苦しみのないところに無知はなく、また能力のないところにも無知はない。もし読者がいわゆる普通の知能を持った一般健康人であれば、苦しみもすれば、考えもするだろう。その際に、苦しみについて考え、納得のいく結論を引き出せる時には、必ず主体的な自分がいるはずである。そして、その主体性が「救いの環」や「許しの環」によって支持されていれば、意志の発動機関である「孤独型」誇大的自己が活性化し、苦しみの解決に向けて動き出すことが可能である。ところが、たとえ主体的な自分になって、何らかの動きを見せても、それが「救いの環」や「許しの環」によって支持されていなければ、自分の言動が「無知」から発生していることに、十分気づいていない場合が多い。(主体的であっても、同時に無知であるという)その特徴的な心性については、「さとりから見た日常心理」の中で取り上げた「うぬぼれとお節介」が挙げられる。むろん、情動制御を基盤としない諸々の心性は「無知」から発生するので、それらにこの二つを付け加えたすべての心性は無知から発生するということになる。(「無知」という言葉を体裁よく「無意識」などと表現する人は、心の真実を知らない人である。)

  ところで、患者の家族をはじめとして、精神科医療に携わっている人達の中で、はたして「私は無知ではありません!」と、断言できる人はどれだけいるだろうか?もっとも、患者の家族が無知で覆われていなければ、自分の家族から精神障害者など出すはずはない。また、無知に気づく医療従事者であれば、たとえば「病気と仲良くしよう」などといった偽善のキャンペーンを作成することはしないだろうし、「薬物信仰」に溺れた「処方依存者」に成り下がることもないだろう。一般に、精神障害者と接触する場合、その関係する人が上記した無知に気づいていなければ、その接触の多くは破壊的に貢献するだけである。しかし、たとえこうした事情があっても、精神障害者の家族は患者を見捨てることはできないし、精神科医療従事者はいつもと変わらぬ姿勢でもって対応しなければならない。こんなに悲劇的であるにもかかわらず、誰もがいつも通り、同じパターンを繰り返しているのである。確かに、変えがたい体制であるという点を踏まえなければならないが、少なくとも関係者は自分達の無知についてよく考えるべきである。いかに自分が破壊的な心性のままに人と関わってきているか、その無知の理由を知るべきである。体制を変えるためには、ひとりひとりが自分の無知に気づいていく他に方法はない。

              新しい心の分析教室:精神科教育の課題(1)  

  今、私は民間病院に勤めているが、その同僚である精神科医が、私に次のように言った。「精神科医療の実態を見る限り、先生の研究とはあまり接点がないので、先生の仕事は十年も二十年も早過ぎたのではありませんか?」と。確かに、その通りかも知れない。しかし、私の医学全体に関する大局観によると、これから「再生医療」の時代に入り、様々な身体的慢性疾患は「治癒」の時代に入りつつあるのではないか?もちろん、私の研究もそうした時代の流れを反映しており、再生医療の進歩と並行して、機能性精神疾患、特にその中でも重症人格障害や精神病の「治癒」の時代を準備したいと考えている。身体疾患の再生医療にしても、精神疾患の根治療法にしても、先ずは今までのような「維持」をモットーとする医療のあり方に疑問を抱き、次に全く次元の異なる新たな発想を持ち、さらにそうした新しい考えを方法論として提示しなければならない。すでに私はそうしたプロセスを踏んで、精神分析統合理論を作り上げたわけであるが、このページでは、これから「治癒」をめざそうとする人達に対して、感じ方や考え方の手順について少し解説しておくことにする。

  再生医療であれば、たとえば自分の万能細胞を用いて新しい臓器を作り出し、障害のある臓器と交換すれば、それが治癒を意味することは疑う余地がない。しかし、我々の心の母体である脳の交換は不可能である。脳梗塞や脳出血、それに認知症などの場合は、そうした病巣のある局部に対して、どれだけ治療が可能であるか?という場合においても、再生医療が可能かも知れない。しかし、それは脳全体の交換を意味するものではない。他方、重症人格障害や精神病のような機能性精神疾患の場合では、脳の局所的な損傷が原因ではなく、あくまでも環境を中心として構築される、脳内の刺激伝達経路に問題がある。つまり、正常な伝達経路と異常な伝達経路が存在する。これら両者の伝達経路の使用頻度、つまりその割合によって、心の正常と異常とが分かれてくる。したがって、機能性精神疾患では、あくまでも脳内の刺激伝達経路を変えることが、その「治癒」を意味する。こうした脳内の事情をしっかり理解することが、治癒をめざす上での第一歩である。その点、向精神薬は治癒に対して全く無効である。向精神薬は、伝達経路の途中における伝達物質の増減に貢献するが、どの伝達経路が使用されているのか?という点では選択性がない。つまり、向精神薬は「維持」のモットーである「鎮静化」に貢献するだけのものである。

