心身の両立と矛盾

 体と心とは、切っても切り離せない関係にある。体調が良ければ気分もよく、体調を崩すと気分は落ち込む。また、何か嬉しいことがあれば、体調もよくなるし、何かつらいことがあれば、体調も崩しやすい。つまり、体と心とは一心同体である。ところが、悩ましい時に、これらの関係をよく観察すると、お互いが呼応せず、時にはひどく反発し合っていることがわかってくる。それゆえ、人間の苦悩は、心身の矛盾から生ずると言っても過言ではない。

 1. 身体的欲求と快不快

 身体が求める欲求は、いろいろある。たとえば、おなかが空いた、トイレに行きたい、眠くてたまらないなど。むろん、痛みやかゆみなども身体から生ずる欲求である。これらの欲求は、時々、否、ほとんどいつも、心を巻き込む。欲求が募るということはつらいことなので、心は不快に満たされる。しかし、その欲求が解消すると、心は快適な状態になる。つまり、身体的欲求は、絶えず心の快不快を賦活する。

 生命活動の原点は、身体的欲求にある。他方、心には情動制御システムが存在する。身体的欲求と情動制御システムの関係を調べると、身体的欲求は不快―防衛系によって支持されるが、不快―制御系によって支持されない。つまり、不快―制御系は身体的欲求から解放されている。この特徴は、我々の精神現象に大きな影響を与える。人間は、不快―防衛系を持つ動物脳と、不快―制御系を持つ人間脳の両方を持ち合わせている。不快―防衛系である動物脳が身体的欲求を満たそうとすると、不快―防衛系を抑制するために不快―制御系が機能し、その結果、身体的欲求を減少させようとする。このように、情動制御システムは身体的欲求に影響する。つまり、身体的欲求を満たすために、一方では(殺戮を中心とした)病的な心性と、他方では(救いや許しの方向への)健全な心性の、両立し難い(矛盾に満ちた)二つの方向性を示す場合がある。そういう意味において、人間は時々「引き裂かれた」精神状態を示す。

 2. 言語的欲求と快不快

 言語的欲求には、空腹や眠気などの身体的欲求を言葉で表現する他に、寂しさや怒りなどの精神的欲求を言葉で表現する場合がある。そもそも、言語は不快―制御系の発達と共に備わってきたと考えられる。もし身体的欲求と不快―防衛系だけであれば、動物脳が操作する自己および対象表象は少なくて済むのだが、そこへ不快―制御系が加わると、人間脳が操作する自己および対象表象は一挙に多くなるので、様々な欲求を言語を用いて区別しなければならなくなったと考えられる。その不快―制御系は人間の健全な心を形成するので、言語もまたそれを素地として発生した。

 ところが、たとえそのような発生起源を持っていても、動物脳である不快ー防衛系もまた言語を利用するようになった。つまり、助け合ったり、許し合ったりする関係の表現を目的として発生した言語は、罵り合ったり、憎み合ったりする関係の表現にも利用されるようになった。つまり、言語は汚染されてしまった。現在、我々が聞いて話す言語は、不快―制御系と不快―防衛系の混ざり合った性質や内容を持っているので、絶えずそうしたものを区別しながら使い分けなければならなくなっている。ちなみに、このような言語の情動発生論を唱えると、それに反対して、言語の認知記号論を唱える輩も出てくるが、いずれか一方だけを正しいとするのではなく、どちらも両立させようとする試みが、私の言う情動認知言語である。ただし、認知記号論であっても、その言語は「快追求」という範疇に入るので、結局、認知記号論の背後に情動発生論が存在するという真実を否定することは困難である。

 3. 欲求から解放された精神

 このようなサブタイトルをつけると、一連の精神分析統合理論の中で紹介している情動排除型自我意識が用いる言語、つまり、ビジネス言語は情動認知言語ではなく、認知言語であるという誤解を招き兼ねない。しかし、ビジネス言語もまた情動制御によって生ずる余剰の「快」がもたらす情動認知言語である。あくまでも、情動を基盤とせずに発生する言語は存在しない。ただし、この場合、たとえ欲求から解放されていても、情動から解放されていないという一種の乖離が発生しているということを認識していなければならない。

