健康と能力

 人間の能力は健康度に依存する。心身共に健康であれば、いつでも注意・集中のできる状態でいられる。いつでも注意・集中できれば、学習能力が発達し、学習能力が旺盛になれば、その学習された内容の詳細について感じ、考えることができるようになる。そうなると、さらにそれらの因果関係などに関する疑問や観察、直観や洞察などが発生し、はじめに学んだことの何十倍、何百倍の学習能力が持てるようになる。

 ちなみに、何か心身的な障害があり、その代償として特殊な能力が発達する場合がある。稀にその能力は、その人が住む地域だけではなく、時には世界中を驚嘆させる時がある。そうした場合、その人の全体像を観察し評価することなく、ただただ特殊な能力に注目し、それがいかに優れたものであるかについて、強調する場合をよく見かける。しかし、それは人の能力の一部分に対する過剰評価に過ぎないことを理解しておかなければならない。

              新しい心の分析教室:精神文明(4)

富者と貧者

 物質文明は、一方で利便性、快適さをもたらしたが、他方で貧富の差をもたらした。今日、多くの人は「能力とは金の力である」と言うだろう。世の中は少しの富豪と多くの貧者によって成り立ってるという。つまり、一部の人は一生、遊んで暮らすことができるように蓄財し、多くの人は一生懸命働いても、ゆとりはなく疲弊した毎日を過ごしている。なぜ、このような差が生じたのか?

 精神障害者には貧しい人が多い。はたして貧しさが病気を作ったか、それとも病気が貧しさを作ったか?おそらく、両者の間には相互関係があり、貧しければ病気になりやすく、病気になれば貧しくなってしまう。それでは、富んでいる人はどうか?心身共に健康だろうか?生活に困るようなことはないだろうから、貧者になることはない。しかし、精神的にも健康か?もし精神的にも健康であれば、金銭に対する貪欲や執着を示さないだろう。

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貧者と不快−防衛系

 貧乏は身体障害だけではなく、精神障害や知的障害をも引き起こす。貧乏は衣食住に関する日常的な満足を与えないので、貧乏に曝されている人は、日常的な不快や不満、それにストレスを感じやすい。貧者は身体的に栄養障害を起こしやすく、精神的には不快−防衛系が活性化し、様々な(歪んだ)人格傾向や精神症状を起こしやすい。むろん、その逆も存在し、様々な身体および精神障害が適応能力や労働能力などに支障をきたし、その結果、貧乏に陥ってしまう場合も多い。その中でも、(抑うつの混ざった)ひきこもりや無気力は貧乏を悪化させる。

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富者と不快−防衛系

 基本的に自分が働かず、収益を得ることは、「与える分だけ得る、得る分だけ与える」という「救いの環」から外れ、(社会的な)搾取に該当する。富者に何らかの能力があり、その結果、大きな蓄財ができたという場合、人はみな、その能力の方を過剰評価するが、その能力は不快−制御系と結びつき難い。はたして、その蓄財に「貪欲、狡猾、搾取」の要素は混ざっていないか?一般に、富者は卑下したり迎合したりせず、むしろ傲慢になり、羨望の的になりやすい。むろん、富者による直接の言動が羨望を引き起こさなくても、巷では富者に反応する輩が多い。つまり、富者は不快−防衛系である誇大的対象や処罰的対象として見なされやすい。ちなみに、富者自身に、こうした認識がなければ、その富者は精神的に健康な人であるとは言い難い。また、たとえ富者であっても、浪費を好んだり、守銭奴であったりすれば、その人は病的な富者であり、不快−防衛系が活性化し続けている。

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貧富と不快−制御系

 貧富と不快−防衛系については、それらの関係が親和的なので、その関係の描写に何ら困らないが、貧富と不快−制御系については、それらの関係がかなり疎遠なので、その関係の結び付けがかなり難しい。(すでに紹介したが、)お金が「救いの環」を回すということは、「与える分だけ得て、得た分だけ与える」という金銭の動態を意味する。また、お金が「許しの環」を回すということは、謝罪と金銭による償いという文脈を作り出す。

