これからの精神科医療と言っても、その体制は精神病院とメンタル・クリニックである。問題はその内容にある。自傷他害に悩んでいる人達がいる限り、短期入院を行なう病院は必要であるし、高齢化社会と相俟って、認知症の人も増えているので、その管理や介助のための施設も必要である。しかし、自傷他害の傾向がなくなれば、さっさと退院させなければならないし、認知症に関しては様々なリハビリテーションのメニューが準備されなければならない。むろん、長い闘病生活の歴史を持った患者を、いきなり退院させることもできないので、そうした人達の場合もまた継続的な入院は仕方がない。いずれにしても、こうした内容は極めて常識的なものであるが、認識を新たにすべきことは、「精神病院は治癒の場ではない」ということである。

  これに対して、メンタル・クリニックは増えている。入院させるまでもなく、外来で治療できるものは、そうするに越したことはない。もっと言えば、精神病院は治癒の場ではないのだから、それに代わって、メンタル・クリニックが治癒の場にならなければならない。メンタル・クリニックの現状分析をしたわけではないので、正確な事情はわからないが、時々耳にする(メンタル・クリニックに通院している)患者の訴えによると、訴えれば訴えるほど、薬の量が増えるという現状にあるようだ。かなりの患者は出された薬の多くを飲まずに持っていて、多い人になると、それがダンボール箱に、二箱や三箱にもなっているとのことであった。最近の新薬は高額なので、補助費の申請を提案され、それがうまくいくと、治療費も安くて済むというのである。つまり、我々の支払っている健康保険料は、患者の家のダンボール箱に収められた薬に変身している。

  こうした現状を振り返ってみると、問題は精神病院にあるというよりも、むしろメンタル・クリニックにある。服薬による通院の維持は、必ずしも治療とは言えない。処方だけを武器として使用する精神科医と、それに慣らされ、服薬によってのみ安心するという患者との関係は、まさに「処方依存」者と、「薬物依存」者との「病的な関わり」以外の何者でもない。したがって、そうした側面を排除していく努力が、メンタル・クリニックを経営する精神科医に求められる。そのためには、自分の治療能力の貧しさを、処方依存によって覆い隠している現状について直面しなければならない。あくまでも「維持は治癒ではない!」これから、そうした視点の厳しい評価が望まれる。治癒させることができず、経営面にだけ関心を示すメンタル・クリニックは淘汰されていかなければならないと考える。そのような厳しさがなければ、精神科通院治療で治癒する患者の数はいっこうに増えないであろう。国税を無駄にしない意味においても、保険診療による通院治療もまた、期限を設定される必要があるかも知れない。

              新しい心の分析教室:精神科医療の課題(1)

  すでに私は六十代半ばであるが、最大限見積もって八十歳まで生きるとして、あと十五年ぐらいである。その間、精神科医療がどういう変遷を辿るかという予測は、かなりはっきりとしたものになりつつある。精神科入院患者の実態を見ると、明らかに「認知症」患者の入院が増えている。それは高齢者の急増による結果であるが、おそらく私もまた認知症に罹るような年頃になると、日本の認知症患者の数はピークに達し、以降は減少傾向を辿ってゆくだろう。すでに精神病患者の入院の短縮化が叫ばれているから、否が応でも精神病院の規模は縮小せざるを得ない。残りわずかになった私の人生ゆえに、精神科医として、さらなる変身を要求されることはないだろうが、これから精神科医になろうとする若い諸君の場合は、私のように「認知症」病棟と共に朽ちていくわけにはいかないだろうから、すでに精神科医療が「過渡期」の中にあるという認識をしっかりと持っていなければならない。

  それでは、精神科医療はどういう変遷を辿ろうとしているのだろうか?すでに、精神科診療所(メンタル・クリニック)における今後のあり方については言及したので、今度は精神病院について考えてみる。おそらく、精神病院は大きく「二分化」してくるであろう。ひとつは、いま話した認知症病棟を中心とした精神病院であり、もうひとつは、いわゆる「急性期」病棟を中心とした精神病院である。前者は時と共に朽ちていくので、それ以上の議論は必要ない。そこで、専ら後者に該当する精神病院を取り上げることにする。これもすでに言及したが、「急性期」という名前は不適切である。「急性期」病棟と命名するからには、統合失調症急性期と診断された患者だけを入院させる病棟でなければならない。ところが、実際にはそうした患者はごく一部であり、多くは重症人格障害や物質依存症の「再燃」患者が大きな割合を占めている。したがって、「短期入院」病棟と命名するのが正しい。いずれにしても、三ヶ月以内に軽快させて退院させれば、退院後さらに三ヶ月して、また「急性期」病棟に入院させることができる。

