「快・不快」に関する七つ(7段階)の質問

 1、情動とは何か?

   情動とは、快・不快である。

 

 2、意識とは何か?

   意識とは、快・不快を選ぶことである。

 

 3、情動認知とは何か?

   情動認知とは、快・不快の理解である。

 

 4、言語とは何か?

   言語とは、快・不快の表現である。

 

 5、言語的意識とは何か?

   言語的意識とは、(快・不快の)言語による理解と表現の区別である。

 

 6、人工精神(AM)とは何か?

   人工精神(AM)とは、言語的意識を持つ人工知能(AI)である。

 

 7、精神文明とは何か?

   精神文明とは、人工精神(AM)を創発した時の近未来の文明である。

 

                 様々な情動論

様々な情動論一口メモ

 『次世代の精神分析統合理論』では、従来の様々な情動論について系統別に著述したが、当サイトにおいては、未だ取り上げていない情動論もあるので、それらについて簡単に紹介し、精神分析統合理論から見た見解を付け加えておく。

 

1、闘争・逃走反応

 キャノンの「闘争・逃走反応」である。どういう時に闘争し、どういう時に逃走するか?様々な解釈がある中で、私はこれを不快ー防衛系として理解している。

 

2、基本情動

 エクマンの基本情動である。それらは、怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚きの6個である。この中の驚きは情動(感情)ではない。驚きは意識体験である。

 

3、感情円環モデル

 ラッセルの感情円環モデルである。この方法では、「快ー不快」軸と「覚醒ー眠気」軸を使用して、様々な感情の配置が決められる。感情の分類なので、「快ー不快」軸は当然であるが、もう一軸を「覚醒ー眠気」軸にするのは、いかがなものか?ちなみに、人工精神はこれとは異なる2軸によって構成される。

 

4、ストレス情動論

 ラザルスのストレス情動論である。この情動論に対する私の見解として、ストレスがなくても、情動はいつも生起している。また、状況に基づく認知的評価がなくても、情動制御はいつも機能している。

 

5、メンタライジング

 共感を含むメンタライジングと、情動に関するシステム化とは、相容れない部分があるという。しかし、私の情動制御システムは共感を含むメンタライジングと、何ら対立しない。もし対立するとすれば、情動に関するシステム化が不十分であるために、共感を含むメンタライジングとの間に乖離が生ずるからであろう。

 

6、ロボット工学

 浅田氏によると、「調律・抑制・能動制御」が期待されれば、同情や哀れみを介して、妬みや他人の不幸を喜ぶシャーデンフロイデが発生するという。しかし、この文脈だけでは、人間の正常な(健康な)心を形成するという能動制御の文脈は出てこない。しかも、たとえ(文献として)世界的に実証されている内容であっても、ほんの一部の、しかも決して正常(健康)であるとは思えないような心性を取り上げることによって、情動(感情)のすべてを語っているかのような印象を与えるのは、いかがなものか?

 

7、脳内自己刺激行動

 『脳と情動』(堀哲郎著 1995)は『精神分析統合理論』を書く上で、極めて重要な役割を果たしている。その中の最も重要な部分が、オルズとミルナーの実験(1954年)である。なぜ、それほどまでに重要だったか?ひとつは、報酬系や嫌悪系に関する論述である。そして、もうひとつは、オルズやロールスが描いた神経伝達のモデルである。これらを基礎として、私の「情動系神経回路機能網」つまり情動制御システムが作り出されている。

 

                         様々な情動論

 

脳と情動と精神分析

 上記の「様々な情動論一口メモ」の最後に『脳と情動』について触れ、その中で展開されている情動脳に関する研究が、一連の精神分析統合理論の基礎になったという話をしたが、ここでは、さらにもう一歩踏み込んで、いかにして情動が脳と精神分析の橋渡しをするかという点について言及しておきたい。

