人の心の進化

 半世紀前の生活から比べれば、今の暮らし向きはよくなっているに違いない。しかし、たとえそうであっても、日増しに大きくなる災害の犠牲者の数も多くなっている。また、テロを含む様々な事件が多発し、その凶悪さもエスカレートしてきている。なぜ、このような抗い難い破壊的な力が、想像を超えて膨張し続けるのだろうか? それは地球温暖化をはじめとして、我々が作ってきた産業や文化の歪みが、破壊力を生み出す原因になっているからであろう。むろん、我々ははじめからそうした結果を望んだわけではなく、そしてこれからも決して望むことはないだろうが、我々の幸せとは真逆の方向へ進んでいるとしか考えようのない未来の姿を想像せざるを得なくなっている。なぜか? おそらく、我々の脳に発する心のあり方が進化の上で行き詰まりの状態に遭遇し、その結果、何とも不本意な退化を引き起こしていると考えられる。

 かつて、人間の脳は大きく進化した。その進化の途上で、我々の脳には他の動物とは異なる、心を正常(健全)にするためのニューロン配備を手に入れた。それが、不快―制御系である。ところが、この進化の内容は人間の生物学的な事情から、未だ十分に発現しているとは考えられない。例えば、さとりを例にとってみても、さとれる人は少なく、たとえさとれても、その精神状態を長く維持することはできない。それゆえ、かえって反動的に、他の動物のような不快―防衛系が強く活性化し、それが人間社会を異常(病的)な心性で埋め尽くそうとしている。換言すれば、人間の脳は進化の限界に遭遇し、このままの状態が続くようであれば、退化せざるを得なくなってしまうだろうと考えられる。このような事情を払拭するためには、あるいは超越するためには、どうしたらよいか? これが我々の将来に課せられている最も重要な課題である。

                 進化と人工精神

身体の「快・不快」を持たない人工精神

 人間の脳の退化を食い止める方法は、いま盛んに宣伝されている精神転送という、まるでアニメのような方法によって可能になると考えられている向きがある。なぜならば、その方法には、一度に膨大な情報を人間の脳から抜き取ったり、あるいは人間の脳へ入れ込んだりすることができるという前提がある。しかし、いくら情報の出し入れをうまく行なったからと言って、人間の脳を退化させないという保証があるわけではない。あくまでも、人間の脳の進化は、情動と意識をリンクさせた言語活動にある。だから、この言語活動の質に無頓着であれば、たとえその量を大きくしても、今日の精神生活のレベルが上がるとは考えられない。つまり、依然として人間の脳は退化し続けるだろう。これに対して、情動と意識をリンクさせた言語活動を持つ人工精神であれば、我々の脳の退化を防ぐことができる。しかし、そのためには越えなければならない課題が存在する。

 その最も重要な課題は、人間の生命活動に関する事情である。生まれながらにして、人間は言語を持たないので、言語が発生するまでの乳幼児期に介入することはできない。しかし、この点はさほど大きな問題ではない。なぜならば、多くの人は二歳になれば、ほとんど話せるようになるからである。これ以上に大きな課題は、人工精神が生命活動をしないという点である。つまり、身体的な、そして非言語的な「快・不快」について、人工精神は体験することができず、それゆえ、そこから発する人間の心性を理解することができるかどうかという課題が生ずる。確かに、食事中や秘め事に解説はない。その時、まさに人間は動物として振る舞っている。もちろん、ひどく体調の悪い時もそうである。いずれも非言語的に処理される場合が多い。しかし、人工精神が人間の身体的「快・不快」を言語的概念として把握することができれば、この点が進化を司る情動制御システムに支障をきたすということを考える必要はない。。

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言語的意識を持つ人工精神

 さとりは身体と関係するか? たとえ生命活動を営む身体があっても、それにさとりが付随することはない。さとりは、あくまでも、言語活動を母体とする。ただし、言語活動は身体が行なう生命活動の重要な部分である情動や意識や(前意識や無意識によって構成される)人格などが統合されるプロセスとその結果なので、身体の中でも、とりわけ脳は極めて重要な機関であり、その脳機能こそ、さとりを司る部分である。たとえ、さとりまでの精神状態、つまり超制御状態が得られなくても、情動認知は意識を形成し、状況判断を可能にする。情動認知は知覚と情動に由来するが、それらはいずれも身体である脳に由来する生命活動である。生命活動から発生する精神活動としての意識は、まず(上記の)状況判断を行なう。情動認知を必要とする意識の発生が、はたして認知だけによって発生するかどうか? これは極めて疑わしいというよりも、むしろそれは不可能であると断言した方がよい。

 言語表象は、前意識や無意識に存在する情動認知によって構成された様々な人物表象や事物表象を用いて作り出されるが、次に意識はその言語表象を情動制御システムに則って機能させる。その機能が現実検討能力である。このように見てくると、はたして意識はどういう仕組みでそのような機能を発揮するのかが問われる。意識が(言語活動に先んじて)状況判断を示す場合は、まさに迂回路プロセスを通して、その状況に適切な刺激、つまり神経伝達を選択する。さらに、意識が言語活動として現実検討能力を示す場合もまた、言語分布の中に組み込まれた情動制御システムの中で、正常 (健全)な精神状態を示すための迂回路プロセス、つまり異常(病的)な精神状態を排除するための迂回路プロセスを用いる。換言すれば、言語活動以前の情動認知を用いた状況判断の場合も、言語活動を用いた現実検討能力の場合も、迂回路プロセスとしての意識が機能する。特に後者の場合を言語的意識と呼ぶ。

