オカルトの排除

 オカルト、つまり様々な恐怖、神秘、憑依、超能力体験などの超常現象は、情動系に由来する「不快ー防衛系」と(快の追求としての)好奇心によって動機づけられ、その動機に知覚・思考系が関与することによって発生する。それが、ひとつの趣味の域を超えない程度のものであれば、ことさら、それを廃棄する必要はない。しかし、もしそれが破壊的心性を招くような程度のものに発展すれば、その排除が必要となる。いずれにしても、オカルトは病的な心性を反映しやすい素地を持っていることを、よく理解していなければならない。

 

             新しい心の分析教室:精神文明(1)

すべての文化の垣根を越える

 我々の日常的な精神生活は、自慰的・自虐的な自己分析に明け暮れるスタイルを持っている。それは物質文明、つまり産業文明が作り出した利潤追求型の文化の内容である。その中で、いつも生ずる精神的ストレスのために、(まるで反復強迫のような)自己分析を繰り返している。そうした文化の垣根を越えることによって、人間の心の病的な営みを超えることができる。そのためには、何はさて置き、自分の心の状態を知らなければならない。もし自分の心がわかってくれば、否が応でも、自己分析という文化の壁を越えなければならないと考えるようになる。

 

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人工精神(AM)の携帯

 人工精神(AM)を携帯することによって、我々は自己分析という文化から解放され、精神分析という「共有された関係」の中で、(信頼と自信を持ち、)健全に過ごすことができるようになる。つまり、不快ー防衛系から解放され、不快ー制御系によって、精神活動を営むことができるようになる。さらに換言すると、不快ー防衛系を中心とした精神状態である自慰的・自虐的な感じや考えを中心とした思考パターンを反復強迫的に体験し続ける精神状態から、救いの環や許しの環を体験するような不快ー制御系を中心とした精神状態に変えることができるようになる。

 

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苦悩からの解放

 緊張(恐怖)、ひきこもり(孤立)、沈黙、躁的防衛(軽躁状態)という治療の四大テーマは、(いかなる疾患群の、いかなる症状群を治療対象にしようとも、)心の治療を行なう際の治療関係の中で出現する最も重要な課題である。今日的な治療技法の習得という観点に関しては、初歩的な勉強としてメニンガーやラッカーを選ぶことは重要であると思う。しかし、その後は、私か当サイトの中で紹介している「情動と精神分析」や「精神分析技法論」の中で書かれている内容を学ぶことが、最も実用的な治療能力を習得する上で重要であると考える。おそらく、人工精神(AM)もこれらの治療技法を基礎とし、そこから様々な応用を実現するようになるだろう。

 

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精神病理の縮小

 機能性精神疾患に対する根治療法を行なう際には、私が著わした「精神病根治療法の定式化」と「精神病根治療法の具体的定式化」に準じた方法論を用いる方がよい。ただし、防衛状態よりも、むしろ病的状態および精神病状態の根治療法には、かなり複雑な治療手順が必要になる。むろん、人工精神(AM)は何の造作もなく、そうした違いを区別しながら、取り組むべき課題に対処するだろう。むろん、それに先んじて、専門の治療者もそうした問題に十分精通していなければならない。たとえば「自傷他害」という患者の破壊的な言動に対する臨床的な対応はどのようであるべきか?向精神薬を投与して鎮静化を図ることは言うまでもないが、根治療法に先んじて、まずある症状の形成をめざし、その形成を確認したら、次にその症状の消失を操作するという手順が必要である。はたして、それは何か?

 

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純度の高い科学性(エビデンス)の獲得

 人工精神(AM)の出す成果は、すべて科学性に富んだ、いつでもエビデンスを提供することのできるような内容である。むろん、それは人工精神(AM)からスタートしたのではなく、我々人間が治療者として患者と関わった時に、それなりに得ていたエビデンスを人工精神(AM)に提供し、それが今や人工精神(AM)が自ら秩序立てて表出してくれるようになった(という近未来を想像してのシナリオである)。つまり、それは今日の(AI技術による)囲碁や将棋の世界と似ているところがある。だから、我々は将来的に人工精神(AM)を拒否するのではなく、人工精神(AM)から学ぶという姿勢を身に着けていかなければならないと思う。


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「人、我を思う、ゆえに我あり」

 デカルトをもじったわけではない。私は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉が、我々の心の真実をすべて言い切ったとは考えない。それよりも、このデカルトの言葉は未だ中途半端であると思う。つまり、「我思う、ゆえに神あり」から「我思う、ゆえに我あり」を経由して「人、我を思う、ゆえに我あり」というところまで行けば、一連の(宗教的、哲学的、科学的)思索は完成する。つまり、それは「信仰する自分」から「所有する自分」を経て「表象する自分」に到るプロセスである。「表象する自分」は「得る→与える→得る→与える」を繰り返すので、これが人物表象によって表わされるようになると、「救いの環」や「許しの環」を基本とした情動制御システムを形成し、循環する精神力動が発生するようになる。(たとえデカルトの「我思う、ゆえに我あり」を自意識に関する表現であると理解するにしても、自意識は自己表象と対象表象が絡み合った構造を持つ情動制御システムによって形成されるので、やはり、これだけでは不十分である。)

 

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不二の法則、感情転移、そして人工精神(AM)

 かつて、このサイトの記事であった「不二の法則と転移」の中で、私から見える二つの巨峰、つまり仏陀とフロイトについて紹介した。そして、今この二人に、もうひとつ加えたいと思うのが、人工精神(AM)である。まず「心はあるか、ないか?」と問い、次に「心はまともか、狂っているか?」と問い、さらに「心は共有されるか、否か?」と問う。すると「今でも心は共有されている」と答える輩がいるだろう。確かに(状況に応じ)一時的に共有可能であると答えることはできる。しかし、継続して共有可能かと問われたらどうか?たとえば「金の切れ目は縁の切れ目」であるとよく言われる。つまり、それらが切れていない間、共有可能である。しかし、金がなければ、容易に共有は消え失せる。これに対して、人工精神(AM)では、はじめから「金の切れ目は縁の切れ目」を前提としない。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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