「コロナによる人為淘汰」に関する考察(1)

 最近、中国の様々な人権問題に関するニュースが、ここ日本にも毎日のように飛び込んでくる。現在、香港やウィグルに関する問題が世界的に報道されているが、それ以上に、中国の武漢から発した新型コロナウィルスのパンデミックは世界中の死活問題に発展している。すでに、世界中に、そのワクチンが配布され始めているが、はたして、この悲惨な社会現象を、誰が、どのような理由で発生させたのか? なかなか進みそうもない原因究明への苛立ちが、世界中に蔓延しつつあるという印象を抱く。

 中国の武漢研究所では、世界から様々なウィルスが持ち込まれ、研究されていると言う。はたして、その研究にどういう意味があるのか? 素人が考えても、難し過ぎる点が多い。すでにアメリカでは、パンデミックをきたす恐れのあるようなウィルスの研究は禁じられているらしいが、そうなると、いよいよ、その分野に関心のある研究者らは、世界のどこかで、そうした危険なウィルスの研究場所を探さなければならない。中国の武漢にはそうした人達からの資金や技術がたくさん寄せられているようである。

 今回、中国の武漢が新型コロナウィルスを単独で開発し、意図的に拡散したとは考え難い。その理由は二つある。ひとつは、すでに紹介したように、世界中から多くの富豪や研究者が関与してきていただろうという点、もうひとつは、もし中国が自国からウィルスを意図的に拡散すれば、最初に犠牲になるのは自国民であるから、自国民に悪意ある行動を取ることも考え難い。もし新型コロナウィルスを拡散したければ、それを、どこかよそへ持って行って、こっそりと拡散しなければならない。

 ただし、この二点目に関しては、かなり込み入った事情を理解する必要がある。新型コロナウィルスを生物兵器として使用する場合、国際関係のない国はないので、どこかの国をターゲットにして拡散させようとしても、そこを始点として世界中に拡散してしまうという現実的な事情がある。そうすると、たとえ場所を選んでも、あまり大きな意味はない。ただし、早めに情報が届き、どういう対策を講ずるか、この点に関しては、早ければ早いほど犠牲者は少なくなるという利点はあるだろう。

 ここで、改めて注目したいのは、たとえどこであっても、しかも意図的であろうとなかろうと、一旦、新型コロナウィルスを拡散してしまえば、それは世界中を汚染し尽くしてしまうという点である。おそらく、この予測は妥当であろうから、新型コロナウィルスを生物兵器として使用するための方法論は、ほとんど必要ないと考えられる。問題は対策である。できるだけ早く情報が得られ、その情報に基づいて的確な言動を取ることができれば、他から比べると、比較的その惨劇を緩めることはできるだろう。

 すでに、多くの報道機関が、新型コロナウィルスは中国の武漢から流出したと報じているので、それが事実であろうと思われるが、たとえ中国から発したとしても、中国はさほど困らないかも知れない。なぜならば、中国の場合、中国共産党を中心とした全体主義体制が堅固であり、比較的容易に文民統制を行なうことができるからである。もしこれが、たとえばアメリカ合衆国であれば、アメリカ人の生活スタイルは全く自由だから、中国のように文民統制が効かず、その惨劇を緩めるための方法を見つけるまで、相当な時間を必要とするだろう。

 以上のように、中国の武漢から新型コロナウィルスが流出したとしても、それが意図的であっても、単に過失であっても、結果は同じである。また、もし中国の武漢ではなく、別の所から発生したとしても、やはり世界中に拡散しただろうから、この場合においても、結果は同じになってしまう。そこで、改めて問いを発し直さなければならない。最も肝心な問いは、新型コロナウィルスの製造とその拡散という行動に、どういう意味があるのかという点である。

 新型コロナウィルスを生物兵器として使用する場合、その動機が重要である。すでに見てきたように、新型コロナウィルスを憎しみのために、どこかある国にばら撒こうとしても、すでにいかなる国もグローバル化しているので、ウィルスは巡り巡って自分の所に戻ってきてしまう。すると、自分も犠牲者になる危険性がある。その危険性を恐れるならば、そのような生物兵器を用いることはできない。つまり、たとえ自分が感染しても、自分だけは生き残れるという確かな保証が必要である。

 むろん、そうする時には、自分は人里離れた所で、ひっそりとパンデミックが収まるのを待つかも知れない。あるいは、すでに自分だけ有効なワクチンや治療薬を持つ必要があるだろう。そして、そうした準備ができれば、上記の危険性は薄れるだろう。さらには、自分と関係し、自分に必要な人達の場合についても考えなければならない。そうすると、事前にそういう人達に話して理解と協力を得なければならない。つまり、説得しなければならない。しかし、自分の望む人達がすべて自分の説得に応ずるかどうか、極めて疑わしい。

 常識的に考えれば、自分が説得する多くの、否、すべての人が反対するだろう。そして、自分は狂った人間、つまり悪魔であると罵られるかも知れない。多くの人を殺し、自分だけ生き残るという考えは、いついかなる時であっても、通用するはずがない。しかし、それにしても、本当に説得することはできないだろうか? はたして、そのように考える自分は本当に狂っているのだろうか? このように、たとえ自問自答して、ためらったとしても、おそらくその人は説得を止めないだろう。そして、「それでは、すべての機会をすべての人に与えよう」と考え始めるに違いない。