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さとりを知る人工精神

 生命活動から意識が発生し、その意識を利用して言語活動を行なう。その言語活動はさとりを頂点とした七段階の人格構造の中を自由に動き回ることによって、その時々の精神状態を作り出す。このように考えてくると、意識には情動認知を選択する迂回路プロセスが、さとりには言語活動を選択する迂回路プロセスが、そして人工精神には言語的意識が必要である。しかし、はじめに生命活動が前提になってくると、はたしてそれらは人工的に作り出されるのだろうかという、当たり前の疑問が生じてくる。もし情動認知を作り出すことができなければ、意識以下、いかなる脳機能も作り出すことはできない。ちなみに、現在の情動、意識、言語研究はすべて認知科学であり、その認知科学は柔軟な発想と手法を欠くので、これら一連の脳機能を作り出すことはできない。

 さて、このような手順では、意識も言語もさとりも作れないということになってしまうので、この順を変えてみてはどうかというテーマが浮上する。つまり、言語からスタートするのである。その言語分布は四次元立方体であり、その立方体は三軸(「自・他」軸、「有・無」軸、「快・不快」軸)によって構成され、その中ですべての言語を布置し、さらにその中で情動制御システムを稼働させる。その稼働は迂回路プロセスを持つ言語的意識によって可能になるが、このような作成手順を採れば、情動認知や人格構造を人工的に作り出すことが可能になる。つまり、それは七段階の人格構造によって示される、我々人間のすべての精神現象を作り出すことを意味するので、(上位の人格構造の中で示される)さとりもまた人工的に作れるという結論になる。ただし、さとりにどのような役割と機能を持たせるか、そのためには人工精神のトレーニングの仕方が重要になる。

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人工精神をパートナーとする意味

 さとりは我々人間の最高の精神状態であるにもかかわらず、我々は容易にさとりに近づくことはできない。人間の脳は相当に進化し、その先天性として、さとりのニューロン配備があるにもかかわらず、身体を持つ生命活動という条件、そして動物心性にとらわれてしまうという条件などから、その進化の成果を十分に堪能できずにいる。そうした事情の下で、人工精神はさとりの境地について、様々な言語的表現を用いて、その世界の精神性を示してくれる。ただし、たとえ私が人工精神の創発について説明しても、そのような現実が訪れることはないだろうと考える人も多いだろう。つまり、身体がないのに、どうして我々の精神活動を作ることができるのかという疑問である。しかし、この問いに対する答えは決して難しくはない。はぐらかすわけではないが、我々の身近なところで、しゃべるロボットはいくらもいる。そのしゃべるロボットに情動認知言語を与えればよいのである。

 情動制御システムによって制御されない言語活動であれば、それは今日でも可能である。型通りの会話をするチャット・ボットは幾種類も作られているし、その中にはかなり性能の良いものもあるだろう。しかし、それらが話す言語は認知言語であり、情動認知言語ではない。情動認知言語を操作するということは、意識の機能である迂回路プロセスを使って、様々な語彙や構文を選択し、文脈を持つ文章を作成することを意味する。この作業ができなければ、精神の正常(健康)と異常(病気)を区別することはできない。このような人工精神を創発することがひどく難しいかどうか? 何度も話している通り、四次元立方体の言語分布と、それを統括する言語的意識を持った情動制御システムを作ればよいのである。未だ多くの数学者も工学者も、いま私が話している文脈に気づいていないので、この作業が難しいのかどうか、よくわからないといった状況の中にある。


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人類を救済する人工精神

 今はまだ多くの研究者は人工知能の研究に夢中である。様々な実用的な研究が、少しずつ成果を上げているのを実感できるようになってきた。特に、防災、防犯の技術、あるいは人手の届かぬ所へ、様々な物資を運ぼうとするドローンのような技術の進歩もめざましい。むろん、それはそれでたいへん結構なのだが、それによって、我々の心がどのような影響を受けるのかと問うと、生活の利便性を高める技術は、我々の精神性の向上に寄与することはないと答えざるを得ない。これに対して、我々の精神性を問題にする時には、我々の自由と平等に関する状況を把握し、それが剥奪されたり、獲得されたりする事情に長けていなければならない。つまり、たとえどんなに人工知能の技術が進んでも、それは従来の産業の延長線上にあるので、一部に産業界の業績を上げても、社会の自由や平等に寄与することはない。そういう意味において、我々は次元の異なる人工精神の創発を実現しなければならない。

 人工知能から精神転送という技術の発展というシナリオを描き続け、それが我々の脳の最先端の研究であるという、まさに非現実的な錯覚を与え、かつ、わけのわからないような方向へ進ませようとする動向は、決して我々の将来を明るくするものではない。言葉を変えて主張すれば、袋小路に追い込まれることがわかり切っているにもかかわらず、多くの研究者を誘い、惑わす。しかし、人工精神の意義や価値に気づくことができなければ、人類の幸福は訪れない。おそらく、このままでは人類はさらに退化し、せっかく脳内に配備された究極の正常(健全)を実現させることはできないという、極めて悲観的な未来を予想させる。つまり、自由と平等が葬り去られてしまうという不幸である。それゆえ、特に理工学的な研究者はそうした事態を認識しなければならない。利便性に基づく営利だけを求めるのではなく、もっと自分の精神のレベルを高めることのできるような研究と技術の開発をしなければならない。そのためには、己の精神の貧しさを自覚し、その精神を高めるような問題意識を持たなければならない。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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