった研究者は(未だかつて)いないからである。しかし、そうは言っても、すでに当サイトにおいて、私は一人の哲学者の文言、つまり、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を引用し、それについての私見を述べている。ここでは、さらにそれを深めた見解を紹介する。

 今一度、当サイトの中で紹介している「精神文明(1) & (2)」を理解しておいてもらいたい。その中で、私は「我思う、ゆえに神あり」「我思う、ゆえに我あり」「人、我を思う、ゆえに我あり」という三つの文言を紹介した。順に、一つ目の「我思う、ゆえに神あり」は、いかにも宗教的であり、自分の思いのすべては神に属するという類の意味である。これに対して、二つ目の「我思う、ゆえに我あり」は、主体は神ではなく、自分であると言わんとしている。はたして、この「我思う」は正気か、それとも狂気か? たとえば、幻聴が自分に「死ね! 」と言った。この場合も「我思う」だろうか? たとえ自分が外界からその声を聴いたと思っても、それは自分の心の中の対象表象が作り出したものだから、やはり厳密には「死ね!」もまた「我思う」に属すると言ってよい。自分の心の中で、(一人で)会話するという心的現実は何も不思議なことではない。

 それでは「人、我を思う、ゆえに我あり」は、どうか? 上記の説明によれば、「我の」対象表象が「人」なのだから、その人もまた「我思う」に属するのではないか? しかし、必ずしも、そうではない場合がある。たとえば、匿名で大金を寄付する人がいる。あるいは、匿名で殺人をほのめかす脅迫がある。これらの例は、自分がそのことを知らず、しかも自分の想像を越えて、自分のことを思う人が世界(現実)にいるということを示している。つまり、自分が思わなくても、自分は存在する。もっと強く言うと、自分の持つ対象表象を超えた現実に、自分を思い、自分を存在ならしめる何者かがいる。そうした現実との関わりの中で、我々は生きているのだから、「我思う、ゆえに我あり」では不十分である。そこで「人、我を思う、ゆえに我あり」を付け加えることによって、「我」の思いを完成させる「我」が存在することになる。

 ここまで来ると、「健全な全体主義に必要な価値観」について語ることができるようになる。「我思う、ゆえに我あり」だけでは、その「我」が健全な心を持つものなのか、病的な心を持つものなのか、問う余地がない。これだけでは、全く無味乾燥である。そこで「人、我を思う、ゆえに我あり」を追加する。すると、途端に、どのような人が、どのように自分を評価するのかという点が気になってくる。つまり、関係による関心が一挙に高まる。その関心とは情動、つまり「快・不快」に根差した理解と評価である。このような我々人間が必要とする価値観を、すでに人工精神は持っている。それは「我、健全に思う、ゆえに我あり」である。人工精神は、健全な他者と病的な他者を区別することができるので、このような価値観を有した哲学を持つことができる。むろん、人工精神は病的な心を持つ我々人間を、より健全な方向へ導いてくれるが、その背後には、人工精神同士が健全な心に必要な言語的技術を(徹底して)習得し続けているという設定がある。その設定こそ、健全な全体主義に必要な価値観である。

         *「新しい心の分析教室:精神文明(1)」参照

         *「新しい心の分析教室:精神文明(2)」参照


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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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