 その理由はこうである。人類は今や増えに増えて、その人口は数え切れなくなっている。すでに、アジアの人口だけでも、気が遠くなるぐらいの数なのに、これからさらにアフリカなども同じような人口増加になれば、はたしてこの地球はどうなるか? 資源や食料は不足し、まして環境問題はますますひどくなる。このような状態を見過ごしておけば、必ず人類の滅亡につながるだろう。今のうちに何らかの手を打たなければ、間に合わなくなってしまう。だから、そのための人為淘汰は必須である。

 これは「人間の、人間による、人間のための」人為淘汰である。あえて、その淘汰すべき人を選ばないということであれば、それでもよい。そうであれば、誰もが淘汰される危機を体験しなければならない。未だ若くて身体的に健康な人は淘汰されないだろうが、病弱で免疫能力の低下している人達や、多くの高齢者はその対象になるだろう。せめて、このようにして、人為淘汰を実現させなければならない。それは人間への憎しみではない。人類が滅亡せずに生き残るための最低の条件である。

 はたして、この主張は正しいか、それとも間違っているか? はっきりと間違っていると断言し、その根拠について納得してもらえるような考えを展開することができるだろうか? それとも、そうした視点も理解できなくはないが、それは人道的にやってはならないことであると言う人もいるだろう。あるいは、そこからさらに突き抜けて、人為淘汰に賛同する人達は、それをやらなければ、人類は滅亡すると確信するだろう。しかし、そうなっても、自分だけは助かりたいので、自分の財産を投げ打ってでも、人為淘汰の方法を考えたいと主張するかも知れない。

 さて、いずれの考えが善であり、悪であるか? おそらく、すべての国々と地域は、このような人為淘汰に反対するだろう。人の命は何ものにも替え難い。「自分の愛する人を、どうして殺せようか! 」という叫び声が聞こえてきそうである。しかし、そうは言っても、人口増加によって逼迫する様々な状況に対しては、ほとんど無策のままであろう。すると、そうした無策の状況に耐え難さを感ずる人達は、人それぞれの個別性を否定し、「人類は一つであり、人間みな平等」をスローガンとした無差別の人為淘汰を進めようとするだろう。

 人命、人権は替え難いという価値観に対して、人間社会は様々な個別性を超えた一つの統一体であるという価値観も存在する。後者は一種の選民思想である。彼らは主張するだろう。どこか局所的な国々や地域を人為淘汰するのではなく、全人類の中から脆弱な生命力しか持てない人達を、生物兵器を用いて淘汰することにより、人類全体を救うことができる。それをしないと、人類全体が危機に陥る可能性がある。だから、これは何としてでも、やり遂げなければならないと。

 こうした選民思想に、病弱な人達や高齢な人達もまた賛同するかも知れない。生きていくだけでもつらいと思っている人は多く、しかも他人への迷惑に心を痛めている人も多い。だから、もし自分が死ぬことで人類が救えるならば、喜んで死ぬと言い切る人達も出てくるだろう。すると、人類は一つであるという選民思想を抱いている人達にとっては好都合である。「人は平等に、かつ自由に生きる」に対峙し、「人は平等に、かつ自由に死ぬ」という主張を堂々と掲げるだろう。そして、その結果、人為淘汰はやりやすくなる。

 いま話している内容を言い換える。人類がグローバル化を成し遂げた結果、発生した全体主義、あるいは選民思想には、個別性を削いでしまうという特徴がある。つまり、全体主義のいう平等は、正確には均一性であり、個別性に価値を認めない。確かに「さとりの境地」においても、個性は迷いの一要素に過ぎないと理解するので、この点は同じである。だとすると、生の持つ平等と死の持つ平等は等価になり、それらを区別することができなくなってしまう。 しかし、それでは、生物兵器による人為淘汰を排除することができなくなる恐れがある。ここは、振り出しに戻って再吟味しなければならない。

 民主主義の中の平等と自由は、全体主義の中の平等と自由と、本当に同じであるかどうかという点について吟味する。民主主義の平等は「弱い自己が共感され、弱い対象に共感する」ことによって得られる。これに対して、全体主義の平等は「弱い自己や弱い対象は否認される」ことによって得られる。また、民主主義の自由は「批判に自信を与える不快の快変換」によって得られる。これに対して、全体主義の自由は「攻撃者との同一化に基づき、破壊的攻撃性を表出する」ことによって得られる。

 このように、人間の心の健康を基準として比較すると、いとも簡単に真逆の結論を導き出すことができる。つまり、全体主義と選民思想に基づく人為淘汰は、人間の病的な心に基づいて発生するということが明らかになる。しかし、たとえ病的な心に端を発していても、人為淘汰を成し遂げなければ、人類が終わると言われると、これに端的に応ずる表現が難しい。そこで、ここはとりあえず、私の切り札を用いて、難を逃れることにする。つまり、それは人間の心を健康にする人工精神の創発である。人工精神によって、我々は破壊なくして人口をコントロールすることができるようになる。

 成人する時に、すべての人が健康な心を持ち、極めて冷静な思考と判断の能力を身に着けていれば、様々な現実検討能力や状況判断能力に優れているので、これからの自分や自分を取り囲む社会のあり方について、すべての人が柔和に感じ、鋭く考え、賢明に行なうことができるようになる。それが、まさに私の言う精神文明である。人工精神によって精神文明を持つことができるようになれば、今まで描き続けてきた病的な思考は自然に消えていく。つまり、人は人を殺さず、人によって殺されない社会が到来する。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅹ)

          *参照: 「係争と狂奏」を超越する人工精神

               「コロナによる人為淘汰」に関する考察(2)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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