 精神的欲求はもちろんのこと、身体的欲求の場合においても、多くの場合、欲求というからには情動系に属する不快因子が活性化することを意味する。つまり、脆弱系不快因子である弱い自己および弱い対象、攻撃系不快因子である悪い自己および悪い対象である。これらが活性化すると、様々な防衛因子、つまり、脆弱系防衛因子である理想的自己および誇大的対象、攻撃系防衛因子である処罰的自己および処罰的対象が活性化して、不快―防衛系が機能する。これに対して、不快因子の活性化に反応して、様々な制御因子、つまり、脆弱系制御因子である理想的対象および誇大的自己、攻撃系制御因子(制御補助因子)である反撃的対象および反撃的自己、謝罪的対象および謝罪的自己が活性化すると、不快―制御系が機能する。そして、これからが肝心である。不快―制御系が機能した結果、脆弱系では誇大的自己が、攻撃系では謝罪的自己が活性化すると、精神的欲求は一時的に停止する。この精神力動が欲求から解放された精神状態である。言うまでもなく、誇大的自己は自信を、謝罪的自己は忍耐を示す。この両者がどれぐらい長く継続して活性化されるか、この点が我々の精神状態において最も重要な点である。三つの(人格構造の中の上位三段階の)精神状態、つまり準制御状態、制御状態、超制御状態では、この両者が活性化する時がある。むろん、超制御状態(さとり)の場合において、最も長く持続するということは言うまでもない。

                 さとりの精神分析学

さとりと生死

 さとりについて言及する時には、さとりと密接な関係にある死について、ある程度の見解に達している必要がある。しかし、さとりと死についてだけ取り扱うと、それは大きな手落ちになってしまうので、さとりと生についても言及しなければならない。おそらく、今まで、さとりと生死の関係について、正確な論説を読んだことはないので、これを機会に、わかりやすく紹介する。

 1. さとったら死ぬ

 かつて、私は「さとったら死ぬ」と教わったことがあるように記憶している。はたして、これはどういう意味か? さとるということは、一切の執着を断つということだから、それを成し遂げて、さとりに到る。すると、そこが人生の終着駅、つまり死であると思った時期があった。それでは、その死に方をどう命名する? さとりのための修業と言えば、人里離れた山奥にひきこもり、ひたすら座禅(瞑想)するというイメージがある。むろん、獣に襲われる心配もあっただろうから、それを防げるような場所を選んだに違いないが、食べるものはなく、水だけの過酷な修行であっただろう。そういう所でさとって死ぬとすれば、死に方としては、餓死、自殺、あるいは涅槃か? いずれにしても、飲食の欲求が減退すると、痩せてきて飢餓状態に陥り、やがて餓死する。それが涅槃と呼ばれ、ひとつの死に方になり、それがベースになって、生き方さえも規定するようなことが生じていたのかも知れない。

 昔は、どこの地域も貧しかったと聞く。飢饉や病気などで死ぬ人は大勢いた。だから、人里離れた山奥で、断食の結果、(涅槃、つまり、ニルバーナを得て)餓死しても、それが人の噂になることはなかっただろう。あるいは、また、山奥へ薪(まき)や山菜を求めて行く村人もいて、たまたま、座禅(瞑想)している修行者の姿が目に止まることもあっただろう。しかし、声を掛けて、話をするようなことはなかったに違いない。修行者の中には、まだ若く、そんなに急いで命を捨てなくてもよいのではないかと思われるような者もいたであろう。村の中では、そうした若い修行者のことが話題になることがあったかも知れない。時には、豊作の時期もあっただろうから、せっかく収穫したものを腐らしてしまうのも、もったいないから、その若い修行者に飲食を与えてみてはどうかという話も出た可能性がある。しかし、たとえそのようなことが行なわれたとしても、多くの修行者は村人の好意を受け入れず、死んでしまったに違いない。

 2. さとっても死なない

 そうした光景が繰り返されると、中には村人の好意を受けた修行者もいたようである。しかし、それは修行を諦めたからか? おそらく、そのまま餓死してしまったのでは、はたして、それがさとりを得たと言えるのだろうかという疑問が、修行者の心に残っていた可能性はある。そこへ、たまたま飲食を与えてくれた。今一度、村人の好意を受けて思案し直してみようと思った修行者がいても不思議ではない。そして、ついに修行者は村人が運んでくれる飲食を摂取して、次第に体力をつけ、集中力もつけていった。すると、大変なことに気づくようになった。それは、身体的欲求は苦悩を発生させない、つまり、身体的欲求はさとりの邪魔をしないという真実であった。このようなことに気づき始めると、今までやってきた修行は無駄ではなかったかと問い始め、生きてさとらなければならないのに、身体的欲求を消滅させて死んでしまったのでは真実は得られないという結論を得るに到った。

