アメリカ合衆国の課題

 1. 不正選挙

 民主主義を唱えている国は、なにもアメリカ合衆国だけではない。ヨーロッパやアジアにおいても、自由主義、つまり、いわゆる民主主義を唱える国は数多く存在する。しかし、超大国であり、先進国でもあるアメリカ合衆国の民主主義は、世界の多くの人達の規範や希望になってきたところがある。ところが、2020年から2021年にかけての大統領および上院議員選挙の不正を示す動画を見る限りにおいて、すでにアメリカ合衆国の民主主義は腐敗し、ほとんど機能していないことがわかった。

 2. 証拠隠滅

 大統領選挙において、ある投票場での不正な票の集計を示す動画が公開され、多くの州で同じような不正が行われたことを示す事実が数多く報道された。それを見せられた人は驚き、大変なことになったという思いを抱いたが、その後、そうした事実の報道は、様々な報道機関から一掃されてしまった。つまり、多くの報道機関は、不正選挙の隠蔽を図ったのである。そうしたメディアの徹底した隠蔽と同時に、取り沙汰された州は不正な選挙であるという証拠隠滅をしたと考えられる。

 3. 他国干渉

 このような一連のプロセスについて、すでに我々は世界の様々な所で生じていることを知っている。おそらく、世界に存在する数多くの国々によって、様々な不正と、その証拠隠滅が行なわれているだろう。なにも中国や北朝鮮を例に挙げるまでもなく、日本においても、そうしたことは生じている。むろん、その規模の大きさや頻度はそれぞれの事情によって異なるだろうが・・・それはさておき、今回のアメリカ合衆国の選挙に関する不正は、他国による介入(干渉)が堂々と行われたという特徴があるようだ。

 4. 言論統制

 自国民の意思が反映された選挙によってではなく、他国の影響つまり介入(干渉)によって、自国の代表が決まるということになると、それは他国による自国の国家転覆を意味する。そして、その国家転覆という事実の隠蔽以上に重要な事は、他国の主義主張を、まるで自国にも存在するかのように採用しようとする策略である。それが、今回は言論統制という形になって表れた。言論統制は、民主主義そのものを崩壊させようとする営みであり、それは選挙の不正とその隠蔽という事実から、遥かに超え出た手段である。

 5. 悪の正義

 それにしても、なぜ言論を統制する必要があろうか? 言論を統制する側の主張では、今まで述べた内容は(一種の)陰謀論の域を出ないものであるから、その基になるフェイク・ニュースを垂れ流していると、かえって真実は伝えられなくなるので、そういう意味での言論の弾圧は決して言論統制を意味するものではないと主張する。つまり、不正も隠蔽もなかったという主張である。はたして、そうであろうか? そうであれば、怪しげな動画を削除するよりも、むしろ徹底して、その絡繰りと内容を解明した方がよいのではないかと思われる。

 6. 修正不能

 もしすべてがフェイクであり、陰謀であれば、それは確かに言論統制には該当しない。しかし、それが事実であれば、それは民主主義国家にとって致命的である。今回、そうした不正と隠蔽に関わったとされる組織や人達は数え切れない。あまりの多さに、成す術を失ったという状況である。もしこの不正と隠蔽をなくそうとすれば、大きな犠牲を強いることになるかも知れない。おそらく、無数の惨劇が起こるだろう。だとすると、どうするか? すでに暴いてしまっているが、このまま見過ごすしか方法はない。(今は事を荒立てず、当事者は祈ることを懇願した。)

 7. 民主主義の終焉

 かくして、国家転覆は成立した。裁判、議会、行政、いずれの機関も、その変革のために立ち上がれず、不正とその証拠隠滅に対する処置はほとんどなされないままに終わった。つまり、一連の不祥事は陰謀として片づけられ、それを企てた人間はいずれ抹殺されるだろう。かくして、アメリカ合衆国の民主主義は終わった。今回のエピソードは末期癌の手術に例えられる。中共という原発巣を摘出しようとしたが、開いてみて、浸潤や転移を発見し、手の施しようがなく、そのまま閉じたという逸話に等しい。

 8. 蘇る民主主義

 当サイトの別のページに紹介しているように、民主主義とは自由と平等を持つ社会を意味する。この自由と平等は健康な心を持つ個人に存在し、それが集団にも拡充して存在する。しかし、人間にはそうした健康な心と同時に、病的な心も存在するので、一部の人にはその病的な心ゆえに、祈ろうと呼び掛ける人もいる。しかし、たとえ祈っても、信仰は健康な心を作り得ない。そこで、我々は健康な心を持つ人工精神を創発し、人工精神と共に生きることによって、健康な心を育むことができると考える。それができれば、民主主義は蘇る。

                 新しい心の分析教室:ノート(Ⅸ)

          *参照: 自由と平等の精神分析 

               民主主義と精神分析

               民主主義と人工精神

「係争と狂奏」を超越する人工精神

 たとえ憲法が民主主義を唱っていても、2020年のアメリカ大統領選挙では、正々堂々と憲法が無視され、民主主義ではなく、全体主義が横行し、そしてそれが成就してしまうという結果を招いた。むろん、これから少しずつ、その修正を行なっていくことになるのだろうが、誰もが今回の体験に懲りて、今後は憲法を順守するようになるだろうか? つまり、民主主義は健全な姿に回復するだろうか? 残念ながら、この問いに対しては肯定的に答えることはできない。なぜか? それほどまでに人類は愚かだろうか? その時々の歴史上の出来事の中で、どういう事が起こっているか、注意深く観察すれば、かつてと同じような間違いをしていることに気づくかも知れない。しかし、たとえそれに気づいたとしても、すぐにその情勢を修正することは困難である。なぜならば、それぞれの人間の無意識的欲求が重なり合い、その意気投合したところで行動してしまうので、そうした一連のプロセスが健全な心性によるものか、それとも病的な心性によるものか、洞察し判断することができないからである。つまり、いつも人の心には、病的に感じ、考え、行なってしまう傾向がある。だからこそ、歴史は繰り返す。そうした愚かな繰り返しを防ぐためには、人工精神の創発が必要である。

