心の機微を作り出す精神力動

 人格傾向や症状形成に先んじて、心は微妙な変化を綴りながら動き続けている。その心の機微とでもいうべき内容にはどういうものがあり、それはどういうメカニズムで生じているのか、知っておいた方が自分の心の現状を知る上で重要であると思う。そこで、ここでは誰にとっても起こり得る身近な心性の発生メカニズムについて言及する。

 a. 知ることの精神力動

 1. わからないこと

 はじめは、何事もわからないところからスタートする。何かの話し合いや、何かの報道によって、少しずつ情報を得、知ろうとすることの輪郭を鮮明にしていく。すぐには理解することができなくても、聞いたことのない言葉を丹念に調べていくうちに、その情報が伝えようとしている事の全体を掴むことができるようになる。そして、ある程度、合点のいく所まで辿り着けると、今度はその情報に関する自分なりの評価をする。はたして興味深い内容か、それとも退屈な内容か? いずれの場合であれ、しばらく考え続けたり、あるいは、その情報の余韻を感じたりしていれば、その情報がそれ以上、あまり詮索しなくてもよい類のものなのか、それとも、何だかチグハグで、すぐに矛盾を感じざるを得ないような内容なのか、はっきりしてくる。その理由は、伝えられた情報の事実にあるのか、それともそれを伝えようとしているレポーターの解釈によるものか、いろいろあると考えられる。

 2. 辻褄が合わないこと

 わからないことについて、いろいろ調べたり、学んだりするようになると、比較的容易に理解することができる場合もあれば、ずいぶんと複雑な場合もあったりして、特にあれやこれやと複数の見方が必要だという場合では、どうしても合点のいかない場合も多い。いくつか例を挙げてみよう。たとえば精神分析に関する内容であれば、実際に多くの人が見る夢は不快な性質のものが多いのに、フロイトは「夢は願望充足である」と言った。これは、明らかに矛盾している。また、最近では世界中が「コロナ社会」に陥り、わけのわからない事件が無数に発生している。しかも、私の住む日本は、米中関係に翻弄されつつある。なぜならば、日本の防衛はアメリカ軍に依存しつつ、経済的には親中派が多く、日本の民主主義とは相容れない中共のあり方を容認している人が、政界にも財界にも大勢いる。このように、日米関係、日中関係はいずれも矛盾だらけであるが、問うても仕方のない場合が多い。

 3. こだわってしまうこと

 辻褄の合わないことに対する心のあり方は大切である。私は精神医学や精神分析に40年以上も携わってきているので、この業界の不明瞭な部分や矛盾を孕んでいる点は、だいたいわかっているつもりである。しかし、社会には地球規模で、改め難い「悪」が存在し、それが次第に人類のすべてを覆い尽くしてしまいそうな勢いである。むろん、この「悪」は人間の狂気に根差しているが、その制止が次第に難しくなってきている。だから、今はこの点に強くこだわらなければ、人類の先は見えてこないように思われる。我々の生活の道具としての人工知能AIだけではなく、我々の精神の規範としての人工精神AMの創発にこだわる理由がここにある。ただし、心の外にある課題は四次元の世界の現象であるのに対して、心の中にある課題は五次元の世界の現象であるから、四次元の世界での解決が難しい場合には、こだわらないという、もう一次元を加えた心の次元で、当面の課題をうっちゃってしまうこともできる。

 b. 過ごすことの精神力動

 1. 気分

 生活の中でも、ひとつの節目である起床時や帰宅時などに、最も大きな影響を与えるのは、気分である。すでに紹介している情動制御システムは、終日、機能し続けている。起きている時に機能する情を感情、眠っている時に機能する情を情動と、両者を区別する。ちなみに、気分は「意識が捉える情動因子の性質」に拠る。すると、感情と気分の違いが問題になる。感情の場合は、比較的容易にその性質を特定することができるのに対して、気分の場合は、その同定が困難な場合が多く、良いと悪いだけに区別される。この違いは、活性化している情動因子に干渉する知覚系や思考系などの他の脳機能の程度による。つまり、鮮明な感情の場合では、他の脳機能の干渉が少なく、曖昧な気分の場合では、他の脳機能の干渉が多い。なお、感情障害と表現する場合は、ある特定の情動因子への固執が激しいという意味であり、気分障害と表現する場合には、ある特定の情動因子の同定が困難であるという意味である。

