集中・直観・洞察

 もし動因系が活性化すると、「動因系→報酬系」または「動因系→嫌悪系」という、いわゆる本道の神経伝達が生ずると同時に、いわゆる迂回路としての「動因系→意識ニューロン」という神経伝達も生ずる。これらによって、報酬系も嫌悪系も活性化し、「報酬系→意識ニューロン」と「嫌悪系→意識ニューロン」という神経伝達も生ずる。すると、意識ニューロンに向かって(報酬・嫌悪系からの)両神経伝達が収斂、衝突する。この時、発生する電気現象が直観である。この原理については、当サイトに掲載している「意識の正体」の中の「意識体験(驚き)」の中で紹介している。

 意識ニューロンが起こす直観の前後に存在する集中と洞察の心的現象もまた極めて重要である。これらの関係は、『ダイジェスト版・精神分析統合理論』や『次世代の精神分析統合理論』の中で、明瞭な図を示しながら紹介している「脳内神経回路機能網」を眺めれば、その理解は一目瞭然なのだが、当サイトでも紹介している「動機理論」の中の「動機の発生メカニズム」は、それをわかりやすく整理して紹介してあるので、読者には、是非、それを読んで理解されることを勧める。集中・直観・洞察という一連の心的現象は、意識と「孤独型」誇大的自己との連携を必要とするが、いかにして我々の心性が葛藤領域外へ脱出するか、いかにして我々が「自由」を獲得するか、その源泉がその両者によって作り出される。

 

                            意識研究(2)

「主観と客観」の製造元

 主観と客観の製造元は「⇔知覚系⇔思考系⇔情動系⇔」の三つ巴の関係に由来する。もし何らかの心的現象が発生したり、消滅したりする時に、これら三者の持つ、それぞれのモードによって区別することが可能である。たとえば、二人がそれぞれ別の物を持っていて、それをお互いに共有して使おうとする場合、別々の物は知覚系「自・他」モードに該当させることができる。また、それぞれがどちらか一方を持っていることを表わす場合、持っているかどうかを思考系「有・無」モードに該当させることができる。さらに、お互いに貸し合って使おうとすれば、それは助け合うわけだから、救いの環の四つの(快・不快)情動因子、つまり「→弱い自己→理想的対象→弱い対象→誇大的自己→」が活性化される。この救いの環は自分だけではなく、双方に生じているので、二人が協力して何か作業をしている時は、主観と客観が交錯している。むろん、交錯していると言っても、その作業に夢中になっている間は、自分の意識が(自分の)主観だけを作っているかのように錯覚する。しかし、このような場合、意識は自分の主観に寄り添っているだけであり、あくまでも、自分の主観を構成しているのは、上記の三つのモードであり、たとえば、それは「自・有・快」という組み合わせによって形成された混合物である。そして、この組み合わせを、意志の発動機関である「孤独型誇大的自己」が変えようとする時、はじめて意識が機能する。

 

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意識のハード・プロブレム

 上記のようなメカニズムを理解していれば、(特に「動機の発生メカニズム」を理解していれば、)「科学は客観、意識は主観」という区別にはならない。それでは、なぜそのような区別を容認し続けたのか?それは、いわゆる認知科学と呼ばれる広大な研究領域のあり方に原因がある。つまり、いわゆる認知科学は、情動を除け者にしてしまった。主観や客観は「⇔知覚系⇔思考系⇔情動系⇔」の三つ巴の関係によって作られるのだが、その中から情動系だけを抜いた。その結果、ほんの一部の心的現象(知覚系⇔思考系)しか説明できなくなったが、その状態を、認知科学者は「科学は客観」であると豪語した。知覚系「自・他」モードと、思考系「有・無」モードは、数的処理が可能である。これに対して、情動系だけが主観を形成するわけではないが、やはり主観の主人公は「快・不快」モードである。情動系「快・不快」モードは数的処理が困難である。このような事情があるから、たとえそれに気づいていても、情動系をどのように処理したらよいか、わからず、ひたすら「意識とは主観である」と言い続けてきた。だからこそ、いま私は(繰り返し)情動認知の重要性について主張し続けている。

 