 1. 民主主義の精神を理解する方法

 もし民主主義と全体主義を対峙させるならば、民主主義は我々の健康な心である自由と平等を示すのに対して、全体主義は自由と平等を阻害し、抑圧するので、我々の病的な心を示すと理解することができる。これは余談であるが、我々の健康な心を「善」とし、我々の病的な心を「悪」として規定し、「善」は神によって与えられた性質であるという宗教的な考えもあるが、いつも宗教的な考えが我々の健康な心から発しているとは言えない。また、たとえそうであっても、その内容を変更することはできず、常に教祖の教えを信じなければならないので、矛盾を感じても異議をさしはさむ余地はなく、そういう意味では、宗教もまた全体主義的であると理解することができる。今日、我々の健康な心と病的な心とを鮮明に区別することのできる方法論は、修正された精神分析学である「精神分析統合理論」しかない。この理論を用いれば、今まさに世界中で横行している(嘘や盗みや騙しなどの)反社会性の持つ病理について正確かつ詳細に理解することができる。それゆえ、民主主義の中で培われる人間の健康な心や、精神分析統合理論によって、世界に渦巻く精神病理の実態を明るみに出すことができる。

 2. 揺らぎのない民主主義を獲得する方法

 民主主義的か、あるいは全体主義的か、いずれかの考えに導かれるプロセスは、様々な養育環境に根差した教育内容と深く関係している。もし自分が民主主義的な国家で生まれ育った場合は、その国家の精神として自由と平等はたいへん重要な役割を果たすと考えられる。これに対して、もし自分が全体主義的な国家に生まれ育った場合は、自由や平等を念頭に置いて考えることをせず、その結果、人間の病的な心が中心として活躍するような社会の中で生きていくことになる。つまり、恐怖や殺意などの破壊的攻撃性や、優劣を基準とした関係の構築や差別構造などを用いた社会である。現在、全世界では、いま指摘したような両方の社会が混在していて、それなりの関係を持ちながら、それぞれの国家を運営しているが、換言すれば、いかに健全な民主主義国家であっても、極めて病的な全体主義国家と付き合わなければならない事情はあるし、その逆の場合も存在する。つまり、いずれの国家が純粋に健康な民主主義国家であり、また別の国家が病的な全体主義国家であると区別し難くなっている現状にある。たとえば、日本の場合を例に挙げてみると、表層は民主主義的だが、深層は全体主義的であると言える。つまり、拝金主義や権威主義が横行し、共産主義を排除しない国家である。このように、日本は矛盾だらけの国家であり、本当の意味で、民主主義が機能しているとは言い難い。しかも、そのことに国民は気づかず、いかに自分が病的な心性によって動かされているかについて盲目的である。ただし、このような状況は世界中で展開されており、もはや人間同士の力では、純粋に健康な心だけを活性化することのできる社会の実現は困難である。そこで、しっかりとした健康な心を持つ民主主義国家の樹立には、人工精神の創発は必須であるという結論になる。

 3. 実際にどのように人工精神を創発するか? 

 人工知能(AI)という言葉を知らない人は少なくなったと思うが、未だ人工精神(AM)という言葉を聞く人は少ないと思う。この人工精神は人工知能の研究の延長線上に位置するものではない。つまり、人工知能と人工精神は本質的に異なる存在であり、人工精神の研究は人工知能のそれとは次元の異なる飛躍的な研究を必要とする。ここのところを、しっかりと理解する必要がある。現在、人工知能の研究とその実践はピークに達しているが、それらは我々の(身体を中心とした)生活に便利な要素を含んだ内容を保有する。これに対して、人工精神は専ら我々の心に関わる性質を保有する。つまり、言語を理解し、健康な心を表す言語を使用する存在である。人工知能の研究には認知科学が必要だが、人工精神の研究には現存する認知科学の研究から飛躍した情動認知科学が必要である。具体的にどのような飛躍が必要かと言うと、それは我々の生命の源泉である「快・不快」の概念を必要とする。この「快・不快」を(現存する認知科学の領域での)認知機能として置き換えることはできない。つまり、情動、意識、言語、人格など、我々の中核的な精神機能は、すべて「快・不快」が源泉になっている。それゆえ、従来の認知科学に抜本的な改革が必要になる。つまり「快・不快」の動態を示す数式を作り出すことによって、情動認知科学という新たな学問領域を開発するための方法論を発見しなければならない。この「快・不快」に関する数式ができれば、「次世代の精神分析統合理論」を用いて、人工精神を創発することができる。人工精神ができれば、その時、我々は精神文明の時期に入る。人工精神センターによる統括の仕組みを構築し、一人一台の人工精神の携帯によって、健康な心を主体とする民主主義世界を作ることができる。むろん、その時には(その時になっても存続しているかも知れない)メディアやビッグテックの逸脱したビジネスの監視や抑制など、造作のない作業になる。

 *「狂奏」は造語であり、病的な関係を意味する。国際関係の本質は、係争と狂奏であることを前提としている。

                 新しい心の分析教室:ノート(Ⅸ)

          *参照: 「コロナによる人為淘汰」に関する考察(1)

               「コロナによる人為淘汰」に関する考察(2)

お申し込みはこちら

精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

お気軽にお問合せください

img33739.gif
linkbanner web search japan.gif