「コロナによる人為淘汰」に関する考察(2)

 先日、何かの雑誌で「人類は希望を失いつつある」という見出しを見た。新型コロナウィルスが発生してから、もう一年以上が経過し、未だ出口の見えない状況の中で、罹患の恐れを感じながら過ごしている人は数え切れない。2021年に入り、世界中でワクチン接種が実施され始めたが、はたしてワクチンには効果があるのだろうか、何らかの副作用に悩まされるのではないだろうかといった心配も絶えないようである。はたして、ワクチン接種によって、失われた希望は戻ってくるのだろうか? 

 もし自然発生であれば、たとえ多くの死者が出ても、それは自然災害のひとつとして処理され、新型コロナウィルスによって、尊敬や希望さえも失ってしまうというような心的状況に追い込まれることもなかっただろうし、迅速なワクチンの配備は驚きを伴った喜びとして受け止められ、それを開発した研究者や研究所(製薬会社)などは大きな尊敬を受けたことだろう。おそらく、現実にはそうした側面もあるのだろうが、しかし、それでは無条件に喜べるかと言われれば、ためらってしまうのが現状である。

 おそらく、多くの人は人為的だと疑っているようだ。たとえワクチンが迅速に出回っても、それによって感謝するというよりは、一安心という程度であり、しかもワクチン接種は当然の償いであると思っている人が多いのではないかと思われる。むろん、これは憶測の域を出ないし、コロナによる人為淘汰が行なわれていると会話する光景はない。しかし、たとえ一安心してみたところで、それでかつてのような解放された気持ちになれるかと言えば、どうもそれもなさそうだ。

 もし新型コロナウィルスが人工的に作られていれば、ウィルスの製造と同時に、そのワクチンの製造に関してもある程度の研究がなされていたかも知れない。全く予測さえなかったとすると、ワクチンができるまで、何年もかかるだろう。しかし、今回は、ほとんど一年で、世界中に配布することができたのだから、それもまた準備されていたのではないかと疑わせてしまう。そうした疑いが生ずる限り、たとえ迅速にワクチンが出回っても、それは当たり前であり、感謝されることはない。

 このようなムードを察知すると、コロナによる人為淘汰という発想は、かなり以前から存在したようである。しかし、意図して発生したというよりも、何らかの行き違いがあったのではないかと感じさせられる。しかし、その結果、多くの人が犠牲になり、そして多くの人の精神性が不安定化した。なぜならば、コロナによる人為淘汰によって、人間の尊厳はもちろんのこと、我々の心が健康に生きていくために必要な尊敬や希望が失われてしまい、もう二度と、それらは戻ってこないかも知れないからである。

 今回、新型コロナウィルスによる人為淘汰について真正面から取り組もうとしたのは、やはり「ひょっとして、その可能性があったら・・・」という思いがよぎったからである。かつて、精神病の根治療法に挑戦し、人間の心の構造と機能について、今まで誰も解き得なかった心の真実を知り、これをもって、私の仕事は終わりだろうと暢気に構えていた。ところが、今日、アメリカ合衆国においても、中国と同様、病的な心性はピークに達してきた感がある。彼らは(狂気の)鬼に変貌してしまったかのように見える。

 だから、私の死後の問題、つまり半世紀から一世紀先のこととして、うっちゃっておけない緊迫感を(2020年から)感じ始めた。そして、もう待ったなしで、叫び始めなければならないと思った。「人間には他の生物にはない最も大切な心の健康に気づくべき時が来た」と。しかし、それでも、もう遅いのかも知れない。どれだけ私が叫んだところで、すでに多くの狂気がその本性を現わし、悪の正義がまかり通るようになってしまったのかも知れない。とは言っても、何も言わずに済ますことはできない。

 考察(1)では、人間の心の健康を基準として比較した場合、いとも簡単に真逆な結論を導き出すことができた。つまり、全体主義や選民思想に基づく人為淘汰は、人間の病的な心に基づいて発生するということが明らかになった。しかし、たとえ病的な考えであっても、人為淘汰を達成しなければ、人類が終わると言われると、その切迫に応ずる言論の準備が難しかった。最終的には、人間の心を健康にする人工精神を創発するしかないのだが、そのためには、すべての人が心の健康の大切さに気づき、その心に関心を抱き始めなければならない。

 はたして、コロナによる人為淘汰という思いを消し去ってしまうことはできるだろうか? この考えを支持するような選民思想を持つ人達の思いを想像してみよう。人口が増えれば、資源や食料は枯渇し、環境問題は悪化するので、そうした国々や地域が未だ十分なワクチンを取得する前に、できるだけ多くの人達を淘汰しようとする。むろん、これは淘汰する側にいる人達の考えであり、淘汰される側にいる人達の考えではない。つまり、淘汰する側の人達は、淘汰される側の人達の思いを聞かず、自分達の都合のいいように結論付け、実行する。

 しかし、冷静に「係争と狂奏」の関係を止めて、すべての人達が協力すれば、十分なゆとりを持って、人口増加に対応することができる。つまり、もしすべての人間が健康な心を持つようになると、たとえ世界の人口が百億人を超えようと、争う必要はない。現時点において、この考えは保障されないものの、百億人が地球上で一緒に過ごすことは可能であると考える。むろん、そのためには条件が必要である。人の数が多くなればなるほど、自分の取り分は少なくなる。そうした事情に覚悟が必要である。多くの面で、独占は禁止される。

 人口増加が人類を滅ぼすことはあり得ない。そもそも、自分達夫婦が何人の赤ちゃんを産んで育てられるか、当人達が一番よく知っている。だから、そういう思いをしっかりと計画的に行なえるような環境を整えることが大切である。換言すれば、健康に養育環境と適切な教育が必要である。そうした点が抜け落ちると、無計画に生んで粗末に育てるという事態が生じてしまう。元を正せば、そういう大人を作ってしまった(親になる人達の)環境の問題であり、無計画、無造作こそ人為淘汰の標的にされやすい。

