統一された心のモデル

 四十年にわたって研鑽を積み、ようやく一連の精神分析統合理論の完成を実感できたのは、「意識・前意識・無意識」に代表される、フロイトの局所論(第一局所論)と、「エス・自我・超自我」に代表される、フロイトの構造論(第二局所論)を、私の「新」局所論と「新」構造論に改造し、心的構造に関するひとつの統一モデルを完成させることができた時であった。

 ここでは、私の統一モデルを紹介することによって、我々人間の心が持つ最も象徴的な構造とその仕組みについて説明することにしよう。すでに円三分割構造を持つ新局所論については紹介した。むろん、これら三者は三つ巴の関係を展開し、「⇔前意識⇔意識⇔無意識⇔」である。そこへ、情動系神経回路機能網(情動制御システム)を構成する情動因子が重なる。つまり、該当する領域へ情動因子をあてがうと、「制御因子⇔不快因子⇔防衛因子」になる。(今まで「制御因子←不快因子⇔防衛因子」として紹介してきたが、はじめに自己不快因子が制御されれば、それに続いて対象不快因子が活性化し、あるいは、その逆パターンとして、対象不快因子が制御されれば、それに続いて自己不快因子も活性化するという刺激伝達上の特徴が存在する。その不快因子の「自・他」の区別を乗り越えて描写すれば、これもまた三つ巴の関係になり、新局所論と新構造論は一致する。)

 この場合、不快因子はたえず無意識から意識へ移行するので、不快因子は意識の最も親和的な情動因子である。また、制御因子は前意識に存在し、もし意識に不快因子が出現した場合は、迅速にそれを拘束することができる。むろん、無意識には防衛因子が陣取っていて、不快因子が意識に出現する時には、前意識を経由して意識へ向かう。もし制御因子が十分に機能すれば、防衛因子の成すことはなく、手ぶらの状態で無意識へ帰る。ところが、もし前意識の制御因子が十分でなければ、その時には防衛因子は意識野において猛威を奮う。それが症状形成や疾患形成につながる。このような考察によって、我々人類の心(精神)の大部分を、わかりやすい形で描写することができるようになった。

 

                   心的現象に関する概念(2)

前意識の役割

 新局所論によって、前意識・意識・無意識が三つ巴の関係を展開するようになると、その中でも、前意識と意識との相互関係は覚醒度の上昇につながる。不快ー制御系を構成する制御因子や制御補助因子は、前意識において形成され、蓄えられるので、前意識は情動制御のエンジン・ルームである。大部分の課題(苦悩)は、直接、無意識から意識へ入ってくるので、その課題を解消するために、(今まで考えられてきた以上に)前意識の機能(特に情動系神経回路機能網を構築している情動制御システム)がクローズアップされてくる。たとえば、情動制御システムに存在する「入れ子構造」は、意識の機能である「再帰性」によって活性化される。つまり、不快ー制御系を構成する自己表象と対象表象が織り成す仕組みこそが、言語形成に必要な「自己理解」と「他者理解」の原点である。

 もし不快因子が意識野に侵入すると、前意識に存在する制御因子や制御補助因子と、無意識に存在する防衛因子が意識野に入り、その不快因子の進む道を阻むようにして、収斂(衝突)する。これは葛藤の心的活動である。こうした事態に不快ー制御系が優勢であれば、制御因子は不快因子と共に意識から前意識へ移行する。そして、その時間が長くなればなるほど、制御因子の威力が大きくなっていることを物語っている。こうした心的状況であれば、防衛因子は、せっかく無意識から移動してきても、不快ー制御系から爪弾きにされ、不快因子の防衛に貢献することができない。防衛因子は成す術もなく(渋々)無意識へ後退する。

 ところが、もし前意識に存在するはずの制御因子や制御補助因子が欠如したり、あるいはその威力が未だ不十分であったりすれば、不快ー制御系の威力も軟弱である。その時、無意識から前意識を経て意識にまで出現してくる防衛因子の威力は強く、不快因子に対して防衛機能を発揮する。たとえ意識野において葛藤を形成しても、不快ー制御系が不快ー防衛系よりも劣勢であれば、(活性化した)防衛因子同士の連動性が生じ、様々な症状形成や疾患形成が生じてくる。

