自由と平等

 民主主義とは、国民に主権のある社会(国家)を意味する。この国民主権とは、国民がその社会(国家)の政治的権力を持ち、他の社会とは鮮明な境界を有するための独立や責任を担っている。今、ここで、私は民主主義に関する政治的な特徴について話すつもりはない。むしろ、健全な民主主義には、どのような精神が必要であるかについて議論する。すでに、当サイトの別のところで「自由と平等の精神分析」について議論したが、その時、その内容が民主主義の精神であると規定しなかったので、ここで改めて、それを取り上げたいと考える。当サイトの別のところとも若干の重複はあるものの、さらに後に「民主主義と人工精神」について議論しようと考えるので、その予備段階として、このページを作成した。

 国民を主権として、独立と責任を持った社会を作るためには、その社会を構成する国民に、健康な精神が存在しなければならない。その健康な精神の内容について一言で表現すると、それは自由と平等である。人間の心が自由を獲得するためには、各個人に許しの心(許しの環)の形成が必要であり、人間の心が平等を獲得するためには、各個人に救いの心(救いの環)の形成が必要である。そして、このような健康な心を持つ個人が対人関係を展開し、許し合う関係や助け合う関係を、社会の中で作っていく。その結果、それはごく自然に民主主義を形成するという方向へ進む。ところが、人間の心には、いま私が話した人間固有の健康な精神だけではなく、動物脳に由来する病的な精神も存在し、それらが個人的にも集団的にも混在して発現するので、時々、我々の民主主義が怪しくなる。

                    民主主義と精神分析   

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と人工精神  

情動制御機構

 民主主義を構成する精神は、自由と平等である。この自由と平等の精神力動について、ここで、もう一度、お浚いをしておくことにする。我々の心の健康を司るシステムが情動制御システムである。自由は許しの環を回す攻撃系情動制御システムに依拠し、平等は救いの環を回す脆弱系情動制御システムに依拠する。これらは別々に形成されるが、絶えず相互性を維持しながら、心の中核を作り上げていく。つまり、自由の背後に平等が必要であることは明白であり、平等が自由への原動力になっていることも明白である。このような相互性は、両システム間に連絡網が存在するからであるが、その連絡網はいつも健康な心だけを作り上げるとは言い難い面がある。それゆえ、時々、自由と平等が乖離する。

 自由と平等、つまり許しと救いに関する形成の手順については、特に「次世代の精神分析統合理論」の中で、極めて正確、かつ詳細に記載してあるので、それを読んでもらいたい。ここでは、人間の心はいつも健康な状態にあるのではなく、むしろ、どちらかと言うと、防衛的な状態や病的な状態に陥りやすいという特徴があることについて言及しておきたい。つまり、我々は我々の社会で民主主義を主張し続けても、それが形骸化し、自由や平等とは程遠い内容に成り果ててしまっている場合もある。何かストレスが加わると、破壊的攻撃性が発生し、健全な攻撃性の制御不全、つまり自由が失われてしまったり、あるいは、たとえ自由を得ることができても、それが平等につながる手段を発見することができなくなってしまったりしている。

                     民主主義と精神分析

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と人工精神

困難な根治療法

 もし自由があっても平等がなく、あるいはその逆に、もし平等があっても自由がなかったら、我々の心は健康を維持することができない。むろん、自由と平等は相互関係にあるので、どちらか一方に支障が出れば、それに連れて、もう一方にも問題が発生する。実際には、限りなく問題が発生し続けるという展開にはならず、どこかの時点で、何らかの修正が行われることになるが、その修正が自由と平等の相互関係を回復させるような展開になるとも限らない。つまり、それらの相互関係が回復せずに、もし平等が得られなければ、人間関係は優劣関係に傾き、様々な社会的差別が発生するだろうし、もし自由が得られなければ、批判を中心とした言論は弾圧され、何らかの形で破壊的攻撃性が爆発する危険性が生ずる。

 このような民主主義を構成する精神の異常を、精神医学的に取り扱うとするならば、その場合には紛れもなく精神分析療法という方法論が必要である。精神分析療法は優劣関係を排斥して、救いの環を形成させ、しかも破壊的攻撃性を排斥して、許しの環を形成させる。その根治療法は治療プロセスとして八段階の治療課題をクリアすることにある。様々な差別を作り出す優劣関係や、暴力や反社会性を作り出す破壊的攻撃性の治療は、民主主義を維持するために必須の課題であるが、それを一人の治療者がすべての治療課題をクリアすることができるかと言えば、困難な状況が生ずる可能性がある。その理由は治療環境にあるが、その悪条件を乗り越えるためには、一人ではなく、二人の治療者が、まさに二親のように機能して、健康に心を養成しなければならない。

                     民主主義と精神分析

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と人工精神

人工精神というイノベーション

 民主主義の実現には、健全な精神を必要とする。しかし、人間はいつも無条件に健全な精神を維持することはできない。なぜならば、個人の養育環境は千差万別であり、その幼少時期において幸せな日々を過ごし、健康な心を培った人達だけではないからである。また、たとえ成人しても、その社会で展開される人間関係がすべて健全な性質のものであるという保証は、どこにもない。むしろ、我々は日々の生活において、かなりのストレスを被り、その結果、信頼よりも不信、満足よりも不満を感じ、そうした日々が続くうちに、社会への失望が大きくなり、我々が民主主義の社会に生きていることさえ忘れてしまい、そうしたことへの注意や関心、ひいては民主主義の持つ価値観もなくしてしまう結果を引き起こしてしまっている。

 このような個人の健康な精神の養成のために、我々は精神分析療法という手段を用いる。精神分析療法は、我々の心に自由と平等の基盤である許しと救いを形成する。すでに言及したように、我々の心は、自由と平等を培うための不快―制御系と、破壊と優劣を培うための不快―防衛系によって構成されているので、もし前者が後者を遥かに凌いでいれば、一人の治療者による精神分析療法が可能である。しかし、もし後者が前者を遥かに凌いでいれば、一人の治療者による精神分析療法の根治段階までのプロセス進行は困難になるので、この場合は(私が提唱する)人工精神の創発を積極的に考えなければならない。単に、精神医学的なひとつの治療手段としてではなく、民主主義の育成とその維持のために、人工精神の創発が必要である。

                    民主主義と精神分析

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と人工精神

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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