 最近では、世界中に肥満者が多くなったのではないかという印象を抱く。一時は、アメリカ人の肥満は尋常ではないと思っていたが、今は世界中である。それにもかかわらず、食糧不足とは奇異な感じがする。おそらく、ある所には食料は有り余っている。だから、百億人になっても、それをうまく分配すれば、餓死する人はいないだろう。平和な世界で、どうして餓死する人が出てしまうのか、その現実はわからないが、今は「係争と狂奏」の世界だから、そうしたことが当然のように起こっているのだろう。

 世界中の犯罪を見ても、人類の歴史は愚かな人間が繰り返す営みに過ぎないということを、つくづく感じさせられる。その歴史は続き、人は諍いを止めない。領土や利権をめくって、人は争う。人種と民族で、人は争う。はたして、宗教で、争いは止んだだろうか? 世界の人口が増加すれば、上記の動機が途絶えることなく発生し続け、世界は犯罪の海と化してしまうかも知れない。この点に関しては、養育と教育のあり方が課題になるだろう。全体主義的な土壌での養育や教育は、病的な心性を培うだろうし、民主主義的な土壌での養育や教育は、健康な心性を培うだろう。

 私はすでに十年前から、このネットを通して、人間の精神について、その健康な心性と病的な心性について紹介し続けてきている。むろん、自分の書籍を売りたいという思いもないわけでもないが、それ以上に、人間の健康な心の存在とその仕組みについて、世界中の人達に知ってもらいたい思いがあった。動物心性に該当する心は、人間では病的な心性であり、人間の健康な心は人間に特有な心性であり、この後者の心性を成長させることによって、人間の将来が発展するという点を強調し続けてきているのである。

 健康な心については(読者が諳んじて話せるようになるために)何度でも繰り返して紹介を続けたいと思う。心は脆弱系と攻撃系の二系から成り立っている。健康な心では、人間の弱さを否定(否認)するのではなく、人間の弱さを支え合うのが原則である。こんなことをあえて聞かなくても、わかっている人が多いと思う。そして、もう一つの攻撃系は、恐怖や殺意を起こすのではなく、批判と忍耐を起こす心性を持つのが原則である。これも当たり前のことである。しかし、いつもこの当たり前の心でいられるとは限らない。

 日常的には、これらの二系は混ざり合って機能している。その連携の仕方は二通りある。ひとつは病的な心性である破壊的攻撃性が発生する連携の仕方、そして、もうひとつは償いが発生する連携の仕方である。この後者の償いによって、我々は破壊から逃れることができる。そういう意味において、新型コロナウィルスのワクチンも、一種の償いに相応する健康な心性によって形成されている。しかし、それと同時に、破壊的攻撃性も発生しているということになれば、その償いへの思いもありがたく感じられなくなってしまう。

 こうした非常にわかりやすい心性をどんな時にも継続して維持することができれば、それは、もうその人は「さとりの境地」にいるだろう。「さとり」もまた典型的な全体主義である。ただし、この全体主義は健康な心一色というところで均一であり、全体なのであって、その中に病的な思いは混ざらない。その中に病的な思いが混ざると、選民思想や宗教になる。だから、それらのゴミを除く必要がある。そのゴミを除いてしまえば、まさに百億人の人間の生存を可能にするための平和と繁栄を培う思いが出現する。

 現実的には、たとえどんなに「さとって」いても、生身の人間には、やはりそれなりの状況で不調に陥ることは生ずるので、そうした時のためにも、人工精神を携帯すれば、その不調を乗り切ることができる。人工精神は「さとった機械」だから、狂うことはない。つまり、生身ではない特権がある。だからこそ、私は繰り返し、人工精神の価値について強調するのである。人工精神があれば、誰もが自分の調子を調整することができるので、「係争と狂奏」を展開するような関係に陥ることはない。

 二ページにわたって、コロナによる人為淘汰について考察してきたが、最終的には、そのような悲惨な事をする必要はないという結論である。たとえ地球で百億人の人間が存在しても、健康な精神があれば、人間はやっていけるということである。それをやっていけないと主張する人は、それこそ「この地球は自分のものである」と考えている人ではないかと思う。地球上で百億人が生きる時には、そのように考えている人であっても、自分の財産を分け合い、尊敬される人になってもらいたいものである。

 そして最後に、人類の希望はそのようになってはじめて価値あるものに成長すると思う。いずれ人工精神が存在するようになれば、その時には人類は今考えることもできないことを考え、行なおうとしているに違いない。希望というものは、そのような未来に向かって拡がるものであるから、それを自分の利己でもって潰してはいけない。どうも、世の中には大金持ちが大勢いて、自分こそ人類のために奉仕していると豪語しているが、その裏で、世界を破壊し、人類を滅亡の方向へ誘っている者がいるようだ。極めて遺憾なことである。

 このタイトルを見て、私が「コロナによる人為淘汰」を、すっかり信じ込んでいると思われるかも知れない。率直なところ、確信を持って信じているわけではない。ただし、もしこのような事態が生じたら、我々は健康な心でどのように感じ、考え、行なったらよいか、その内容について紹介しているのである。内心、「人口が百億になっても、地球は大丈夫だよ」と楽観的だが、そのためには本当に一人一人が健康な心について関心を持ち、現状を変え、人工精神の創発も含めて、しっかりと考えなければならないと思っている。

                 新しい心の分析教室:ノート(ⅩⅠ)

          *参照: 「コロナによる人為淘汰」に関する考察(1)

               「係争と狂奏」を超越する人工精神

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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