 お気づきの通り、『脳と情動』があり、そして今度、私が(当サイトにおいて)「情動と精神分析」というタイトルをつけて、それらの間に存在する密接な関係の一部を紹介してきている。そうした内容についてまとめ直すと、そこには「脳→情動→精神分析」という、ひとつの流れがある。しかも、この流れは一方的ではなく、その逆である「脳←情動←精神分析」も可能であり、両方向性も成立する。

 それでは、この両方向性の流れを作り出す情動とは、一体どのような性質のものであろうか?この議論のタイトルが脳であり、私が理解している『脳と情動』は、(どちらかと言うと、)情動脳を前提とする議論のように思うので、その情動が「生理的興奮+認知的解釈」であるという主張を(とりあえず)除外しなければならない。そして、その上で、向精神薬の機能について吟味しなければならない。たとえば、夜間、悪夢にうなされる人や、朝、とても起き辛い人に、ほんの少量、抗精神病薬や抗うつ薬を投与するだけで、症状は改善する。したがって、この事実だけで、情動を「生理的興奮+認知的解釈」とは言えなくなってしまう。

 それでは、改めて、この情動に関する課題は、脳内神経伝達物質によって解決されるのだろうかという疑問に遭遇する。ところが、そうでもない。確かに、向精神薬の投与によって、症状は改善し、患者は楽になる。しかし、なぜ悪夢にうなされるのか、そして、なぜ朝の目覚めが辛いのか、これらの根本的な解決には到らない。つまり、向精神薬は、そうした症状を抑制することはできても、それが発生する原因を解消してしまうまでには到らない。(しかし、ほとんどの患者はその原因を詮索しない。楽になれば、それで良しとして、その向精神薬を飲み続ける。これは余談であるが、もし私が同じような症状に悩んだ時には、必ず詮索する。そして、今の自分であれば、誰の助けも借りずに「自分分析」することが可能である。)

 ところで、その根本的な原因は何だろうか?今、脳内神経伝達物質のせいではないことが判明したので、原因は別にある。私は、その原因が不快ー防衛系の活性化にあり、そのために、病的な情動認知が発生していると考える。それゆえ、その原因を解消するためには、不快ー制御系を活性化するための脳内神経回路の機能を回復させたり、あるいはそれを新たに作ったりしなければならない。つまり、健康な情動認識を得るための操作が必要である。このように、情動認知や情動認識は、脳内神経伝達経路のあり方を示す指標となる。むろん、そのような操作を行なう場合においても、脳内神経伝達物質の機能がなくなったわけではないし、向精神薬が必要ではないというわけでもない。それらも必要なのだが、それだけではなく、脳内神経回路の視点から、根本的な解決を行なう方法もあるということである。つまり、正常な心性と異常な心性とは、どこが違うのかという質問に対して、たとえ同じ脳内神経伝達経路であっても、神経伝達物質が異なるという場合もあるだろうが、(それとは逆に、)同じ神経伝達物質を用いていて、心的現象に差が生じない場合でも、脳内神経伝達経路が違えば、心的現象も大きく変わってくるという事実は無数に存在する。この後者の場合の原因として、不快ー防衛系のもたらす情動認知と、不快ー制御系のもたらす情動認識の存在が考えられる。

 これは余談であるが、かつて私が治療を担当した、ある患者は(心の異常と正常が生ずる自己感覚として、)「頭の後ろの方から曇ってきて、頭の前の方から晴れていく感じがする」と、話してくれたことがあった。また、別の患者は、正気と狂気を「逆さメガネ」だと表現してくれた。これらの例が示す内容は、脳内神経伝達物質が変わったために生じてきたというよりも、むしろ脳内神経伝達経路が変わったために生じてきたと理解する方が自然である。

 以上のように、「脳⇔情動⇔精神分析」という連続性を考える時、情動認知や情動認識は脳内神経伝達経路と密接な関係にあることを強く示唆している。まさに、これが未来の精神現象を描くための、ひとつの構図であり、「次世代の精神分析」を生み出すための極めて大きな原動力である。

 

                    様々な情動論

お申し込みはこちら

精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

お気軽にお問合せください

img33739.gif
linkbanner web search japan.gif