              新しい心の分析教室:精神科教育の課題(1)

  一般に、精神科医が受診(入院)する患者と話した場合、たとえそれがどういう性質のものであっても、その時には精神療法が行なわれたということになる。それが五分以上であり、診療録(カルテ)に数行記載されれば、通院(入院)精神療法として保険請求ができる。今、私が精神療法について取り上げようとしている理由は、まさにそういう形(名)ばかりの、ちょっとした話し合いが通常の精神療法であると思われている、その常識を問題にしたいからである。確かに、同じ話し合いをしても、素人はもちろんのこと、様々なカウンセラーよりも、むしろ精神科医の方が、より多くの知識や経験を持ち合わせているので、その判断や指示などもまた、より専門的なものであるとする認識は正しいかも知れない。しかし、その精神療法がどれほど「疾病の治癒」に貢献するか?という問いを発すると、その答えは極めて不明瞭である。大概の精神療法では、「とりあえず、私は〇〇の方がよいと思いますので、そのような方向で・・・」という指示がなされ、患者やその関係者は精神科医の指示に従うのが通例である。その上で、その後の経過を追っていくことになるが、担当している精神科医がしっかりとした「治癒へのシナリオ」を持っているわけではない。

  一般に、精神科医が使用する権限や技術は、その診断能力や処方能力にある。ただし、診断に関しても、処方に関しても、すでに詳細なマニュアルが存在するので、研修時に先輩から教わったやり方で、受診する患者に該当する診断内容や処方内容を選択すればよい。しかし、受診する患者の心性について、精神科医がどれだけの理解を得たか?と尋ねると、ほとんどの場合、通り一遍のものばかりである。たとえば、問診の仕方ひとつを例にとってみても、研修時代に「見まね、聴きまね」したものを、そのままずっと続けるのである。患者の苦しみがどういう性質のものであり、それを知った精神科医にどういう気持ちが起こり、二人の間にどういう心の通いが生じたか?などという実質的な精神療法はほとんど存在しない。だから、もし患者やその関係者が今後のことについて尋ねると、精神科医はそうした実質的な内容を回避し、すぐに現実的な対応に走ろうとする。それが診断書の発行であったり、薬物信仰に基づく処方箋の発行であったりするのである。本来、精神療法の中で展開する治療関係は、様々な症状群を解消したり、歪んだ人格傾向を是正したりする力を持つ。しかし、多くの精神科医は、心の内部を観察し、それに対応する能力、つまり精神療法の基礎を身につけてはいない。むろん、患者の方もまた、そうした事情を薄々感じてはいるものの、面と向かって不満をぶつける場合は少ないようである。

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  いかなる精神療法においても、以下に述べる二つの内容が含まれている。ひとつは、いま発生している症状群に対する対症療法的な側面である。たとえば、不安や抑うつなどの性質を理解することによって、それを解消するための示唆や薬物を提供するやり方である。そして、もうひとつは、そうした不安や抑うつが、患者のどういう感じ方や考え方、つまりどういう人格傾向によって発生してきているか?について、より深く理解し、その根源を明かしていくやり方である。ひとつ目の示唆や薬物の提供という程度のものであれば、さほどの技術や能力を必要とはしない。ところが、ふたつ目の患者の悩みをその根源にさかのぼって理解し、患者にも理解を促すという程度のものになってくると、どうしてもそれなりの技術や能力が要求される。なぜならば、そうした内面についての理解は、患者の生き方に対する情報の分析だけではなく、その患者と接触した時の医療側の、感じたり考えたりする情報の分析も必要になるからである。つまり、患者と医療側との接触によって発生する、いわゆる専門的な対人関係の中から、医療側が疑問や不快を感ずる患者の問題を理解し、その理解を患者と共有する必要があるが、その際に、医療側に発生する疑問や不快が医療側に原因があってはいけないので、それをうまく排除できるような、医療側を支える実践的な方法論が必要になってくる。その点、最も洗練されているのは、精神分析理論である。

