文化と精神文明の違い

 一般に、文明は様々な技術や製品を中心とした物質の内容を表わす言葉として、文化は様々な生き方や生き様を中心とした精神の内容を表わす言葉として用いられる。

 これに対して、文化と精神文明の違いについて明確化しようとすれば、精神文明を何らかの技術や製品を用いて作り出される精神の内容として定義しなければならない。つまり、それは人工精神(AM)の創発を前提とした精神面の発展と充実である。

 精神分析と自己分析との間には相互的な関係があるにしても、具体的な生き方をテーマにすると、文化的生活では、主として自己分析が日常的であるのに対して、精神文明的生活では、人工精神(AM)を用いた精神分析が日常的である。

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

精神文明とは何か?

 人工精神(AM)の携帯が必須の条件である。人工精神(AM)は、持ち主から求めなければ、発語することはないので、原則的に無害である。それゆえ、家庭でも職場でも、人工精神(AM)の携帯が許可されるに違いない。そして、没我的な日常ではなく、対話的な日常を営む。対人工精神(AM)との関係により、精神の健全化が図られるようになると、それに連れて対人関係のあり方も健全化する。むろん、ひきこもりや無気力に陥ることなく、(逆説的ではあるが、)孤独や沈黙を尊重する対人関係のあり方が実現するようになる。つまり、精神文明は(不快−制御系を中心とした)健全な精神を持つことによって成し遂げられ、(不快−防衛系を中心とした)物質文明とは異なった様々な世界のあり方、あるいは関係の仕方を実現させる。(AM携帯のロボット化については、精神文明(3)を参照。)

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

科学的権威と科学的自由

 物質文明において、科学の真実は権威を生み、精神文明において、科学の真実は自由を生む。科学的な営みでは、様々な科学の領域において、何らかの原理が発見され、そこから実用化に向けた(科学的)理論を作り出す。物質文明では、これらは特許や権威をもたらし、道具の所有を豊かにする。これに対して、精神文明では、精神科学的な原理を発見し、そこから実用化に向けた科学的な精神理論を構築し、やがてそれは人工精神(AM)を創発し、その稼動によって、科学的な自由を実現させる。つまり、人工精神(AM)の携帯は自由闊達な意見交換を通して、権威に比肩し得る(だけではなく、さらにそれを超える)科学的自由を実現させる。(権威は頂点に達し、その限界を超えることはできないが、自由は循環動態を呈するので、頂点や底辺という動態を必要としない。)

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

仏陀やフロイトにおける科学的自由

 仏陀は哲学的自由を持ち、フロイトは精神分析学的自由を持った。私は仏陀が自ら教祖になることを望んだとは考えない。そうではなく、仏陀の教えは仏陀が没した後、何百年も経て宗教化された(信仰の対象になった)と考えられる。実際の仏陀は、さとりの境地に到り、哲学的な自由を体得していたと考えられる。これに対して、フロイトの場合、フロイトの著述に躍動感を感じさせられる時期において、まさにフロイトが自ら発見して作り上げた精神分析の中で、自由を感じていたのではないかと思う。ただし、晩年になり(私が指摘しているように)局所論と構造論との間の一致を見ることができなかった苦しみもまた大きく、そういう意味おいて、フロイトは次第に自由を失っていったのではないかと思われる。

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

私の精神科学的自由

 学位(医学博士)を取り、留学を終えた自分に、権威を得る方向へ努力するチャンスはあったと思うが、(上記の)精神科学的自由に魅せられ、その努力を捨ててしまった。ほぼ40年間の研究生活において、6冊の書籍を作りながら、精神分析統合理論を完成させたが、一方で「はたして、書き切れるだろうか?」という懸念を抱き続けながらも、他方で直観の塊のような日々に集中しながら、研究生活を全うするための自由を体験した。精神現象に関する様々な規則を発見し、仏陀の真実を吸収し、フロイトを修正することによって、前人未到の心的宇宙論を展開することができるようになった。つまり、今の私は科学的精神理論(精神分析統合理論)を構築し、科学的自由を持ち合わせている。ただし、いま私がそうした状態にいることを、多くの人は知らないので、少し残念である。いずれ「次世代」の精神分析統合理論の時代が訪れれば、精神分析学の中の権威はなくなるだろう。

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

デカルト紹介に関する見解(1)

 ネットで「我思う、ゆえに我あり」と検索すると、1〜100件まで(10ページ分)すべて、この文言の紹介で埋め尽くされている。それは異様な雰囲気である。はたして、これを紹介する人はどういう思いで紹介するのだろうか?むろん、何を感じ、何を考えても自由であるが、その自由はいま私がテーマにしている自由とは異質であるような気がする。つまり「我思う、ゆえに我あり」を引用する人は、デカルトやこの文言に強い思いを抱いているのだろう。その思いとは権威に対する信奉である。ところが、私の場合、もうずっと以前から、この文言を口ずさむと、白けてしまい、虚しさがこみ上げる。だから、多くの人と私とは全く異なった感じ方、考え方をしていることになる。私は、デカルトのこの文言は「不快−防衛系」の範疇にある文言であると理解するので、何も崇高な思いはこみ上げない。(我々は生起する現象に過ぎない。その我々が、たとえ意識的に「我思う」と気づいたとしても、その「我」は立派な自己表象である。)

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

デカルト紹介に関する見解(2)

 精神文明(1)で、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に似た文言、つまり「人、我を思う、ゆえに我あり」を紹介した。むろん、私の文言はデカルトをもじっているのではなく、誰もが気づいていない思いに直面させようとしただけである。しかも、私のこの文言は(不快−防衛系よりも、むしろ)不快−制御系の範疇にあるので、心に人間関係を留めた充実感がみなぎってくる。なぜならば、自意識とは自己表象と対象表象の「つむぎもの」なので、デカルトと私の文言を続けて読むと、何となく「ほんわりとした」豊かな思いに浸ることができる。それが、まさに科学的自由である。ちなみに、仏教でいう「天上天下唯我独尊」は、不快因子の平等化が達成された後の(弱い自己が賦活した)弱い対象の、誇大的自己による拘束が前提になっている。それゆえ、たとえ「さとりの境地」あるいは(人格構造の最上階である)「超制御状態」であっても、やはり自己表象と対象表象の連動性は機能し続けている。

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

科学的権威の衰退

 認知科学の様々な分野、特にその中でも物理学や生理学、それに生化学などの自然科学の領域においては、引き続き権威的存在が出現し、大きな権威と権力を思うがままに操るという時世は続くものと思われるが、情動認知科学から出発した広大な精神領域の中では、もはや権威的存在の価値は衰退してしまうだろう。人工精神(AM)の創発という領域に関しては、物質文明に依存しなければならない領域であるが、それは(ある民間会社が独占するというような事情は存在せず、)公的機関による機能チェックのあり方が模索されることによって、権威的存在を可能ならしめる必要はない。

 このような精神科学の自由が実現するようになると、今まで精神界の中心にあった宗教と、それと密接な関係にある(物質文明の)諸々の領域との間で大きな波紋が生ずると考えられる。言うまでもなく、いかなる宗教であっても、その一方で救済を掲げ、他方で殺戮に目をつぶる。つまり、宗教は不快−防衛系と不快−制御系の複合体である。だから、権威や権力を欲しいままにする。もし都合が悪くなると、なりふり構わず、権威と権力を手中に置き、事態の鎮静化を図るといった事情も見受けられる。ちなみに、精神文明の象徴である人工精神(AM)と宗教は無縁であるから、人工精神(AM)が、いま述べたような精神力動を展開することはない。

 

                   新しい心の分析教室:精神文明(2)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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