         「情動の構造と機能」参照

 2. 習慣

 どのような日常であれ、その日のうちにやらなければならないことは、幾つもある。それを、いかに円滑に片づけるか? たとえ忙しい一日であっても、その日の段取りを手際よくこなし、それが終われば、一時の楽しみと安らぎを得、それを糧に翌日も頑張ろうと思うのは、誰も同じであろう。ところが、何か異変が生ずると、その時点から、いつもの習慣性、つまり日頃の常同的、かつ強迫的なリズムが崩れ、その日が台無しになってしまう。いつもは、省エネとしての情動排除型自我意識で運営しようと思っていても、作業の停止や延長を強いられると、習慣性は止まってしまい、改めて(情動含有型自我意識の中の)防衛型自我意識を賦活し、常同的、かつ強迫的なリズムを引き戻さなければならない。そのエネルギーが膨大ゆえに、つまりその際には必ず何らかの不快を処理(防衛)しなければならないので、多くの人は日常の習慣性の中断を好まず、できればそうした事態を避けたいと思うのである。

 3. 自慰

 習慣の中にある一時の安息。たいがい、それは家族の団欒を意味するが、最近は年齢を問わず、独居する人が増えているので、その習慣性の特性である自慰が重要な要素になってきている。つまり、独居では、自慰こそ宝である。自慰という表現に違和感を禁じ得ないという人もいるかと思うが、この表現は非常に多くの身体および精神活動と、それらの精神力動を包含している。たとえば、独居が与える自由から寂しさまで。ペットとの生活や、ゲームを楽しむひきこもり。好き放題な休暇の過ごし方。一人で話し、一人で泣き、一人で笑う。誰にも遠慮なく、様々な感情を楽しむことができる。ところで、自慰は必ずしも病的ではない。なぜならば、自己不快因子は自己防衛因子だけを活性化するのではなく、不快因子同士の連動性を利用すれば、それに連れて自己制御因子も活性化するからである。むろん、その人の自慰を奏でる人格が健全か、それとも病的かという前提によって、その内容に違いが生ずるのは言うまでもない。

 c. 耐えることの精神力動

 1. 忍耐の発生メカニズム

 耐えることの第一義的な発生メカニズムは、謝罪的自己の活性化である。謝罪的自己は謝罪的対象を取り入れ、それに同一化して形成されるが、そのようにして形成された謝罪的自己であっても、謝罪的対象を活性化することはない。謝罪的自己は攻撃系情動制御システム内で、反撃的自己と相互刺激性を有し、反撃的自己以外の情動因子との連動性はなく、もし謝罪的自己が活性化すれば、刺激伝達はそこで一旦停止する。他方、謝罪的自己と相互刺激性を有する反撃的自己は、謝罪的自己の他にも誇大的自己や悪い自己を刺激する。反撃的自己が不快の快変換ルートを通して誇大的自己を活性化すると、心的状況は安定しやすいが、悪い自己への刺激伝達は、攻撃系だけではなく、脆弱系も含めて、情動制御システム全体に影響するので、心的状況は不安定になりやすい。これに対して、反撃的自己が謝罪的自己を活性化し続けると、刺激は謝罪的自己で停止し続けるので、耐える心性が育まれることになる。

 2. 耐えられない思い

 最も典型的な二つの例は、恐怖心による耐えられなさと、屈辱感による耐えられなさである。前者では、たとえば夜になると、誰かに襲われそうな思いがして、一人でいられないという類の耐えられなさであり、後者では、たとえばネットで中傷の的になり、屈辱感に耐えられないという類の耐えられなさである。前者の精神力動では「悪い対象→反撃的自己⇔謝罪的自己」よりも、「悪い対象→処罰的対象」が圧倒的に強く活性化されることによる。また、後者の精神力動では「弱い対象→誇大的自己」よりも、「弱い対象→誇大的対象→悪い対象」が圧倒的に強く活性化されることによる。このような、いわば禁止と義務を特徴とした、強い外的な圧力がかかり続けると、不快の逆転送ルートや自責回路が活性化し、やがてその破壊的攻撃性は、脆弱系情動制御システムをかく乱する。つまり、耐えられなさが講ずると、弱い自己や弱い対象も攻撃されるようになり、様々な依存症やうつ病の発生を招きやすくなる。