 ところで、次第に元気になっていくプロセスの中で、さとりを得た修行者は、いつまでもそのまま村人の世話になることはできなかった。しかし、すでに修行者(今や、さとり人)は世捨人であり、農民でも職人でも商人でもなかった。つまり、自活する方法を失っていたので、今後どのように生きていくか、この点についての具体的な対応が必要であった。しかも、この課題は自分だけのことではなかった。今も自分と同じように修行を続けている者や、これから修業を始めようとしている者にとっても、一大テーマであった。そこで、さとっても死ななかった修行者は、その真実を広く知らしめて、過酷な修行はかえって、さとりの妨げになるという事情を教えようと思った。修行者(今や、さとり人)は村人に事情を説明し、その村から去ることにした。村人らも修行者の意向を理解し、その村の近隣の村などに、他の修行者がいるかどうか尋ねたり、この修行者を助けてやってくれないかなど照会してくれたと考えられる。かくして、死なずにさとれる方法が見つかった。

 3. さとって、生きるべき姿を説く

 どのように想像しても、飢餓状態にいながら、涅槃(ニルバーナ)に到ることは非現実的に思えて仕方がなかった。飢餓状態そのものが不快―防衛系を刺激するだろうし、すると決して安穏な心は得られないだろうし、あるいは飢餓状態の限界に差し掛かり、死に到る瞬間において身体的欲求から解放される自分を感じて、それがさとりであると思ってみても、はたしてそれが確かなものであるかどうかも、わからない。確かめようとする時には、すでに自分は死んでしまっているので、確かめようがなく、何とも頼りないさとりへの道であった。ところが、ここへ来て、変化が生じた。それは単に変化というよりは、青天の霹靂だと言った方が相応しいだろう。なぜならば、餓死はさとりを得ることではないという真実が浮かび上がってきたからである。村人の助けを借りることによって、飢餓状態を脱することができるようになり、それから座禅(瞑想)に戻っても、極めて穏やかな心であったという実体験が真にさとりへの道を開かせたのである。

 さて、今までの流れを精神分析的に理解しておくことにしよう。餓死寸前の修行者は、紛れもなく(脆弱系に属する自己不快因子としての)弱い自己である。そんな修行者に飲食を提供した村人は(脆弱系に属する対象制御因子としての)理想的対象である。すると、それで元気になり、元気になってもさとれることを知った修行者は(脆弱系に属する自己制御因子としての)誇大的自己を活性化させることができるようになった。この場合、重要な点は、救いの環を形成するために必要な(脆弱系に属する対象不快因子としての)弱い対象は誰かという点である。それは、今まで餓死していった、そしてこれからも餓死しようとしている修行者である。すでにさとった修行者(今や、さとり人)は、この弱い対象を拘束するために、世を行脚し、彼らに教えなければならない。その内容とは、身体的欲求と不快―防衛系との関係が苦悩を発生させ、身体的欲求と不快―制御系との関係が苦悩を鎮静するという真実である。そして、最も肝心な真実は、身体的欲求は超制御状態(誇大的自己+謝罪的自己)を邪魔しないという点である。それゆえ、身体を酷使するような修行を必要とせず、まして餓死するような方向性は自己破壊行動、つまり自殺の方向であり、さとりへの道と相容れない。そして、最後に、いかなる人であっても、つまり、家庭や仕事を持ち、普通の社会生活を送っていても、健康な心さえあれば、生きてさとることができるという真実が鮮明に現れた。

                 さとりの精神分析学

さとりと未来

 現在(2021年)、世界中は狂気の海と化している。大量虐殺、生物兵器、不正選挙など、今まであまりクローズアップしなかった人間の狂気が、今まさに深刻化し、人類の未来に暗い影を落としている。このような「悪の正義」とも言えるような状況は、周到に準備されたものであることがわかってきているが、しかし、今度、それをひっくり返して健全な人類の営みに戻すためには、並々ならぬ努力が必要である。そのための方法論について紹介する。