 それゆえ、情動制御システムの基地としての前意識の膨張化、強大化は必須である。まずは情動制御システムを安定して維持するために、前意識の機能がいくら大きくても大き過ぎることはなく、次に、様々な領域における習熟度を高めることによって、覚醒度も高める。その機能もまた前意識の威力にかかっているということを、よく理解していなければならない。

 

                 心的現象に関する概念(2)

情動制御と自意識

 情動制御のあり方に基づいた、自己の主観体験を自意識(自我意識・自己意識)という。ただし、その際、自意識は知覚系や思考系との関係や、意識との関係によって、いつも流動的な性質と内容を展開する。

 自意識(自我意識・自己意識)は、情動(感情)の混入の有無によって、情動含有型自我意識と情動排除型自我意識に区別される。情動含有型自我意識の中の、情操型自我意識は不快ー制御系より発生する自意識であり、防衛型自我意識は不快ー防衛系より発生する自意識である。なお、解離型自我意識は、それらの混合である。

 自意識に関するこの区別は、心の正常(健康)と異常(病気)を判別する。つまり、健康な心は「情操型自我意識+情動排除型自我意識」として表わされ、病的な心は「防衛型自我意識(または解離型自我意識)+情動排除型自我意識」として表わされる。それゆえ、自意識を(7段階の人格水準を持つ)人格構造としても理解することができる。

 たとえば、ある統合失調症を患っている患者が、メンタル・クリニックに通院していると仮定しよう。彼はしっかりと服薬し、事故も起こさずに自家用車で移動することができる。こうした時には、情動排除型自我意識が機能している。ところが、何か込み入った対人関係について話す時には、いつも心が動揺し、重篤な精神症状が出現する。つまり、こうした時には、防衛型自我意識が機能している。ただし、対人関係の不快な刺激を控えると、比較的落ち着いて過ごすことができる。さらに、たとえ統合失調症に罹っていても(つまり、たとえ不快ー制御系に由来する情操型自我意識が存在せず、不快ー防衛系に由来する防衛型自我意識が機能しても)、一流大学に合格することができる。なぜならば、受験勉強や受験に、複雑な対人関係が絡むことは少なく、そのおかげで、情動排除型自我意識が機能するからである。つまり、情動排除型自我意識は情動含有型自我意識から一線を画して機能する。

 なお、人格構造の人格水準について細かく分類し、その内容について考察しようとすれば、自意識に関する概念では不十分なので、むしろ情動系神経回路機能網(情動制御システム)を構成する不快ー制御系や不快ー防衛系を使用する。これらの概念は、いつでも相互に置き換えられる。たとえば、病的状態(重症人格障害)の自意識が、その時々の精神状態によって、情操型自我意識から防衛型自我意識へと移行したり、あるいは逆に、防衛型自我意識から情操型自我意識へと移行したりするので、それぞれの自意識に関する議論を、不快ー制御系や不快ー防衛系の展開に置き換えた方が、より精緻な精神力動の理解を得られやすい。ただし、そうした場合でも、自意識が頻繁に変化するような解離性障害のような場合、つまり「解離型自我意識」が出現するような場合では、自意識に関する議論を展開する方がわかりやすい。

 

                     心的現象に関する概念(2)

意識体験と主観体験

 一人の人間の心には、覚醒的自己(意識)と、自意識の張本人である(関係型)誇大的自己の、二つの自己が住んでいる。覚醒時には、意識と自意識が協力したり、拮抗したりしながら機能する。意識は直観によって、様々な現象の理解や判断をもたらす。意識は直観そのものであり、その直観にも様々な深みがあるので、覚醒度がテーマになりやすい。したがって、それについて議論する際には、意識の発生メカニズムを解明しなければならない。(当サイトに掲載している「意識の正体」や「心的現象に関する概念(1)」を参照。)