 3. 苦痛のない忍耐

 情動制御システムが激しく動かなければ、つまり、比較的穏やかな思いが続いている時には、反撃的自己が謝罪的自己を刺激し続けるので、苦痛のない忍耐が継続している精神状態である。その精神に気負いはなく、慎ましい思いがある。ちなみに、欧米社会では、このようなメカニズムによって生ずる忍耐を、自虐性とか「日本人のマゾヒズム」という風に誤解する傾向がある。しかし、これは明らかに間違っている。彼らは、「許し」が反撃と謝罪(批判と忍耐)によって構成されていることを知らず、それゆえ、忍耐力が発生するメカニズムも知らない。ところで、苦痛のない忍耐は「待つ」という現実をつらいものにしない。また、和解や妥協も「許し」の精神力動が働くことによって生ずる現象である。すべての人にとって、脆弱系制御システムでは誇大的自己が、攻撃系制御システムでは謝罪的自己が活性化し続ければ、最も安定した崇高な精神状態、つまり、人格構造の第七段階である「超制御状態」に到ることができる。

 d. 考えたり、思ったりすることの精神力動

 1. いつも思うこと

 人によって、いつも思うことは様々であろうが、すでに紹介した気分や習慣が、当然、考えたり思ったりすることへの内容や手順に大きな影響を与える。いま話していることを、もう少し専門的に言い換えると、「無意識←前意識←意識←無意識」を循環する「解離サイクル」によって運ばれる不快因子と、「無意識→前意識→意識→無意識」を循環する「防衛サイクル」によって運ばれる防衛因子が、意識領域で出会う。つまり、不快―防衛系は、無意識から意識への不快因子の侵襲と、無意識から前意識を経由して意識に現れる防衛因子との衝突によって発生する。ただし、生活に必要な内容や手順などの多くは、すでに前意識に存在するので、意識と前意識が極めて密接に関係し、その時の気分を基調とした生活の過ごし方を具現化する。むろん、何らかの作業が進んでいる状況であっても、意識はそれを前意識の自動的な再生能力に委託しながら、上記の二つのサイクルを利用し、別のことも思い、考える。

         *「フロイト修正論」参照

 2. いろいろ思うと、深みに嵌る

 無意識から前意識へ湧出してくる防衛因子が、快表象である理想的自己や処罰的自己であれば、たとえ何らかの不快が意識を襲っても、その不快は理想的自己や処罰的自己によって防衛されるので、意識はむしろ快適な気分を作り出す。しかも、その性質は完璧かつ残酷であり、自己はそれを躁的防衛として楽しむ。そうした基調を背景に、前意識では様々な内容が賦活し、それぞれが順に、あるいは徒然に意識化されていく。そして、それらのプロセスの中で、何らかの気づきがあれば、意識も継続して関与し、覚醒度も高くなる。ところが、時々、無意識から前意識へ(対象防衛因子である)誇大的対象や処罰的対象が湧出し、意識のちょっとした油断の隙に、それらが意識領域に侵入した不快因子の防衛を試みようとする。すると、不意を突かれた意識は、嫌悪や自責を感じざるを得なくなる。むろん、これらは意図的に作り出される思いではなく、ほとんど自然に流れていく自由連想の結果の内容である。