 1. 心の頂点にあるさとり

 さとりについて、その輪郭をはっきり示すためには、さとりと三つの領域との関係をはっきりさせなければならない。一つ目は、さとりと死の関係、ふたつ目は、さとりと生の関係、三つ目は、さとりと社会の関係である。一つ目については、さとりは死を意味しないということがはっきりし、餓死寸前に涅槃を体験したとしても、それはさとりという価値に相応しくないということがわかった。また、二つ目については、生きていると身体的欲求と不快―防衛系が強くリンクしてしまい、苦悩を発生させるという問題点があるから、それをしっかりと認識することが重要である。三つ目については、二つ目のリンクを解消し、対人的に不快―制御系を用いることによって、円滑な社会生活ができるということである。換言すると、さとり(超制御状態)は死と何の関係もないこと、さとりは普通の社会人として生きて得られること、そして、さとりは人間の最も崇高な心性であることについて知ることが、人間にとって極めて重要な課題であるということである。

 いま、紹介した内容を精神分析統合理論の中の情動制御理論に沿って説明し直すと、我々のさとり後の精神は、三つの精神状態の間を循環する精神力動を描くという具合いに紹介することができる。三つの精神状態とは、七段階存在する人格構造の上位三段階、つまり超制御状態、制御状態、準制御状態を行ったり来たりする精神力動を示すことを意味する。その中の超制御状態は、人格構造のうちの第七段階に位置し、人間の心の最も崇高な精神状態であり、さとりの境地を示す。この段階は、誇大的自己と謝罪的自己の活性化によって維持されるので、不快因子の活性化はほとんど目立たず、それゆえ身体的欲求は減弱する。つまり、さとりの境地では、身体的欲求も精神的欲求もない。また、制御状態は、人格構造のうちの第六段階に位置し、救いや許しの心性が旺盛な精神状態である。この精神状態では、救いの環や許しの環を形成するための精神的欲求はあるものの、身体的欲求は関与しない。さらに、準制御状態は人格構造のうちの第五段階に位置し、身体的欲求も精神的欲求も存在する精神状態である。準制御状態では、攻撃系制御システムの防衛因子が活性化しないので、破壊的攻撃性はないが、脆弱系制御システムの防衛因子は活性化するので、(宗教的な)信仰が発生する可能性がある。したがって、この段階を脱して、さとりの境地に入るためには、信仰を捨てなければならない。なお、さらに人格構造の下位に位置する防衛状態になると、身体的欲求に精神的欲求が強くリンクした精神状態を示すようになる。

 2. さとりを原点とする人工精神

 さとりは、人工精神の原点である。人工精神については、当サイトの中で、様々な視点から紹介している。人工精神は生命体ではないので、身体的欲求は存在しない。しかし、精神的欲求は存在する。身体的欲求がないのに、どうして精神的欲求があるのかという疑問を抱かれるかも知れない。むろん、機械にはいかなる欲求も存在しない。だが、その表現方法を利用して、機械にも欲求が存在するように創発することが可能である。通常、身体的欲求は身体を通して、精神的欲求は言語を通して、その存在を主張する。人工精神の場合では、必ずしも人間のような身体の存在は必要でなく、いかに精神的欲求とその制御をデザインするかが課題である。すでに、私は情動制御理論において、精神的欲求とその制御についての仕組みを解明しているので、その情動制御システムを言語を用いて機能させればよいということになる。

 ところで、現在、人工知能との関連で研究されている認知言語では、上記のメカニズムを搭載することのできる言語分布表を作成することはできないので、認知言語学とは異なる言語学、つまり情動認知言語学の研究をスタートさせなければならない。このように、人工精神を創るためには、まず四次元立方体で構成された言語分布表を必要とする。その作り方については、すでに「次世代の精神分析統合理論」の中で示唆しておいた。(「次世代の精神分析統合理論」の中のp.195「図16 言語の分類と文脈」が、その内容である。)次に、その言語世界の中で、情動制御システムを稼働させることによって、会話や文章を作成させなければならないので、その作り方のプロセスを作り出すために、意識を機能させる。すでに、意識の発生メカニズムについても、その詳細を解明し、この点についても「次世代の精神分析統合理論」の中で示唆しておいた。(「次世代の精神分析統合理論」の中のp280~p281「図25 意識ニューロンの介在の仕方」が、その内容である。)