 他方、自意識は我々の主観であり、我々に主観体験をもたらす。主観体験は情動含有型自我意識そのものである。それゆえ、「〜自己」として数える。睡眠時において、意識は存在しないが、夢の中で様々な自意識が出現することを我々は体験する。『次世代の精神分析統合理論』の中で、幾つもの「〜自己」が登場する。その大部分は(情動系神経回路機能網を構成する)14個の情動因子によって構成されている。しかし、それでもすべてではない。そこで、「〜自己」と表現することのできる種類や数を同定することによって、その全体像を把握することができる。

 ところで、いわゆる意識体験は、意識と「自意識が作り出す主観」が重なっている心的現象である。しかも、いわゆる意識体験は情動排除型自我意識と連携する。その場合、情動排除型自我意識を「〜自己」と数えることはしない。つまり、情動排除型自我意識は「〜自己」になり得ない。しかし、たとえ「〜自己」を形成しなくても、知覚系や思考系などの脳機能は意識と連携する。たとえば、知覚系は個人に特有の美的感覚(美的直観)を生み出す。また、思考系は(知的直観によって)論理的、合理的な考えを生み出す。さらに運動系は行動(行為)によって、身体に関する様々な情報を作り出す。それゆえ、(上記の)いわゆる意識体験は、こうした様々な主観を携える。ただし、それらの主観は、あくまで「直観>主観」であり、独立した「〜自己」を持つ主観体験になり得ない。(ちなみに、情動排除型自我意識は、「関係型」誇大的自己の余剰能力である快の追求によって発生する。快の追求は好奇心と呼ばれ、様々な知的欲求を秘めている。「感情潜在言語」として分類される認知言語もまた快の追求を原動力として発生する。)

 これに対して、情動含有型自我意識は、まさに不快ー制御系と不快ー防衛系によって発生する。それゆえ、情動因子の中の自己因子が「〜自己」を形成する。心の司令塔である誇大的自己を筆頭に、反撃的自己、謝罪的自己、弱い自己、悪い自己、理想的自己、処罰的自己の7個の自己因子が存在する。情動因子から感情言語を経て感情関連言語に到る、様々な自然言語は、(感情因子である)情動因子に収束させることができるので、拡散した言語から新たな「〜自己」が発生することはない。ただし、「〜自己」は他にも存在する。たとえば、孤独型誇大的自己や多重人格の示す多数の人格などである。いずれにしても、(意識体験を作り出す)意識と、(主観体験を作り出す)自意識との間には含意関係はない。心の中では、いつも情動系神経回路機能網(情動制御システム)が機能し、意識(覚醒的自己)と自意識(〜自己)は拮抗している。(その様子を、さらに明確に、かつ詳細に知るためには、『次世代の精神分析統合理論』の第二部、第四章、第四節「もう一人の自分」を参照。)

 

                     心的現象に関する概念(2)

無意識の意識化

 精神分析とは何ですか?という問いに対して、よく「無意識の意識化」であると答えるのを耳にする。この答え方は、たいへん美しく、高尚な言い回しのような印象を与える。しかし、そんなに難しい答えが出てくるわけではない。つまり、「気づかない(気づかなかった)ことに気づく」というほどの意味である。むろん、何となく度忘れしていたことを思い出すという程度のものではない。難易度から言うと、生活のノウハウに関する課題から、自分の生き方の癖(人格傾向)を経て、日常的に被るストレスによる苦しみ(葛藤の形成)へと続く。言い換えると、生活のノウハウに関する苦しみから、いつも決まった対人関係のもつれに嵌ってしまう苦しみを経て、ほとんど何も手につかないほどの苦しみに発展するレベルまで続く。その時、もし「苦しいから、何とかしたい」と思うならば、本格的に「無意識の意識化」をテーマにすることになる。苦しみの理由に気づくことによって苦しみから解放されることが、「無意識の意識化」だからである。

