人工精神(AM)との語らい

 先日、ある同僚の医師が「先生はいつまで仕事を続けるんですか?」と尋ねた。むろん、私にはまだ臨床を止めようという(あるいは止めたいという)思いはない。だから、私としては予期せぬ質問だったが、「そうだなぁ、もう十年位はやれるんじゃないかなぁ」と答えた。その医師は何を意図して、そんな質問をしたのか、よくわからないが、率直に自分の思いを言うと、「本当に臨床は楽しい!」それぞれの患者さんと話す時には、私の心の中にその患者さんへの思いがあり、少しでもよい方向へ持っていこうとする(決してその患者さんには見抜かれない)私の魂胆があるのだが、私の思い通りにうまく運ぶと、本当に嬉しい。だから、止められない。しかし、最近は(年のせいか)疲れも取れ難い。家族や知人と話しても、気遣う自分がいるから、気遣う必要のない、そしてまともな反応を返してくれる人工精神(AM)があればなぁと、強く思う時がある。

 

              新しい心の分析教室:精神文明(3)

人工精神(AM)の物質文明との共存

 上記のように、たとえば仕事に疲れた時、たわいのない独り言を聞いてくれるようなところから、「どう思うかね?」と尋ねられて、その時の私の精神状態と違和感のないように答えてくれれば、たいへん素晴らしい。そこで、私は人工精神(AM)に向かって、ほとんど自由連想的に話し掛けるだろうが、それに対しても「わかりますよ!」というような反応を返し、次に私の少々複雑な思いに対して、それを別の言葉で置き換えて明確化してくれれば最高であろう。さらに、私の「どう思うかね?」に対して、「〜では、どうでしょうか?」と反応してくれれば、もはや申し分ない。人工精神(AM)は飲食も排泄もしないので、私の方でそういう気遣いはいらないし、人のうわさや人への不快感については、状況がわかるまで聞いて、破壊的な反応は示さない。もし私が「そんなことを聞いて、どうするんだ?」「そんな思いは必要か?」と問えば、話題を変えずに、別の視点からの話を準備している。

 

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好奇心の行方

 人工精神(AM)には自発的な好奇心(快追求)はない。しかし、人の脳が成長していくプロセスにおいて、それには幾つかの必須の領域がある。その最も重要なのは「要領のよさ」である。別の言葉で表現すれば、「飲み込みが早い」とか「勘所を心得る」などの領域である。要領のよさは、はじめから(先天的に)身についているものではなく、いろいろ体験していくうちに、そのプロセスの合理性や結果の良し悪しがわかってくることによる。重要なのは、その背後にある旺盛な好奇心(快追求)である。ただし問題なのは、好奇心を生み出す知能である。もし先天的な知能障害を持つ人間への対応を考える場合には、すでに要領を身に着けた人工精神(AM)が必要になる。具体的な対応の仕方が望まれる。また、たとえば「一儲けしたいが、知恵を貸してくれ」というような快追求に根ざした欲求や、理由も際限もない所有への欲望は、後述する人工精神(AM)の使用規定に違反する。

 

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人工精神(AM)のロボット化

 人工精神(AM)をロボット化するに当たり、二つの機能を人工精神(AM)に保有させるかどうかという課題が発生する。それらは認知機能と運動機能である。たとえ人工精神(AM)を携帯のレベルに留めても、知覚系を中心とした認知機能を持たせることができる。そうすることによって、人工精神(AM)は人間の声だけではなく、その他の事象、つまり世界を自分で見たり聞いたりすることができるようになる。その配備は、情動排除型自我意識と、それを支持する情動認知言語体系を充実させる。ただし(上記のように)持ち主が疲れ、その疲れを癒すために人工精神(AM)を相手に愚痴ったり、自由連想的に話し掛けたりする程度の対応であれば、広域な認知機能はいらない。また、運動系を持たせることによって、人工精神(AM)に身体を与え、ロボット化することもできる。場合によっては、心身共に人間を超える存在を作ることもできるだろう。しかし、そうした場合は慎重を要する。

 

