情動と感情

 人の情(思いや気持ち)は、その人が生きている限り、(目覚めていようと、眠っていようと)動き続けている。大脳基底核や視床、それに前頭前野などを繋ぐ情動系神経回路は(知覚系や思考系、それに運動系などの神経回路との間に、入出力経路を有するものの、)一種の閉鎖回路(サイクル)を形成し、人の情はその中を駆け巡っている。その情動は、意識によって気づかれる場合もあるが、意識によって気づかれずに、ただ情動系神経回路を循環している場合もある。つまり、ある情動が意識によって気づかれれば、それは感情(感情体験)になるが、もし気づかれなければ、それは無意識的、あるいは前意識的な情動のままである。このように、意識的であるかどうかによって、感情であるかどうかが決まる。その感情の性質や種類、その感情の元である情動の性質や種類は、情動に認知的解釈(意識による理解)や認識的解釈(意識による理解と言語による理解)が施されることによって決まる。しかし、情動と感情の違いは、あくまで意識的かどうかの違いだけである。

 

                      情動の構造と機能

知覚認知と情動認知

 外界から、知覚系を通して何らかの刺激が脳内に入ると、それは側頭葉や頭頂葉、それに前頭葉の介入を通して情報処理を受ける。これと同様に、情動は(上記の)情動系神経回路からの入出力を通して情報処理を受ける。むろん、いずれの場合においても、知覚由来の情報や、情動由来の情報が、意識的になる場合もあれば、前意識的、あるいは無意識に留まる場合もある。それは、専ら意識の事情である。

 それでは、意識にはどのような事情があるか?(『次世代の精神分析統合理論』の中で明記したように、)意識は「(快・不快を)選ぶための迂回路を進む船頭」として機能する。ちなみに、知覚由来の情報が、知覚認知(知覚の理解)を形成するためには、意識の機能を必要とする。むろん、何らかの情動由来の情報が、情動認知(情動の理解)を形成するためにも、同様に意識の機能を必要とする。そして、意識されれば、知覚由来の情報は知覚(的に)認知(理解)され、情動由来の情報は情動(的に)認知(理解)される。

 

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認知的解釈と認識的解釈

 いかなる精神現象も、認知的解釈が施される際には、「快・不快を選ぶための迂回路を進む船頭」が必要である。情動由来の情報であれば、それはすでに情動系神経回路の中に入り、循環している。しかし、たとえ知覚由来の情報であっても、意識の機能を利用するためには、その選択を可能にする材料が情動系神経回路に入り、情動の持つ特性である「快・不快」の、いずれかを有するものに変化しなければならない。たとえば、今、私はテーブルの上のパソコンに向かっているが、このありふれた現実の知覚認知でさえ、何らかの知覚由来の情報が、「快・不快を選ぶための迂回路を進む」意識の機能を通して形成されている。(もし私がテーブルの上のパソコンに向かうセッティングに不快を感ずれば、その不快を払拭するために動き、目的を達成することは難しい。だから、そのセッティングが非常に快適でなくても、せめて不快を感じないようなものでなければならない。)

 認知的解釈を受けた情報は、その後、二つに分岐する。第一は、意識を通過して形成された知覚認知のプロセスになり、第二は、情動認知から情動認識へのプロセスになる。この二つのプロセスは、心的現象として知覚と情動を安定させるために重要な手続きである。一方で、知覚由来の情報が、まるで情動認知が形成されるかのような仕組みを通して、知覚認知を形成して安定し、他方で、情動認知は情動認識に移行して安定する。知覚認知は、すでに情動認知から抜け出して、原則的には情動系以外の領域、つまり主として物的現実の中において、様々な現象を区別する。(すでに、一連の精神分析統合理論の中で言及した「情動排除型自我意識」を形成する中核的な存在であり、さらには認知言語と呼ばれる「感情潜在言語」の中核的な存在でもある。)これに対して、情動認知から情動認識への移行は、情動系から情動系以外の領域への移行を意味しない。つまり、情動認知も情動認識も情動系内に留まり、両者が絡み合って、様々な神経伝達経路を形成する。ただし、情動認知だけであれば、その情動に関する情報、たとえば主観的体験(心的現象)が、物的現実に相応したものであるかどうか、わからない。はたして「人の声が聞こえる」のは、その人の声が物的現実から発せられたのか、それとも自分の(心の中である)心的現実から発せられたのか、わからない。そこで、この区別をつけるために、つまり現実検討能力あるいは病識を持つために、情動認識を必要とする。

 

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(脳科学に求められる)情動研究の方向性

 すでに示唆したように、私の考えでは、知覚認知と情動認知の形成順は、情動認知が先になり、知覚認知は後になる。もし情動認知が形成されれば、その次の段階で、知覚認知と情動認識が形成される。ただし、その場合、情動認知と知覚認知は意識による情報処理という次元では同じでありながら、情動認知が知覚認知に先んじる。これに対して、情動認知と情動認識は、(先行する)意識による情報処理と、(後続の)言語による情報処理という異なった次元の課題を持っている。