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知覚意識、記憶意識、情動意識

 このタイトルが示す三つの意識は、いずれも単独では発生しない。たとえば、知覚意識が発生しようとする時、その知覚刺激が情動を誘発し、その処理が情動意識を発生させようとしている可能性がある。そうすると、知覚意識と同時に、あるいはそれに先行して、情動意識も発生する。すでに、私は二つの概念を紹介している。ひとつは「脳内神経回路機能網」の中の「⇔知覚系⇔思考系⇔情動系⇔」という三つ巴の関係である。この関係が意図する内容は、いずれの系列も単独で機能し切らないという意味である。様々な要素が混ざって、心的現象を作り出していると理解する方が自然である。心の立体構造の中に存在する様々な神経伝達のあり方が、その混ざり方を示唆している。つまり、いずれかの神経伝達だけが意識を発生させるということではなく、上記の三つ巴の関係が(動物の場合は行動だけを発するが)人間の場合は言語を発生させ、その言語によって意識の性質も向上した。そのような実情を(当サイトで掲載している)「人工精神(AM)を創発するための工学的アプローチ」の中で「途切れない言語的意識」として紹介している。

 

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意識由来の概念と言語由来の概念の混乱

 タイトルで示した内容に入る前に、決して間違えてはいけない概念について、ここで改めて触れておくことにする。この点について、今まで繰り返し紹介してきているが、とにかく意識(覚醒的自己)と自意識(自己意識・自我意識)は、全く別物であり、我々の心の中には、これら二つが重なったり、離れたりして機能しているという心的現実が存在する。この点を間違えてしまえば、その先の内容は「迷宮入り」間違いなしという状況に陥るということをよくよく理解していなければならない。

 ところで、認知とは意識由来の概念であり、認識とは言語由来の概念である。意識は(前項で示したように)脳内神経回路機能網の中の「⇔思考系⇔知覚系⇔情動系⇔」という三つ巴の関係によって生み出された情報内容を、(理解と判断を持つ)迂回路プロセスという独特の機能を用いて、様々な認知(情動認知、概念、知覚認知)を作り出す。他方、認識は様々な(現象由来の)認知をつなぐことによって発生する、新たな現象とその本質を説明するための概念である。むろん、それは言語を意味する。ちなみに、意識の発生母体は不快ー防衛系であるのに対して、言語の発生母体は不快ー制御系である。たとえば、「今は猛暑である」という認知文と、「アイスクリームは冷たくて甘い」という認知文をつなげると、「今はアイスクリームが美味しい」という認識文になる。これは一種の文脈形成を意味するが、その文脈形成を認識形成と置き換えても、何ら違和感はない。(いま、この文脈で使用している不快ー制御系の意味は、当サイトで紹介している「心的現象に関する概念(1)」の中の「言語理解の進め方」に沿った内容であり、その三段目から四段階目に相応する。)

 

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クオリアを作り出す迂回路プロセス

 クオリアとは「感覚質」という意味である。この「〜質」というのが、気になるところである。はたして、どういう意味か?性質なのか、それとも本質なのか?性質であれば、それ以上の思いを馳せる、その感覚の奥行きはないように思う。他方、本質であれば、その人がその感覚をどう感ずるか、おそろしく奥行きがあり、かつ幅があるように思う。むろん、その本質はその人によって保有されるものであるから、まさに千差万別である。そして、たとえその全貌を捉えようとしても捉え切れず、そのこぼれ落ちる様を知りながら、我々はその感覚の本質を理解すると、巧みに表現する。意識の面子を潰すわけにはいかないからである。ただし、もしその感覚の本質が、我々に日常的な楽しみをもたらすことが可能であれば、つまり、たとえば「ああ、いいね!」と感動するレベルに(クオリア、つまり感覚質が)達してしまえば、その時にはすでに、我々は体験した感覚質を経験化している。しかし、そうしたレベルにまで感覚質を持ち込むと、もはやクオリアのレベルを超えて、我々は心地よさしか感じなくなってしまう。だから、もし感覚質のレベルで、先ほどのこぼれ落ちるほどの感覚質を満喫したいということであれば、それを楽しみ(や苦しみ)に変えない禁欲的な側面がなければ、クオリアを満喫することはできない。