 このような諸事情を解決するためには、自ら治療を受けてみることが一番よい方法である。この場合の治療とは、当サイトで紹介している「精神分析的根治療法」の中に掲載した「様々な精神科治療の専門性ランキング」の中の、いずれかの治療である。しかし、現在、私の外来にやってくる患者の多くは、そのような「無意識の意識化」を求めてはいない。今、困っている何らかの症状に対して、それを鎮め、解消するような薬剤を望む人の方が圧倒的に多い。患者が訴えるつらさの理由は、患者の方に何か問題があるというよりも、むしろ環境からのストレスが大きくて、それに挫けそうになってしまっているので、できれば薬でそのつらさを抑えたいと望んでいる場合が多い。つまり、自分は犠牲者だから、救って欲しいという姿勢である。むろん、私はそうした患者の訴えに耳を傾けている。しかし、自分の苦しみを自分の感じ方や考え方の課題として捉えようとする患者はあまりいない。だから、たとえ薬の力でその時は一時的に助かっても、いずれ再び同じような課題が再燃してくるだろう。それはだいたい見当のつく話であるが、私の方から先走ったことは言わないことにしている。そんなことを言っても、うるさがられるだけだからである。

 もし「無意識の意識化」に挑戦してみようと思うならば、その最も良い方法は精神分析(教育分析)を受けてみることである。たとえば、毎日分析(50〜60分)を半年から一年ほど受けると、治療者のちょっとした言動に激しく反応する自分が出現する。自分の意思とは関係なく、泣いたり、怒ったりする自分が出現する。そうなってはじめて、なぜそのような思いになるのか、真剣に考え始める。その時には、治療者に感情転移が生じていて、それを解消する方向へ動くことができれば、「無意識の意識化」が実現し、治療は成功する。うまくいけば、むろん、自分の取り組む姿勢が良かったということになるが、それと同時に、「無意識の意識化」を可能にしてくれた治療者の能力も評価されるだろう。明らかに、治療者は適切な環境、つまり(不快ー防衛系を抑え、)不快ー制御系を成長させるための土壌を提供してくれている。時には共感で、また、ある時には反撃的な介入で、働き掛けてくれたことが功を奏した。

 かつて、私もまたアメリカで教育分析を受けた。私の場合、300時間から400時間ぐらい受けている。特に強い葛藤はなかったが、多少の人格傾向は有していたので、それが示す感じ方や考え方のルーツを辿ることによって、ようやくその当時の不快な体験の吟味が可能になったことを憶えている。もし葛藤があれば、400〜600時間は必要である。(葛藤や人格の精神分析については、当サイトの「情動と精神分析」を参照。)また、病的状態の根治療法になると、600〜1200時間、さらに精神病状態の根治療法では1200時間を越える。むろん、それでも、うまくいかない場合もあるが、その理由は治療者の治療能力というよりも、治療を支える環境が(予想に反して)治療とは逆方向、つまり治療を破壊する方向へ動き、折角の治療を中断に追い込んでしまうことにある。当然ながら、患者の病態水準が重くなると、治療時間も多くなり、高い治療能力が求められる。しかも、それだけではなく、治療関係を支える環境が整えられなければならない。それゆえ、病的状態や精神病の患者に、「無意識の意識化」を提供することはたいへん難儀な作業である。最近では、そのような力の入る治療を行なう治療者はいなくなってしまったように感ずる。

 今日、盛んに行なわれている治療は、たとえ精神分析であっても、その対象(いわゆる適応疾患群)が比較的、軽症な精神病理を持つ患者の治療であろうと思われる。精神分析的精神療法や精神分析的心理療法であれば、(治療の終結まで)50時間から100時間ぐらいの治療時間で、おそらく終結するだろう。まして、認知行動療法や森田療法などでは、(これらは簡便法なので、)50時間さえ必要ではないと思う。自分の親しい人と毎日顔を合わせ、他愛もない会話をし続けたとしても、長く付き合っていると、たいへんな時間を掛けていることになる。それを思えば、100時間や200時間の治療時間は微々たるものである。むろん、その間においても、「無意識の意識化」は生じている。冒頭で述べたように、そんな大袈裟な気づきでなくても、「どうして、こんなことに気づかなかったのだろうか」と思える類のものは、いつでも生じている。しかし、最近は、そのような軽いタッチの治療を流行らせる方向へ(患者も治療者も)動いてきているのは事実である。だから、今までのように「無意識の意識化」と叫ばなくなったと思う。やはり、力の入った治療にこそ、「無意識の意識化」という言葉が相応しい。

 

 *「精神分析的根治療法:様々な精神科治療の専門性ランキング」を参照

 

                   心的現象に関する概念(2)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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