 情動認知と知覚認知は、どのように同じなのか?それは、いずれの形成の場合においても、意識の機能を利用するという意味において同じである。意識は、情動の快・不快の選択をめぐって発生するので、情動認知が形成されるのと同じように、知覚情報もまた情動と意識の間に組み込まれるようにして、知覚認知が形成される。それは具体的にどのようなものか?それは、もし色であれば、「黒より白の方が好きですよ」とか、あるいは、もし形であれば、「三角より四角の方がいい」といった、極めてたわいのない好みの選択を、(それがたとえ一時的であっても)「快・不快」を入れて選択するということを意味する。そして、そのように情動認知のあり方を借りて知覚認知が形成された場合、しばらくの間は、その知覚認知が情動認知の名残を残す。(つまり、しばらくの間、知覚認知も淡い「快・不快」を帯びる。)

 これに対して、情動認知に情動認識が加わる場合は、意識だけの機能では無理だから、言語の機能が加わらなければならない。その原則として、認知の場合は、意識によって知覚に関する理解や、情動に関する理解を得ることができる。そして、知覚が認知を得て知覚認知となれば、(原則的に)それ以上のレベルを求められることはない。環境や、その状況を理解することができれば、大きな死活問題が頻繁に生ずることもなくなるだろう。ところが、情動が認知を得て情動認知を獲得しても、それだけでは、正常な(健康な)心を持つことはできない。それゆえ、言語による情動認識が必要である。認識とは、理解の理解であるから、自分の理解を相手も理解するとか、相手の理解を自分も理解するという相互理解を伴うので、(絶対的な)思い込みの世界ではなく、現実検討がしっかり確立している心的現象を作り出す。

 このように、認知と認識の形成は、意識と言語の機能に関係している。換言すれば、認知的解釈は意識の機能なので、意識の発生メカニズムを解く必要があり、認識的解釈は言語の機能なので、言語の発生メカニズムを解く必要がある。すでに、私は精神分析学の領域の中で、それらについて十分に言及しているので、残された仕事はいわゆる脳科学の課題として限定されたものになっている。

 

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情動の構造と機能に関する考察

 一連の精神分析統合理論を完成させる上で、最も重要なポイントのひとつは、情動に関する研究である。まさに(7種類14個の情動因子が奏でる情動制御システムと、それによって引き出される人格構造論と、精神分析的根治療法の方法論を持つ)情動制御理論がこれらを表わしている。当サイトのあちらこちらで、繰り返し紹介し続けているように、情動の本質とは、我々の心を正常に(健康に)動かす機能である。そして、それを後方支援するのは、意識・言語・人格などの精神現象を解明している精神現象生成理論である。これらのテーマを精神分析学的に解明し、その上で、人工精神(AM)の創発という地点まで到達し、私の目標設定は完了した。このように、すでに精神分析学からは一通りの解明がなされているので、もはや残された領域は脳科学の範疇に属するテーマだけである。

 ところで、情動認知が知覚認知に先行して形成されるという私の見解を、他の研究者はどのように考えるだろうか?おそらく、世の中のほとんどすべての研究者は、私に反対するだろう。たとえ知覚認知から情動認知が発生しても、その逆はあり得ないと主張しそうである。私と正反対の意見を持つ研究者は、私が主張したように、自らの考えの正当性を私以上に主張することができなければならない。しかし、そんなことをしなくても、現在の人工知能(AI)の技術革新には何の影響もないので、私の主張は肩透かしを食らうかも知れない。当分は人工知能(AI)ブームだから、それはいたし方のないことである。だが、もし私の見解が正しければ、それは(本当は)大事件のはずである。なぜならば、今までの発想が根底から覆される可能性が出てくるからである。

 当サイトに掲載している「情動と言語(1)情動脳と様々な認知学説」の中で、私は「泣くから悲しい」と、本気で考えている人はいるだろうか?と読者の思いを喚起し、この考えは本末転倒であり、かつて天動説が地動説に変わったようなチャンスが、この考え方にあると錯覚するのは、間違っていると豪語した。ところが、今度は私自身の研究について、他者に問い掛けている。つまり、知覚認知が情動認知に先行して形成される考えの方が、天動説に匹敵し、情動認知が知覚認知をも生み出すという考えの方が地動説である。私はこのいずれが先か、後かという、それだけに固執しているわけではないが、「知覚→認知→行動」というパターンを、今一度見直し、「情動→意識→言語→精神」という順で(形成されるプロセスについて)吟味してみることは、研究者にとって極めて重要なことであると考える。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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