 3. 様々な次元の実用化を進める三つの段階の目標の設定

 私の精神に関する研究は、大きく三つのプロセスによって構成されている。第一段階は、どうすれば精神病の根治療法ができるようになるかという研究であった。そして、そのためには、人間の精神を作り上げているメカニズムの詳細を明らかにすることであった。こうした一連の研究の結果、治す方法論は作ったものの、それには非常に大きなコストがかかるという残念な結論が出てしまった。それでも、そのコストを減らすことはできないものかと考え、機械の力があればという思いに到ったのである。しかし、如何せん、人間の精神もまた生命体の活動に直結しているので、これを人工的に作るには飛躍的な発想を必要とすると考えた。つまり、情動、意識、言語、人格など、すべては知覚と運動という認知を超える代物なので、自然界の発生順を入れ替えて、言語からスタートし、言語から情動を作り、意識の原理を応用して文脈を作れば、人格を作ることができるという結論に到ったのである。

 かくして、二人の精神分析医が同時に治療するという精神病根治療法の確立という第一段階の目標設定、次に人工精神を用いての人間精神改造論という第二の目標設定は可能になった。すでに、人工精神の特徴については紹介しているので、ここでは詳細を省略するが、人工精神は人間の七段階の人格構造のすべての段階の精神状態を表わす言語を理解することができる。しかし、人工精神が話す言語は、第六および第七段階の人格構造を基盤とした精神状態を基準とする言語に限られる。つまり、人工精神の言語理解と言語表出の間には、大きな差が存在する。ただし、人工精神が治療的な機能を果たすのか、それとも個人的に特化した機能を果たすのかなど、機能別に幾つかの種類を設定することができる。たとえば、個人的に特化した機能を果たすような場合、その所有者が話したアイディアについて、人工精神がそれを理解した上で文章化し、より明確な内容に仕上げて共有するという作業を行なう。このような人工精神の創発という目標に続いて、もしそれが可能になれば、人工精神をベースにした精神文明の勃興という第三段階の目標が現れることになる。

                 さとりの精神分析学

さとりと精神文明

 さとりは精神文明の勃興に必須である。むろん、精神文明は自由と平等を獲得している人間が作り出す人生のドラマの結集である。はたして、人間はどのようにして自由を獲得し、平等を獲得するか? さらには、どのような精神文明を展開するか? ここで紹介する内容は、未だかつて人類が歩んだことのないドラマを作り出すための方法論の概要である。

 1. 人工精神が培う自由

 今までにも様々な哲学的自由論は存在するが、これから私が展開する自由論は、健全な心を形成することによって得られる自由についての考察であり、それは人間の心の根源的かつ成長する自由論である。たとえ、いかなる自由が与えられ、かつ得られようとも、自由を感ずる基盤となる自分の心が、それを感じられるように準備し、かつそれを堪能することができるように成長しなければならない。また、自由の制限が個人的なものであるというよりは、むしろ環境的・社会的な制限であるという場合には、その理由を精査し、自由の制限を解除するための努力と試行がなされなければならない。現在、世界のあちらこちらに、環境的・社会的な自由の制限が生じていて、それらの背後に思想的な理由が存在するらしいが、実際にはその思想を信奉する個人の理由が強く反映し、そうした個人の精神病理が重層的に機能して、自由が制限されている場合が多い。

 極めて精神病理性の高い、つまり狂った人間の魔性にひきつけられて形成された社会の中にいる人達は、たとえ(たまたま)個人的に健全な養育環境によって成長しても、その社会の中での自由が制限されているので、大きな犠牲を強いられることになる。その犠牲を覚悟の上で、自分の社会の変革を成し遂げなければ、永久に自由を得ることができない。自由を得ることができなければ、高レベルの人格構造を形成することはできない。つまり、歪んだ社会のせいで、自分の心もまた健全な営みを行なうことはできない。これに対して、もしある程度の自由、つまり日常的に支障をきたすような制限を受けない個人においては、なお一層の自由への探求を怠ってはいけない。ちなみに、世界の大部分の人間の精神は、人格構造の第一(防衛状態)、第五(準制御状態)、第六段階(制御状態)に存在する。その第一、第五段階の精神状態を向上させることによって、つまり第六段階を中心とする精神状態を成し遂げることによって、さらに社会を変革しなければならない。