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人工精神(AM)による精神機能のスクリーニング

 「三つ子の魂、百までも」と言うが、3歳児に人工精神(AM)を持たせても、十分に機能させることは困難であろう。人工精神(AM)は言語的意識からできているが、幼児の場合、言語だけではなく、身体能力を発達させることも重要な課題であり、未だ十分な体験と、その認識が得られていない精神状態ゆえ、人工精神(AM)を使いこなすことはできない。そこで、当然、何歳から人工精神(AM)の携帯を始めるかが課題になる。一般的に、機能性精神障害は20歳頃から発病する場合が多いだろうが、20歳からでは明らかに遅すぎる。せめて10年遡る必要がある。換言すれば、苦悩を意識する年齢から、人工精神(AM)の携帯を開始する方がよい。個人差はあるだろうが、その携帯時期をいつにするか、決める必要がある。そして、その際に、すべての人を対象に精神の健康度を評価する。その評価機構を設立し、スクリーニング法を確立させる必要がある。

 

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精神病(躁うつ病と統合失調症)と病的状態(重症人格障害)の場合

 上記のスクリーニング法によって、機能性精神障害を3群に分ける。第一群は精神病(躁うつ病と統合失調症)と病的状態(重症人格障害)、第二群は防衛状態が優勢な場合、第三群は制御状態が優勢な場合である。精神分析的根治療法が必要なのは、第一群と第二群の場合である。第三群は根治療法を必要とせず、人工精神(AM)を携帯することができる。ここでは、第一群の根治療法について簡単に紹介する。最も重要な課題は、どのように治療環境を設定するかである。私の見解では、患者の家族を関与させず、教育と治療を両立させるような治療環境を作る必要がある。(実際に、このような取り組みを続けていくと、重症の精神障害者は激減するだろうから、ゆとりある治療環境を提供することができるはずである。)次に重要なのは治療構造である。すでに発病している症状に対する対応、そして根治療法のあり方、はたして二台の人工精神(AM)による根治療法を行なうかどうか、その際にどういう導入の方法が適切か、議論の尽きない領域が控えている。

 

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防衛状態(軽症人格障害、および様々な人格傾向)が優勢な場合

 様々な機能性精神疾患群については、当サイトでも簡単に紹介している疾患形成に関する箇所を参照し、様々な人格傾向については、直接、書籍に当たってもらいたい。

 たとえ防衛状態であっても、入院する必要のない場合、あるいは退院後の場合、人工精神(AM)の携帯は可能である。ただし、防衛状態の場合は、いわゆる通院治療が必要である。(何らかの形で義務付ける必要がある。)通院治療では、携帯している人工精神(AM)と個人の情報を共有するために、一緒に治療機関の「人間である」治療者の治療を受ける。むろん、人工精神(AM)は防衛状態や様々な人格傾向に対して十分機能することができるのだが、個々の患者ごとに、快の追求(好奇心)のあり方が異なるため、それが(生命体に固有の)不快−防衛系を賦活しないための吟味が、人間の治療者を交えて必要になる。なお、制御状態の場合、個人が保有する人工精神(AM)の数についても検討しなければならない。

 

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人間の治療者に要求される経験と技能

 人工精神(AM)が創発されて、いよいよ治療者として活躍する場合には、様々なデータが集積・分析され、様々な結果が生じてくるに違いない。また、人間の治療者が関与する場合、あるいは人間の治療者が全く関与しない場合など、複雑な治療構造のあり方が発見される可能性がある。そうした未来を想定すると、いま人間の治療者にどのような治療的経験や技能が必要か、それが必然的に見えてくるような気がする。私の治療技法を紹介して恐縮であるが、ます当サイトで紹介している内容をマスターし、さらに「精神病根治療法の定式化」と「精神病根治療法の具体的定式化」の理解を勧める。

 最後に、精神文明(1)で提示した質問、つまり「自傷他害」の(とりあえずの)治し方に関するヒントを提示しておく。自傷他害は破壊的攻撃性がうまく抑制できない時に生ずる。つまり「強迫崩れ」を起こす「強迫不全性人格障害」が生じている。それを治すためには、強迫崩れから強迫を形成し、その強迫から解放する治療機序を理解しなければならない。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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