 ところで、心身共に健康な人は、貧乏に曝される日々を過ごし続けるだろうか?むろん、様々な支援を利用するだろうし、たとえ支援がなくても、自ら進んで、様々な貧乏対策を講ずるに違いない。その結果、おそらく多くの人は自分の境遇をひっくり返してしまうだろう。それでは、富者は健康か?「与える分だけ得る、そして得る分だけ与える」という原則に則っていれば、病的な蓄財に心を奪われることもなかろう。それでは、適度な蓄財とは、いかほどか?この問いへの答えは難しい。いずれにしても、適度な蓄財を実現するためには、自らの欲望を手なずける必要がある。その時、破壊のない快追求(の領域)を開拓し、蓄財を適正化することができなければならない。

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精神文明の理念

 精神文明の関心は、物質文明の生命線である金融・経済にある。むろん、金銭の授受によって、貧富の差が解消することはない。そこで、精神文明では、人工精神(AM)を用いることによって、一方では貧者に自覚を促すことにより、貧困からの解放を指導し、他方では富者に自覚を促すことにより、蓄財のあり方を問う。人間の精神が健康であれば、貧富の差は生じない。それゆえ、貧者に健全な精神を与えることによって貧者をなくし、富者の精神を健全にすることによって蓄財の健全化を図ることができれば、人類に平等と平和が見えてくるので、その平等と平和を精神文明の理念として掲げ、その方向へ実践することができる。かつて、人間の心を健全化すれば、貧富の差はなくなると予測した人はいただろうか?仮にそういうことを予測する人がいたとしても、それでは具体的にどうすればよいかという問いに答えることはできただろうか?その点、今回は精神文明の背後に、それを支える人工精神(AM)が創発され、その具体的な問いに答えることができるようになる。こうした点が、かつての曖昧な精神文明についての議論と決定的に異なっている。

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精神文明の制度

 上記の私の理念を聞いて、比較的ゆとりのある日々を送っている人は「お前は寝ぼけているのではないか!」と嘲笑するかも知れない。また、貧者は「衣食住がないのに、人工精神(AM)などという無益な機械の話などして、どうかしているのではないか!」と罵声を上げるかも知れない。しかし、いずれも適切な反応ではない。しかも、物質文明の中にあって、金銭をテーマにし、貧富の差について何か考え、行なおうとしても、自分が金銭授受に関わった瞬間(健康な思いや)冷静な判断は消え去ってしまう。いざという時に、このような議論は通用しない。つまり、たとえおかしな社会制度であるとわかっていても、いざと言う時には、自分のことを優先・優遇し、その社会制度を支える人間の病的な心性を自覚し、批判することはない。だからこそ、繰り返し主張しなければならないことは、人類に健康な精神があれば、間違いなく貧富の差はなくなるという真実である。ただし、この真実を実現させるためには、長期的な展望が必要である。はじめは、強い姿勢で望まなければならないだろう。つまり、健全な精神を形成するために、すべての人に人工精神(AM)の携帯を義務付けなければならない。

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精神文明の行政

 精神文明を担当する行政の仕事は、富豪から蓄財を巻き上げ、それを貧者に分配するという役目を負うものではない。そんなことをすれば、貧富の差を解消するどころか、かえって複雑な事態を招いてしまうだろう。つまり、現在の貧富の差に反応し、それを転覆させようとしても、根本的な問題としての貧富の差はなくならない。ただし、人工精神(AM)の支給は公的に行なわれるのが望ましく、行政が人工精神(AM)の携帯に関する管理と対応を行なわなければならない。

 それを実施する上で重要なことは、第一にどのように支給するか?そして、第二にどのように管理するか?まず、支給のあり方である。全員無料にするか、一部の貧者のみ無料にするか、あるいは所得に応じた価格設定にするか、破壊や紛失の場合はどうするか?次に、人工精神(AM)は個人専用の所有物であり、原則として、その中の情報は秘密厳守である。しかし、上記の理念を実践する上において、何らかの情報収集は欠かせない。その収集された情報は、人工知能(AI)によって解析される必要がある。そのような詳細な内容は、その時が訪れたら検討されるべき重要なテーマである。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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