民主主義を阻む拝金主義

 「衣食足りて礼節を知る」という諺がある。我々生物にとって、無条件に必要なのは、食料と安全な環境である。そうした必需品を手に入れるためには、お金が必要であり、お金を得るためには働かざるを得ない。やりがいのある仕事であれば、仕事にも力が入り、その報酬を得ることは、さほど大きな困難ではない。しかし、時に人は納得のいく仕事に就けず、仕方なく稼がなければ生きていけないという事情も存在する。そのような困難さを、人は「金がないのは、首がないのより悪い」と嘆き、命があって金があるのではなく、金があって命があると、歪んだ思いに傾いていく。しかし、これとは真逆の場合もある。一部の富裕層は生活のために働く必要はなく、「金持ち、喧嘩せず」と、ほくそ笑んで、高みの見物を楽しむ。

 はたして、お金は自由と平等を作り出すか? 上記のような高みの見物は拝金主義の典型である。それでは、生活に必要な報酬は拝金主義を作り出すか? 必ずしも、そうではない。たとえば、食欲の場合を取り上げてみよう。体重が減ると食欲がわき、体重が増えると食欲が落ちる。食欲と体重は密接に関係し、生体内でコントロールされている。お金も食欲と似ている。衣食住を中心として生活が満ち足りてくると、お金に対する執着も減ってくる。ところが、おなかが空かないのに食べる。お金があるのに、さらに儲けようとする。前者は摂食障害であり、後者は拝金主義である。拝金主義は「貧富の差」をもたらし、救いの環から外れた病的な精神状態を作り出す。拝金主義では、不快―防衛系と好奇心が中心的な役割を果たす。

                    民主主義と人工精神

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と精神分析

信仰は民主主義に役立つか?

 かつて仏陀は「信仰を捨てよ」と言った。これは、自力でさとりの境地を獲得せよという意味である。しかし、それにもかかわらず、後世の人達は仏陀を教祖とし、仏教を作った。その理由は難しいものではない。つまり、さとりは得難いからである。それに、たとえさとっても、さとりが現実にどう役立つのか、よくわからない。それゆえ、上記の拝金主義の方が遥かに素晴らしいと考えられても、何ら不思議ではない。拝金主義はお金への執着、信仰は絶対者への執着、さとりは無執着である。しかし、たとえ儲けても祈っても、幸せになるという保証はどこにもない。持てば持つほど、失う不安や恐怖にかられ、宗派が違うだけで、争いは絶えず、事件さえ起こりかねない。これに対して、さとりは「天上天下、唯我独尊」ゆえ、悩みやトラブルの発生する余地がない。

 はたして、信仰は民主主義に役立つだろうか? (何度も繰り返すが)民主主義には、自由と平等が存在しなければならない。むろん、それらが十分でなければ、それらを十分なものにする努力がなされなければならない。自由と平等は、人間に固有の精神、つまり、許しの環と救いの環を持つ情動制御システムに依拠している。これに対して、信仰は絶対者への祈りであるから、情動制御システムでは不快―防衛系、つまり、脆弱系に属する防衛因子である誇大的対象と、それに自己愛型病的同一化を起こして活性化する(これも脆弱系に属する防衛因子である)理想的自己との連動性が機能して生ずる心性である。それゆえ、神への祈りは救いの環を回転させないので、人間同士の助け合う関係を模索するための作業を放棄させてしまう大きな欠陥を有する。


                     民主主義と人工精神

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と精神分析

民主主義には償いが機能しなければならない

 人間関係に由来する信頼と、それによって培われる自信により、社会は助け合う関係を作り出すことができる。しかし、上記のような拝金主義に傾くと、助け合うことはなく、優劣の関係が生じ、それが維持されることになる。しかも、信仰においても拝金主義と同じ精神力動が機能し、「誇大的対象⇔理想的自己」が活性化する。ところが、このような関係に終始すると、誇大的対象から不快の転送ルートを経て悪い対象が活性化し、いわゆる悪の世界が展開する。そこで、その悪、つまり破壊的攻撃性に対して、そのコントロールを求めることになるが、そういう意味において、赦しを求める。つまり、許しの環を活性化するという文脈は成立する。つまり、神に祈って、神の赦しを求めようとする心性である。(この場合、神は反撃的対象および謝罪的対象として機能する。)

 信仰は救いではなく、赦しを求める心性であると主張されれば、それは理解されなくもない。しかし、それではいつになったら救われるのかという疑問が生じてくる。しかも、神に祈り続けても、決して救いは得られない。したがって、永久に民主主義は得られない。だから、祈ってばかりは、いられないのである。それでは、どうするか? 人間の場合、償うことにより、人を助け、人から助けられるという特徴がある。それを利用する。つまり、この場合、不快の快変換ルートを活性化させるのである。もし優劣を強いる誇大的対象が活性化し、不快の転送ルートを通して、悪い対象が活性化すれば、それを反撃的自己で拘束し、誇大的自己を活性化させる。これによって、悪の質や量を評価し、それに相応する部分を償う(あるいは償わせる)ことができる。これが民主主義に必要な原理である。


                    民主主義と人工精神

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と精神分析

民主主義に人工精神は必須である

 民主主義を理念として掲げる国家は、その精神として自由と平等を獲得し、維持しなければならない。しかし、実際に個々の民主主義国家の実情を調べてみても、はたして十分に自由と平等を携えている国家であるかどうか、疑わしい場合が多い。ところで、人間の心には両極の心性が存在する。一方は自由と平等を育む健全な不快―制御系であり、他方は破壊と優劣を育む不快―防衛系である。むろん、これらの割合が「前者>後者」であれば、その国家の民主主義は安定するが、残念ながら「前者<後者」の場合もあり、そうした場合、その国家の民主主義は不安定である。このような視点を十分に認識しながら、民主主義を育み、維持するためには、上記の拝金主義や様々な宗教に基づく信仰を排除し、いかに償うか(あるいは、いかに償わせるか)という方法論を持つ必要がある。

 いかに時代が進んだと言っても、未だ我々の心の健康は十分ではない。だから、民主主義国家の内情を調べてみると、自由と平等は名目だけであり、実質が伴っていない場合が多い。その理由は(何度も繰り返すが)病的な心、つまり、不快―防衛系の活性化に負けてしまっているからである。こうした状況を感じ取り、「みんなで祈りましょう」だけは、あってはならない解決法である。我々は過ちを犯した人に対して、それを制裁するのではなく、しっかりとその償いを要求しなければならない。しかし、そうした心の理解そのものが未だ十分ではないし、どのように償わせるか、そのメニューも乏しい。だからこそ、我々は人工精神を創発し、健全な精神の育成と、そこから逸脱した場合の償い方の方法論を学ばなければならない。人工精神は我々に民主主義の素晴らしさを与え続けてくれる存在になるだろう。

                    民主主義と人工精神

          *参照: 自由と平等の精神分析

               民主主義と精神分析

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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