 さて、もう少しメカニカルな用語を用いて、このクオリアを説明しておきたい。すでに、意識とは(逆行性収斂を用いた)迂回路プロセスであると定義づけた。その原理を用いる心的現象は、クオリア(感覚質)だけではない。様々な表象や様々な感情という(レベルの)表現もまたクオリアに匹敵するものである。そこで、この迂回路プロセスが作り出す三者の変貌について言及しておきたい。純粋な感覚からクオリアを感じ取る場合、あるいは素朴な記憶からひとつの表象を形作る場合、さらにはある思いから感情を引き出そうとする場合など、いずれの場合においても、意識の関与が必要である。そして、意識が関与するということは、すでに知覚だけ、あるいは思考だけ、さらには感情だけという素朴で純粋な性質はなくなる可能性を意味する。つまり、(上記の)三つ巴の関係から混合された独特な成分構成を持つ複合体が、意識の迂回路プロセスにより、新たな構造物になるために加工される。この点については、先ほど「知覚意識・記憶意識・情動意識」のところで言及したばかりである。(当サイトに掲載している「心的現象に関する概念(1)」の中の「意識とは何か?」という記事の中で、「クオリアとは、知覚刺激と知覚認知の差を感ずる意識体験である」と紹介している。)そうした構造物に対して、新たな名前を準備すれば、それは知覚認知、(抽象)概念、情動認知という用語になる。そして、これらが我々にとって、さらに気に入るかどうかという視点を盛り込もうとすれば、その時にこれらは(上記の認知レベルを超えて)認識というレッテルを貼られることになる。つまり、我々は(快・不快を本質とする)言語を用いて、様々なレベルの心的現象を体験し、それを経験に変えて、世界を作る。

 

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クオリアに「瑞々(みずみず)しさ」は不要か?

 今まで、意識体験としてのクオリアは存在しても不思議ではないという思いがあった。私のクオリアに関する理解は、意識に入る(生の)様々な知覚や記憶、それに情動が、迂回路プロセスとしての意識によって、(処理された)様々な知覚認知や記憶認知、それに(様々な感情としての)情動認知に変化するプロセスの中で体験する「様々な質感」であるという理解であった。ところが、もう一度、クオリアに関するネット掲載を調べてみると、私の思いと、それを専門として扱う研究者との間で、ずいぶん、ズレのあることがわかってきた。そこで、これは捨て置けなかったので、もう一度、クオリアについて考察する。

 とりあえず、ネットの中からの記事を二つ紹介したい。

 ひとつは、シンギュラリティサロン#31大泉匡史「意識の統合情報理論から意識の理論の創り方を考える」である。その中の一部を引用する。

 

 ものがこういうふうに見えているというのが視覚のクオリアであり、同様に聴覚のクオリアや触覚のクオリアがある。クオリアがあることをもって、意識があるという。夢を見ている状態において、実体は何も存在しないけど、クオリアはあり、意識があると言える。

 

 そして、もうひとつは、クオリアー脳科学辞典である。その中の一部を紹介する。

 

 「それになった感じ」としてのクオリアは、通常、広い意味でのクオリアと同義であると考えて良い。クオリアは、意識の感覚的な側面のみを指す時に限定して使われることもあるが、「それになった感じ」には非感覚的な思考や感情など経験すべての側面が含まれる。

 

 まず、ひとつ目の引用文から見ていくが、すでに私は「夢は意識ではない」という記事を紹介している。その夢の中にクオリアがあるとなると、私の「クオリア」観は間違っているということになる。次に、ふたつ目の引用文も含めて、私なりに理解すると、夢の中には様々な次元の心的現象が混入する。認知以前の記憶、認知後の記憶、認識された記憶など、それは記憶の全体だと言っても過言ではない。すると、結局、夢そのものがクオリアだということになり、「意識=夢=クオリア」になってしまう。しかも、「それになった感じ」だけで、クオリアを説明し切るのである。私は勝手に、クオリアには「瑞々(みずみず)しさ」があると思い込んでいたので、この引用文に対して、何かコメントをしろと言われても、それは勘弁願いたいと返すしかない。ちなみに、痛みは夢に出現するか?痛みは「それになった感じ」の領域を超えてしまうのではないか?

 ところで、このクオリア研究に関して、別の視点からも難題が存在しているという。それは、アクセス可能な意識と現象としての意識という二つを区別し、後者を意識のハードプロブレムだと言うが、クオリアの現象的な側面は研究不能領域だとさえ言われるようになっている。この点に関しても、すでに私は「意識のハードプロブレム」と言う記事を紹介しているが、その中でとりわけ主張している内容は、意識のハードプロブレムは認知科学の領域に発生する課題であり、情動認知科学の領域には存在しないという主張である。私の理解では、クオリアの現象的な側面(いわゆる主観的意識体験)には、特に「瑞々しさ」がなくてはならないと思う。もしクオリアが夢の中にも(否、夢そのものにも)存在するという主張がなければ、情動認知科学を用いて、つまり精神分析統合理論を用いて、クオリアの現象的な側面、つまり主観的意識体験を定義付けることが可能である。ちなみに、フロイトとトノーニを戦わせたくないが、もし戦わせれば、勝敗は明らかである。やはり、夢は無意識への王道であって、意識ではない。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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