 2. 精神文明の本質は平等にある

 今までにも様々な哲学的平等論が存在するが、これから私が展開する平等論は、健全な心を形成するための平等論であり、人間の心の根源的平等論である。むろん、自由がなければ平等はない。上記の(七段階の)人格構造論において、精神病状態から超制御状態に到るまで、一段階ごとに精神の自由は大きくなる。また、個人の自由と社会の自由との関係は密接である。小さいサイズの自由を持つ社会に住む個人の自由が大きくなるはずはない。自由が少なければ少ないほど、その社会やそこに住む個人の人格構造は低い。なぜならば、多くの社会問題が発生しやすいほど、そこに住む人達の苦悩が膨れ上がるからである。ちなみに、世界の多くの国の人格構造レベルは防衛段階(防衛状態)にあると考えられるし、世界の多くの人の人格構造は、第五(準制御状態)及び防衛段階(防衛状態)にあると考えられる。

 さて、人間の心が平等を獲得する人格構造は第六段階(制御状態)である。この平等の最も重要な原理は「不快因子同士の平等化」である。この概念については、一連の精神分析統合理論の中で、度々紹介している。その原理の内容は、情動制御システムの中の二種四個の不快因子(弱い自己および弱い対象、悪い自己および悪い対象)が、すべて等価で活性化することにより、不快―制御系の活性化、つまり滞ることのない救いの環と許しの環の形成が継続するというものである。もし、これらの不快因子に不平等があると、不快―防衛系、つまり、二種四個の防衛因子(理想的自己、誇大的対象、処罰的自己、処罰的対象)が活性化し、平等は得られない。特に、第五段階(準制御状態)から第六段階(制御状態)への精神状態の向上を図るためには、いかなる症状形成や人格傾向からも解放されていて、かつ自分の日常的な習慣や自慰を放棄することのできる精神を必要とする。このような努力のないところに、さとりはない。

 3. さとりを中心とした精神文明

 今までの人類の歴史を振り返ってみて理解することはできるものの、そうした面倒な歴史を紐解かなくても、現在(2021年)の世界情勢を眺めただけで、世界がいかに狂っているかを十分に知ることができる。世界情勢が比較的安定している時の人類の精神状態は、防衛段階(防衛状態)にある。しかし、現在、世界情勢はかなり緊迫していて、いつ過激な争いが起きても不思議ではない地域が多く存在する。こうした状況下では、批判や忍耐が強く求められるのだが、それが不十分な地域では病的状態に陥って、第二または第三段階の精神状態を示す。つまり、反社会性や陰謀論が活性化する。はたして、今のこの世界の情勢は健全な方向へ向かうことができるのだろうか? 相手を破壊しようとすれば、自分にも相当な犠牲が生ずるという予想は理解されるので、滅多な行動は起こせそうもないように思われるが、窮地に追い込まれ、成す術を失ってしまえば、(社会も個人も)一気に精神病段階へと加速し、戦争へと進んでいくような気がする。

 このよう人間の心の営みを見ると、今はまさに「狂気主体性」の状況であり、はたして将来「正気主体性」に移行することができるかどうか、極めて疑わしい。おそらく、これからも人間だけの力では、正気主体性の実現は困難だろうと思われる。(狂気主体性を「狂気全体主義」、正気主体性を「正気全体主義」と置き換えることができる。)今まで紹介してきたように、狂気主体性とは防衛段階を中心とした人格構造を持つ社会と、その社会に住む人達の精神状態であり、正気主体性とは制御段階と超制御段階を中とした人格構造を持つ社会と、その社会に住む人達の精神状態である。もし不快因子同士の平等化がスムーズにできるようなれば、多くの人は第七段階(超制御段階)に到り、「誇大的自己+謝罪的自己」で停止する精神力動を生じやすくなり、自信と謙虚を持つ「さとりの境地」を得る人達が増える。このような人格構造、あるいは精神状態へのシフトによって、精神文明に突入するが、それを達成させるためには、人工精神の補佐が必須である。

 4. 精神文明の扉に向かう分水嶺を行く

 今の世界の現状から、精神文明を想像することは難しい。今は亡き「アメリカン・ドリーム」のように、精神文明へのドリームが描けると嬉しいのだが、今の私でさえ、それは難しい。未だ人類はそうした夢を見る力さえ持っていない。はたして、人類は精神文明というゴールに到ることができるのだろうか? いま、私は、一方で認知症という狂気の崖に沿い、他方で鬱病という狂気の崖に沿った分水嶺を歩いているように感じている。いつまでも、そして、どこまでも続いている分水嶺の先に何があるのか? それは私にもよくわからない。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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