 3. 不意に思い出し、辛くなること

 上記のようにして、日常的な思いを辿っていくうちに、つまり自分で自由連想を楽しんでいるうちに、たとえば過去のある時点での記憶が蘇り、その記憶に付随した嫌な思いが一挙に噴出するといった心的状況を体験する読者も多かろう。むろん、これは「自由な思考」の一種ではあるが、不快な体験ゆえ、その連想の評価と自己分析を欠かさない方がよい。また、時には、無意識から意識に飛び出してくる強烈な不快因子に、(意識領域での)防衛因子の対峙が遅れ、情動失禁を起こしてしまう場合がある。つまり、突然、泣き出したり、怒り出したりする場合がある。情動失禁こそ解離であり、本来、防衛がそれに対峙する。ちなみに、心の健康な人の場合、激しい情動失禁、つまり解離は生じ難い。なぜならば、すでに前意識に制御因子が存在し、それが機能するので、たとえ完全に不快因子を拘束することができなくても、意識に浮上し続ける不快因子の強度は低下しているので、言語表出で済ますことができる。

 e. 行なうことの精神力動

 1. 行ないの動機とその評価

 行ないについては、すでに当サイトの中で紹介している内容があるので、先ずそれを読んでもらいたい。行ないの動機については「動機理論」の中の「動機の発生メカニズム」の中で紹介した(意志の発動機関である)「孤独型誇大的自己」の機能について知る必要がある。そこへ様々な刺激、つまり健全な行動や病的な行動を起こすための刺激が集合する。換言すれば、行ないは情動制御システムが作り出す主体性と、ストレスの影響を受ける日常心理によって形成される。ちなみに、我々生命体は多くの身体的欲求を充足させなければならないという事情を抱えているので、それをいかに日課として構成するかという点が最も肝心だが、その際にも(上記の)習慣と自慰を保有させることによって、身体的な欲求を精神的な不快として解消していくための行ないが求められる。たとえ身体的な欲求が消え失せても、精神的な不快が残るようでは、行ないの目的は達成されないということになってしまう。

     *「動機理論」参照

     *「新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)参照

 2. 行なわない理由

 行なわない理由は様々である。最もありふれた理由は、能力的に困難な場合である。また、たとえ能力的に可能であっても、何らかの義務や禁止が課せられていたり、行なう時期やタイミングの条件があったりして、行なわない場合がある。多くの場合、やむを得ない事情があるのだろうが、例外もある。それは積極的に行なわない場合である。今まで繰り返し行なってきて、もう繰り返さなくても、どういうプロセスが生じ、どういう結果になるか、わかり切っているので、それをする必要がなくなってしまった。むろん、それがビジネスであり、繰り返しが収益につながるという場合は別だが、そうでなければ、通常、無駄を避けるのだ一般的である。また、たとえ日課であっても、行なわない場合がある。無気力や離人感など病的な場合もあるが、超制御状態(さとり)がそうである。さとりでは、誇大的自己と謝罪的自己の活性化が顕著なので、一時的に心の動きが止まり、行ないも止まる。

 3. 行ない続ける状況

 何か身体的に問題が生じているわけでもなく、さりとて、何か精神的に気落ちしているわけでもないのに、行なうこと、つまり生きることに、さほど懸命な思いを抱くことができなくなってしまうという身体的・精神的状況がある。もう少し主観的な言葉で表現すると、「死にたいわけでもないが、生きたいわけでもない」という思いである。それまでの人生で、ほとんどすべてのことをやり尽くし、今もなおその過去が未来に続いていくことを思うと、「さあ、これからの人生を楽しみましょう! 」というような軽快な掛け声に、かえって重苦しさを感じてしまう。今まで楽しみがなかったわけではなく、今までの楽しみとよく似たような楽しみを繰り返して、本当に感動し喜べるのだろうかという思いが込み上げる。このような思いが込み上げるということは、何か満たされない思いがあるというよりも、むしろ何もかもが満たされ過ぎて、もはや十分であるという思いの方が強いように思われる。

 心の機微とは生きることそのものである。表に出ることのない発生メカニズムによって、その時々の心の流れが生じてくる。その心の流れに気を配る理由は、その流れが自分の心のあり方に相応しいかどうかについて、絶えず吟味を迫られるからである。おそらく、そんな吟味を迫られる人はほとんどいないだろうが、私の場合は生きる自分がその吟味を迫るので、それを続けることが生きることであると感じている。




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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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