一連の精神分析統合理論では、さとり(悟り、覚り)について言及している。さとって、安穏を獲得するためには、エロス期やタナトス期、それにロゴス期を体験しなければならない。もし読者が安穏に到れば、とらわれ(こだわり)のない心の達成を実感することができる。ただし、さとってもなお、我々は生き続けるので、その時の心のあり方が大事である。つまり、生きていれば苦しみは生じてくる。その苦しみをひとつひとつ吟味し、無化していく努力がいつも要求される。しかし、その際に重要なのは、その無化を意義ある方向へ押し出すことができるかどうか?である。その押し出す力こそ、「希望」である。

  希望とは、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)の作成を意味する。かつて我々の心が健康になる際には、様々な環境、つまり両親や先輩、それに治療者などから、情動制御に必要な対象制御因子(と対象制御補助因子)をもらった。そこで、今度は自分が親になり、先輩になり、治療者になって、対象制御因子(と対象制御補助因子)として活躍しようと思うのが当然である。しかし、そうした思いから、直接、希望を抱けるようになるか?と言えば、必ずしもそうではない。希望は、あくまでも自分にとって、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)が必要であるという思いから発生する。つまり、その際には、自分の子供や後輩、それに患者などが、新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)になる。そうした新しい対象制御因子(と対象制御補助因子)を作っていく営みから、希望は発生する。したがって、安穏と忍耐こそ、希望の発生母体である。

  ところで、日本の精神医学に希望はあるか?と問うた時、読者はどういう思いを抱くだろうか?日本の精神医学の現状を見る限り、未だ「健康な人を育てる」とか「健康な人に治す」という思いは乏しいようである。なぜならば、その根底には精神科医自身の、自らの精神状態への関心と自覚の低さが横たわっているからである。そういう精神科医が多いからこそ、安易な薬物信仰と維持療法を重んじる。そうした状況の中で、タレント性やカリスマ性を持つ一部の精神科医だけが脚光を浴びる。しかし、彼らもまた秩序ある方法論を持っているかどうか疑わしく、具体的な希望を提示できるほどの能力を持ち合わせてはいない。真の希望は、自らがさとり、安穏と忍耐の中にあって、はじめて芽生えるものである。いつ、そうした精神科医が増えてくるか?現状においては、まだ認知症老人の数が多く、それゆえにこの業界の目立った衰退は見られない。しかし、これからは老人の数も減り、それと共に精神病院も朽ちていく。そうした時が訪れれば、当然、精神科医も自分の将来について心配しなければならなくなる。はたして、その時に、どれだけ自らを問い、研鑽を積もうとする精神科医が出てくるか?心の苦しみについて、そして心の仕組みについて、真剣に学ぼうとする精神科医が多くなってこなければ、病める日本の精神的現状についての変革は難しい。

              新しい心の分析教室:精神科教育の課題(1)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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