精神文明の意義

 差別をもたらすお金を、差別を解消する役割として用いる。つまり、お金を平等に利用する。人工精神(AM)は蓄財や資金だけではなく、すべての手段が健全に使われるか、それとも病的に使われるかについての判断を行なう。それゆえ、健在な蓄財か、それとも病的な蓄財かに関する判断は、人工精神(AM)に行なってもらうことにする。むろん、その人工精神(AM)は、ある富者の持ち物であるが、たとえいかなる人の所持品であろうとも、すべての人工精神(AM)の役割は、病的な精神を健全な精神にすることなので、状況に応じた対応を行なうが、その人の中心的な課題が病的な蓄財にある場合、人工精神(AM)はそれをテーマにすることができる。その場合、富者の蓄財分散を強制に行なうのではなく、自発的に、かつ適切に行なわせしめる。つまり、その富者の蓄財は病的な範疇に属するので、その範疇に属する部分を分散してもらうことにする。

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処罰的自己と資金

 これは破壊的な活動にお金を投入する場合である。つまり,専ら犯罪に寄与する(あるいは社会病理のひとつとして貢献する)お金の場合である。(覚醒剤を含む)様々な薬物の売買が最も大きな資金源かも知れない。最近の話であるが「キラー・ロボット」を作っている大企業があるという話を聞いたことがある。いかなる動機によるものか、わからないが、稼いだお金を兵器の製造資金に当てるのだから、尋常な精神の持ち主ではあるまい。いわゆるお金持ちのお金の使い方は、庶民のお金に対する健康な感覚と次元が異なっている場合が多い。(たくさんの例があるが、個人攻撃になるおそれがあるので、その内容は控える。)いずれにしても、自分が使用する人工精神(AM)は自分の精神を癒してくれるものだから、そのような破壊的攻撃性の行動化をしない、もっと健全で生産的な方法を見つけ、それを実現させていく体験と、そのプロセスを経験にしていけば、蓄財を必ず健全な方向へ移行させることができると考える。

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理想的自己と資金

 理想的自己による蓄財を、守銭奴による蓄財という。健全な精神は、人工精神(AM)に対して、少なくとも蓄財の趣旨を説明することができなければならない。もしそれができなければ、それは病的だと判断される。病的な蓄財は、社会からの搾取が原因であるという因果を免れることはできない。それゆえ、精神文明における蓄財は、人工精神(AM)に申告されていなければならないという法制度を確立しなければならない。おそらく、富者にとって、ここの部分が最も大きな抵抗を示すところであろうが、それは唐突で、一挙に(乱暴に)なされるわけではない。あくまでも、その人工精神(AM)の持ち主の心が、典型的な不快−防衛系の一因である守銭奴に対する違和感を覚える方向へ働き掛けられることによって、そうした自分の病的な蓄財に対する罪悪感や償いという趣旨の不快−制御系を活性化するように促されるだろう。

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誇大的自己と資金

 資金の提供をめぐって、貧者が誇大的自己を活性化するということは(現実的に)あり得ないが、富者はいつもそうした立場にいる。はたして富者はそれをどんな思いで行なうべきか?受け手は富者の意図を察知しようとするので、富者はいつもそうした点で気配りをしておかなければならない。たとえば、資金の提供が支払うべき給与のようなものであれば、その経営者は感謝をこめて渡すだろう。ところが、その時に感謝もなく、何か施しでも与えるような支払い方をすれば、それは途端に問題化する。つまり、その時、経営者はたとえば「持っていけ、この泥棒!」というような思いでいると、それは誇大的自己ではなく、「処罰的自己+理想的自己」を活性化させているので、資金を受け取る方は、その経営者を誇大的対象に感ずる。誇大的対象は軽蔑こそすれ、感謝はしないので、いずれそれはトラブルのもとになる。


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謝罪的自己と資金

 時々「儲けて何が(どこが)悪い!」という(開き直りとも受け止められるような)意味の言葉を耳にすることがある。富者にとって当然の権利であり、能力があるからこそ儲けられる。「羨ましかったら、お前もやってみろ!」というような開き直りである。この場合、開き直りは誇大的自己を活性化させる「うぬぼれ」であるか、それとも(上記の文脈の)躁的防衛である。つまり、このように心性には、儲けることによって、他者から金品を奪い取った、つまり消費者から搾取したという罪悪感がない。正当に得た利益であり、その利益に対して、いちいち罪悪感を起こしていたのでは、儲けた分だけ、うつ病になってしまうという言い分があろう。しかし、この心性の健全さは危うい。「そんなこと、いちいち感じる奴がどこにいる!」と呆れる人もいるかと思うが、金儲けは他者がいないと決してできないという真実があるので、やはり何らかの罪悪感は必要である。

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精神文明の目的

 人工精神(AM)を使うことによって、すべての人の精神を健全化するという、極めて壮大な理想を掲げ、実際に多くの人の精神が健全化してくれば、貧富の差を作り出しているお金を平等に使うことができるようになり、すべての人の平等が現実化してくると考えられる。もしお金を平等に利用し、貧富の差がなくなり、社会的な平等化が実現すれば、今度は改めて、すべての人の自由と能力をテーマにすることができる。それまでの自由と能力は、ごく一部の人のものであった。しかも、たとえごく一部の人のものであっても、それが健全に使われていたかどうかも疑わしい。(病的な浪費を自由と感じている富者も多い。)しかし、今や我々は自分の求める自由と能力の健全性について、かつてとは比べることができないほど進歩し、しかもそれで何か不備があれば、人工精神(AM)がその不備を十分吟味してくれるので、我々の言動の健全性は保証されたものになる。

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平等と平和がベースになって

 人工精神(AM)によって、まず自由と能力が成就するようになると、次は平等と平和のあり方が問われるようになる。平等と平和の必要な領域は、人種、民族、宗教、国家、障害(災害)などであろうか?平等と平和の領域に関する様々な議論において、時に受身的、消極的なポジションを取りがちである。それは自らの利権は侵されることなく、相手が譲ってくれるのであれば、そんな結構なことはないというような心理的スタンスが発生するからである。しかし、平等と平和に関する議論に参加する時、「おんぶに、抱っこに、ぶら下がり」は許されない。自らを積極的に与え、共有された内容を十分に享受するという姿勢が重要である。むろん、人工精神(AM)も一緒に参加するので、いずれかに偏った内容になるはずがない。肝心なことは、今まで人類が勝ち取ることのできなかった平等と平和の精神が、現実にどういう感触をもたらすか、十分に満喫することである。

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自由と能力がベースになって

 人工精神(AM)によって、まず平等と平和が成就するようになると、次は自由と能力のあり方が問われるようになる。自由と能力の必要な領域は、思想、貿易、恋愛、競技、賭博などであろうか?人間の、平等と平和に関する取り組みと、自由と能力に関する取り組みは全く正反対である。前者では消極的、受身的であるのに対して、後者では能動的、積極的である。しかし、自由と能力を満喫する上で、決して「見境なく独善的で破壊的」であってはならない。そのためには、二つの吟味が要求される。ひとつは、明らかに不快−防衛系が関与する領域である。我々は生命体であり、他の生命体を犠牲にしなければ、我々が生き残れないという事情があるので、それを最小限にする議論は極めて重要である。そして、もうひとつは、好奇心(快の追求)の範囲である。そんなことを制限されると、それはもはや自由ではないと反抗する輩もいるだろうから、慎重に吟味する。

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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