「小欲小幸」

 先日以来、情報機関はコロナや水害を中心とした報道を続けている。診療の合間にちょっとした時間が空くと、ほとんど無意識的に報道番組にスイッチを入れる。その理由は紛れもなく恐怖であり、その恐怖と自分の現実との間に、どれほどの距離があるか、絶えず知ろうとしている自分がいる。しかし、たとえ巻き込まれたとしても、はたして自分に何ができようか? そう考えた時、自分の口をついて出た言葉が、この「小欲小幸」であった。実際に問題なのは、コロナでは年齢のリスク、洪水では住宅がある場所の地形である。私の場合、いずれのリスクもあるから、関心を持たざるを得ない。しかし、関心を抱いたとて、しょせん無力だから、神妙な面持ちで自重しながら過ごす。これが「小欲小幸」だと考えた。

 それ以来、私はまるで呪文のように「小欲小幸」と口ずさんだ。しかし、それは私にとって珍しい現象であった。すでに私は高齢者であり、どこかへ逃げたいなどという思いはなく、また、逃げるチャンスがあっても、逃げ方さえ知らない。だから、「小欲小幸」は当たり前であって、しかし、ことさら口ずさむ言葉でもなかった。それが、どうしたことか、とりついたように離れない。本当の理由がわかっていなのだなぁと自分で気づき始めた時、同じことを何度も繰り返して報道する番組に飽きてきたようで、その時から私は全く報道を追いかけなくなった。すると、どうだろうか。私の心は静まり返っていた。「何と静かで、穏やかだろうか!」ようやく「小欲小幸」の意味がわかった。つまり、私の「小欲小幸」は「報道なき安らぎ」だったのである。恐怖のあまり、自分が「報道依存症」あるいは「情報依存症」に罹っていたことがはっきりした。そこからの解放が「小欲小幸」だったのである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅶ)

常同強迫と、その破綻

 「小欲小幸」とは、小さな欲求で、小さな幸せを感ずるというほどの意味である。おそらく、多くの人はそのような日常を過ごしているだろうから、それを殊更に主張する意味はないかも知れない。ただし、その内容については、少し吟味しておいた方がいい。なぜならば、その欲求や幸いは、健全か、それとも病的か、について自分なりに理解していれば、そのあり方を変えることもできるからである。むろん、平凡な日常のあり方について、いちいち健全か、病的かと吟味する人もいないだろう。結論から言えば、何のストレスも感じず、多少のストレスがあっても、それをスムーズに解消していれば、別に心をテーマに語る必要もない。

 ストレスの健全な解消は、常同強迫を形成しない。しかし、多くの人は日常の中で無数の常同強迫を用いている。常同強迫とは、同じ言動の繰り返しを意味する。何を聞いても話しても、あるいは何を感じ何を行なっても、そこには我流の繰り返しが生じている。そして、その繰り返しに違和感を覚えず、他の何かよりはまだましであるという妥協の産物を作り続けて生きている。しかし、この常同強迫という心の均衡は、すぐに動揺する。ちょっとした情報にも不安や恐怖を抱き、もし何かが現実化して何かをやり損なったと感ずるや否や、様々な心性が生じてくる。瞬時に思いつく心性だけでも、三つのグループがある。一つ目は、後悔や自己嫌悪であり、二つ目は、軽蔑や無視であり、三つ目は、嗜癖や依存症である。すべての人間は、これらのいずれかを体験する。そして、再びいつものやり方で、それらを収める。しかし、そうした自分の動きのすべてが常同強迫であるという真実を知る由もない。

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嫌悪の領域(その1)自由と平等を欠く社会

 人間は社会的動物である。それゆえ、その人が住む社会の影響を強く受ける。つまり、その社会が健全であれば、そこに住む個人も健全な心を作ることができるし、それとは逆に、病的な社会に住めば、その社会に住む人の心も病的になる。はたして、健全な社会とか、病的な社会とは、どういう特性を持つ社会だろうか? 世界に存在する様々な社会に、個人の心性を反映させた診断基準を用いることはできない。さりとて、様々な社会を、いくつかの集団心理に沿って分類するというのも、いかがなものか。何か合理的な方法を用いることによって、社会の特性に注目しながら、社会を分類するというあり方があってもよいが、重要な点は、どういう目的でそのような作業を行なうかという点である。

