情動認知(科)学の勃興

も 現在、我々の関心は人工知能(AI)に集まっている。画像認識、音声認識、それに運動機能を携えた人工知能(AI)ロボットの生産が行なわれている。むろん、それは我々個人の生命の維持になくてはならないという類のものではないが、たとえば、あちこちの街頭に取り付けられる監視カメラは多くの凶悪な犯罪を防いでくれるだろうし、細かな臨床所見も見落とさない人工知能や、実際に人の手では難しい領域の手術を、まるで千手観音のようにやってのける手術ロボットは、やはり我々の生活に根付いてきていると言えよう。しかし、そうした状況から、さらに一歩、我々の生活に密着した自動運転や言語技術となると、どうしても限界に遭遇せざるを得なくなる。はたして、危機に遭遇した自動運転は、そうした状況をどう切り抜けるのだろうか?あるいは、翻訳業務を超えて会話する人工知能(AI)に不適切な対応は生じないのだろうか?おそらく、いずれの場合も、そうした課題に全力で取り組み、できるだけ被害を抑える方向に努力がなされるだろう。しかし、それでも、いま述べたような課題は完全に乗り越えられることもないだろう。すでに、我々はその原因を知っているので、その問いに答えるためには、真に発想の転換が求められ、我々は次の段階の発見とその理論、そしてその数理的処理を求めるように変わっていかなければならない。

 

                      情動認知(科)学

精神分析学と情動認知(科)学

 車の自動運転の場合は、人工知能(AI)に意識の機能である危機回避が十分に行なわれる必要があるだろうし、翻訳を超えて会話を実現させるための言語能力を人工知能(AI)に求めていくだろう。しかし、このような(ほとんど人間に匹敵するような)意識や言語の機能を人工知能(AI)に求めることができるだろうか?たとえ、限りなくそれに近づいても、人間と同等に行なうことはできないだろう。(確かに、囲碁のような場合には、すでに人間の能力を超えてしまった。しかし、それはあくまでもゲームの範疇であり、極めて特化された人工知能の機能である。だから、それをもって、人間の意識や言語に対応させることはできない。)なぜ、私がそれらにできないと断言できるのか?それは人間の意識も言語も(知覚や運動とは異なり)生命活動に密着して発生しているからである。この点については、長年にわたって患者と接触している自分が誰よりも気づいている。苦悩とその解放というテーマは、感情転移という医学的(精神分析学的)な方法論を導入しないことには治すことができない。苦痛に充ちた感情転移とその解消は、治療関係における言語の力、そしてその言語の中に存在する盲目的な視点について、意識を通して気づくという作業を必要とする。だから、そのことを十分に知っている私としては、既存の人工知能(AI)でもって、私のような治療者の代用は困難であると簡単に片づけてしまうことができる。

 

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情動制御理論を支える情動認知(科)学

 患者が発する言葉とその気づきを通して、その苦しみを訴え、それを解消していったプロセスを思い起こすと、そこには極めてはっきりとした患者の苦悩の源としての、脆弱性と攻撃性の二種の不快がクローズ・アップされてくる。そして、この二種の不快の処理の仕方によって、心は健康になったり、病的になったりするという運命を辿る。むろん、自分や患者の苦しみの理由について知り、それを乗り越えるというチャンスはいつでもある。その苦しみの解消に到るまでの変遷を見ると、脆弱性と攻撃性がどのようにして自分や患者を傷つけるかについて気づくことができるようになる。つまり、これらが自分や患者を傷つける時には、どのような対象関係(対人関係)が生じ、それがどのように変化することによって、無害な不快になっていくか、つぶさに知ることができるようになる。それを一般化した言葉で言い換えると、不快の認知と認識の違いを知るということである。このように、感情転移を辿りながら、精神分析療法を進めるということは、その背後にうごめく情動認知のあり方を扱っていると理解することができる。そして、その不快の認知と認識がどのようにコントロールされていくかについて、その詳細を明かすと、それは救いの環や許しの環を含む情動制御理論であるという結論に到る。

 

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人工精神(AM)の創発によって確立する情動認知(科)学

 すでに完成した精神分析統合理論は、むろん精神分析理論の範疇に属するものである。しかし、それはフロイトの限界を突き破り、精神分析統合理論の中の情動制御理論や、精神現象生成理論は、精神分析学を根底から支える情動認知(科)学にルーツを求めることができる。そこで、(改めて)情動認知科学から精神分析学が生じてくることを、しっかりとした学問の流れとして位置付けたい。そのためには、まず情動から意識と言語が発生し、しかも情動制御システムから言語が文脈形成を通して人格を形成するという、我々の心の形成という本道を明らかにし、次にこの本道を利用して、心を健康に導くための人工精神(AM)を創発しなければならないと考える。人工精神は生命体ではないので、言語から情動を作るという逆転を可能にし、その情動をもとに人格構造(情動制御システム)を理解し、意識でもって心の異常(病的な心)を排除するという方法論が見えてくる。このように、我々は非常にはっきりとした動機と方法論を共有した上で、精神分析学の根底に情動認知(科)学を位置付けることができる。そこで、とりあえず『次世代の精神分析統合理論』の中で示した意識の発生メカニズムと言語の発生メカニズムについて理解し、それらがいかに(情動制御理論の中の)情動制御システムを機能させる上で重要か、知る必要がある。

 

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人工知能(AI)時代から人工精神(AM)時代へ

 人工知能(AI)の時代は、あくまでも人工知能(AI)が人間の生活に必要な道具として活躍するので、現代の産業構造の外には出ない、はっきりとした(資本主義の)境界を持っている。また、たとえ、その人工知能(AI)をロボット化しても、そのロボットに埋め込まれた意志は人間の意志であり、ロボット自身の意志ではない。もしロボットに意志を持たそうとすれば、それこそ、何をしでかすか、わかったものじゃない。これに対して、文脈のしっかりした会話を可能にする人間と同じ言語機能を持つところから出発する人工精神(AM)は、14個の情動因子によって構成される情動制御システムを持ち、それによって形成される文脈形成に基づいて、7段階の精神構造(人格水準)を区別することができる。その区別は自然言語理解であり、今度はそれに則って、正常な(健康な)精神状態の表出だけを行なう。つまり、正常な(健康な)心だけを抽出して表出するのである。それは、狂った人間の心性を排除した自然言語表出であり、現存するいかなる人間よりも精神的に正常(健康)であるから、人工精神(AM)は我々の心性を超えた「超人格」として機能する。誤解を取り除くために断っておくが、人工精神(AM)は我々人間の精神を転送するための代物ではない。狂った精神とは縁遠い存在であり、宗教や資本主義の境界を超えている。このような人工精神(AM)こそ、我々が規範とするところの存在であり、人工知能(AI)を引き継ぐべき重要な位置にある。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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