  ところで、アメリカの精神医学においては、公認の精神分析家が多数活躍している。公認の精神分析家になるためには、大変な研修を義務付けられているから、そう簡単になれるわけではない。むろん、そのためには、自分も治療を受けて、精神的に健康であることが認定されなければならない。(アメリカにおける、一般の精神科医の研修にも、精神分析は含まれている。)これに対して、日本の場合、制度がないので、まず公認の精神分析家は存在しない。次に、自分の治療を受ける精神科医は、極めて少ない。つまり、精神的に健康であると認定された精神科医が存在しないので、上記した精神療法のふたつ目の内容が扱えないのである。こうした前提があるにもかかわらず、日本の精神科医は最も洗練されている精神分析を「特殊な」そして「すたれた」治療法であると決めつけている。しかし、その決めつけは独断と偏見以外の何物でもない。おそらく、あまり勉強したくない精神科医が、そして自分の問題に直面したくない精神科医が多いせいであろう。おまけに、たとえ勉強しても、それは向精神薬に関するものがひどく多い。私から見れば、認知療法や行動療法こそ、精神医学の「特殊な」領域である。しかも、それらは精神分析ほど内面的な治療関係を扱わない。否、扱えない。それにもかかわらず、まるでアメリカの流行に追随するかのように、安易な方法に飛びつく傾向がある。しかし、アメリカでは、毎年、優秀な精神分析家が世に送り出されている。そうした現状を、どれだけの人が知っているだろうか?すでに、私はフロイトやフロイト以降の研究を超えて、精神分析統合理論を作ったのだから、それに関心を抱かない日本の精神科医は、どんな心性の持ち主なのだろうか? 

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  一連の精神分析統合理論では、さとり(悟り、覚り)について言及している。さとって、安穏を獲得するためには、エロス期やタナトス期、それにロゴス期を体験しなければならない。もし読者が安穏に到れば、とらわれ(こだわり)のない心の達成を実感することができる。ただし、さとってもなお、我々は生き続けるので、その時の心のあり方が大事である。つまり、生きていれば苦しみは生じてくる。その苦しみをひとつひとつ吟味し、無化していく努力がいつも要求される。しかし、その際に重要なのは、その無化を意義ある方向へ押し出すことができるかどうか?である。その押し出す力こそ、「希望」である。

  希望とは、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)の作成を意味する。かつて我々の心が健康になる際には、様々な環境、つまり両親や先輩、それに治療者などから、情動制御に必要な対象制御因子(と対象制御補助因子)をもらった。そこで、今度は自分が親になり、先輩になり、治療者になって、対象制御因子(と対象制御補助因子)として活躍しようと思うのが当然である。しかし、そうした思いから、直接、希望を抱けるようになるか?と言えば、必ずしもそうではない。希望は、あくまでも自分にとって、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)が必要であるという思いから発生する。つまり、その際には、自分の子供や後輩、それに患者などが、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)になる。そうした新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)を作っていく営みから、希望は発生する。したがって、安穏と忍耐こそ、希望の発生母体である。

  ところで、日本の精神医学に希望はあるか?と問うた時、読者はどういう思いを抱くだろうか?日本の精神医学の現状を見る限り、未だ「健康な人を育てる」とか「健康な人に治す」という思いは乏しいようである。なぜならば、その根底には精神科医自身の、自らの精神状態への関心と自覚の低さが横たわっているからである。そういう精神科医が多いからこそ、安易な薬物信仰と維持療法を重んじる。そうした状況の中で、タレント性やカリスマ性を持つ一部の精神科医だけが脚光を浴びる。しかし、彼らもまた秩序ある方法論を持っているかどうか疑わしく、具体的な希望を提示できるほどの能力を持ち合わせてはいない。真の希望は、自らがさとり、安穏と忍耐の中にあって、はじめて芽生えるものである。いつ、そうした精神科医が増えてくるか?現状においては、まだ認知症老人の数が多く、それゆえにこの業界の目立った衰退は見られない。しかし、これからは老人の数も減り、それと共に精神病院も朽ちていく。そうした時が訪れれば、当然、精神科医も自分の将来について心配しなければならなくなる。はたして、その時に、どれだけ自らを問い、研鑽を積もうとする精神科医が出てくるか?心の苦しみについて、そして心の仕組みについて、真剣に学ぼうとする精神科医が多くなってこなければ、病める日本の精神的現状についての変革は難しい。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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