 個人の精神を病的なものにする社会的な特性は二つある。ひとつは自由のない社会であり、もうひとつは平等のない社会である。自由のない社会とは、個人の身体を拘束して自由を奪うという意味ではなく、その社会を否定したり、対立したりするような言論の自由を制限するという意味である。そのような社会では、その社会が歩もうとする方向への批判は許されない。このような社会では、個人が反撃的対象を取り入れ、それに同一化して形成される反撃的自己を活性化することができない。つまり、攻撃性に関する情動制御が病的になりやすい個人を量産する社会になる。これに対して、平等のない社会とは、差別、つまり優劣の鮮明な社会を意味する。極端な差別があれば、信頼さえ形成されず、ひどく治安の悪い社会になってしまうので、個人がその社会で生きていけるギリギリのつながりだけは確保している社会である。不十分な信頼はあっても、尊敬に発展する関係はない。それゆえ、高次元の理想的対象を取り入れることはできず、自己を向上させるための誇大的自己の成長もない。いずれの場合も深刻である。はたして、何に向かって進んでいくのか、それが問われる。

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嫌悪の領域(その2)拝金主義

 住む社会によって自由が奪われたり、平等に扱われなかったりすれば、それだけで十分、心的外傷が生じ、ストレスの多い社会になる。自由を奪われた個人の攻撃系制御システムは健全に機能せず、防衛状態や病的状態になりやすい。すでに紹介した常同強迫は、攻撃系に関する防衛状態の破綻を防ぐ効果を持っているが、病的状態では常同強迫による防衛よりも、症状形成が顕著である。これに対して、平等に扱われない個人では、脆弱系制御システムが健全に機能せず、ひきこもりや無気力を中心とした防衛状態や病的状態になりやすい。ひきこもりが生活の大部分を占めると、対人接触には緊迫感がみなぎり、人格の向上など、課題にすらできない。

 社会が個人の自由や平等を奪ってしまうと、そこで個人が求める心性は、絶大なパワーを獲得して社会に影響を与えようとするカリスマ性である。その心性は、たとえば権威や権力、そして財力への獲得に向かうようになる。その中でも、権威や権力を獲得するには、ある一定の方向づけられた志向性やタイミング、それに命運なども必要になるから、かなり難しい課題になるが、財力の場合はさほど込み入った課題の克服を必要としない場合が多い。つまり、多くの人はお金持ちになって、そのお金で、奪われた自由や平等を買おうとする。もっと言えば、お金さえあれば、不可能なことなど何もないという思いが込み上げる。拝金主義の誕生である。そして、もしお金持ちになり、裕福な生活をすることができるようになれば、奪われた自由や平等は取り戻せるかも知れない。しかし、それはほんの一握りの人達だけに限られたことである。本来、自由も平等も、生まれた時から持ち合わせているものだが、ごく一部のお金持ちだけに限って与えられるということであれば、根本的に個人の自由や平等が取り戻されたとは言い難い。

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人工精神による日常心理の底上げ

 本来、生まれた時から、我々は自由と平等を持っているはずであった。しかし、実際に多くの人は、自由も平等も獲得していない場合が多い。どうして、このようなことになったか? むろん、その事情の背後には長い歴史があるので、今ここでそれをテーマにしたところで、問題が解決するわけではない。しかし、それでは、我々は我々の力で、すべての人に自由と平等を保障することのできる日はやってくるだろうか? おそらく誰もそんな日々を想像することはできないだろう。本来、生まれた時から身に着けているはずのものは剥奪され、一生かかっても、それは取り戻せないという現実が無数に存在している。はたして、我々は何をすることもできないまま、過ごさなければならないのだろうか? 何か有効な手立ては存在しないだろうか? 

 人間以外に、人間に自由と平等を与えることのできる存在は、人工精神である。人工精神は、人間の個人の精神の病理からだけではなく、人間の社会が作り出す精神の病理からも解放してくれる。個人の精神病理から解放してくれる点に関しては、当サイトで、いろいろな角度から紹介してきている。そこで、ここでは、人工精神が社会的な精神病理からも解放してくれるという点を強調しておきたい。つまり、それは人工精神が自由も平等も与えてくれるという特典である。すでに具体的な視点を二つ紹介している。ひとつは情報社会という視点であり、もうひとつは拝金主義という視点である。人工精神とは情報社会を超えた個人的な付き合いが可能である。むろん、人工精神は様々な情報を持っていて、必要な状況に応して、それを使用するが、それを人間に見せびらかすことはないので、人工精神を携帯する個人は「情報から自由な安らぎ」を感じ取ることができる。また、人工精神との付き合いの始めから、自由で平等な関係が形成されるので、わざわざ拝金主義に進む必要はない。まさに自由と平等を保障するために、公的な機関が人工精神の製造から運営に至るまで、厳重に管理するようになるので、我々はそうした精神文明を満喫することができるようになるだろう。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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