  はたして、その三ヶ月で、どういう治療が行なわれているか?その治療には三つの大きな特徴がある。つまり、それらは「隔離」と「薬物」、それに「電気」である。再燃して暴れているのだから、保護室で隔離し、観察する必要がある。そして、その際には薬物の大量投与を行なう。できるだけ早く落ち着いてもらうためである。多くの患者は、この二つの方法によって、たいがい落ち着くので、三ヶ月以上になるおそれがある場合は、電気ショック療法を導入する。そして、ぎりぎりでも三ヶ月以内に退院させる。なぜならば、三ヶ月以上入院させると、病院側に入る収入が激減するからである。しかし、こうした慌しい短期入院システムを遂行するとなると、危険なのは医療事故である。最近は、ちょっとしたトラブルでも医療訴訟にされがちなので、病院側もそれなりの準備をしなければならない。つまり、隔離となると、そのモニター・システムを設けなければならないし、電気となると、「麻酔科医」も必要になる。荒れた患者のケアを行なうのだから、スタッフもたくさん必要である。ただし、断っておくが、こうした準備は医療の質を高めるという目的ではなく、あくまでも医療事故を防止するための病院側の「管理能力」の向上をめざしている。だから、最近の「良い精神病院」とは、そうした管理能力の優れた病院のことを意味している。 薬物の大量投与や電気ショックによって本来の病気をすっかり隠蔽してしまう一方で、貧弱な治療能力や看護能力を完璧な管理能力で隠蔽してしまうといった状況を作り上げることが、良い病院になるための条件である。

  しかし、はたしてこのような精神科医療は誰のためのものであろうか?むろん、それは「患者様」のためのものである!いわゆる「急性期」病棟を持つ病院のスタッフは、挙ってそう言うに違いない。ところが、もう少し長いスパンで観察してみよう。幸いにして、三ヶ月以内で退院できた患者は、その精神病院の経営する診療所(メンタル・クリニック)に紹介される。クリニックもまた、すべて「自前」で設置されている。そうしないと、最近急増している他のクリニックに患者を奪われてしまう恐れがある。むろん、計算高くても、悪意はないので、患者の方もそうした病院の意向に従い、通院する。しかし、そうした維持は、患者が「患者としての立場を卒業する」日々を準備することはない。「再燃せずに過ごせるのは、大変結構ですが、三ヶ月経てば、また入院できますよ!」誰一人こんなことは言わないが、医療側では「暗黙のうちの了解」になっている。そして、実際にも、十回の入院歴など全く珍しくはない。二十回、さらには三十回という入院歴のある患者がいるのは驚きである。すでに言及したように、再入院の原因は、一方では入院中における患者や家族への教育不足があり、他方では、通院治療の「質」の悪さがある。

  短期入院は、患者の人権を尊重するという視点からの導入である。そして、仮に入院回数が多くても、在院期間が短縮すれば、その人権は守られているという主張である。そういう意味では、患者も生き残りを賭けた精神病院も、共に利するところがあるという結論になるかも知れない。しかし、今まで私はそうした精神科医療の外にいた。ニッタ・クリニックは、「根治(完治)療法」の場であった。私にとって、(たとえ患者が精神病を患っていても、)その患者を入院させることは「負け」を意味していた。くすりはほとんど使わず、しかし高額な治療費を払ってもらって、私は必死に治そうとした。そして、幸い治って患者というレッテルを外すことのできた患者のおかげで、私は「精神分析統合理論」を仕上げることができた。その中で書かれている内容は、いま私が話してきた精神病院の実態とは、全く次元の異なるものである。同じ精神科医療をやっていても、どうしてこれほどまでに違うのか?その原因は、医療側の「治す力」にある。「治す力」とは、何か?という点については、改めて取り上げることにするが、いずれにしても、患者の「維持」は精神科医療の真髄ではない。しかし、それがすべてであるという医療関係者の常識をベースにした医療の実態は、大問題である。精神科医療に携わるすべての人によく考えてもらいたいテーマである。

              新しい心の分析教室:精神科医療の課題(1)

  多くの精神科医は勤務医を辞めて、診療所(クリニック)を開こうとしているが、私は自分のクリニックを閉院し、勤務医になった。もっとも、私の場合は精神病院ではなく、大学を辞めてクリニックをやったのだから、クリニックを始める動機が他の精神科医とは少し異なっていたかも知れない。学位を取り、留学を終えたのだから、大学に留まれば、ほとんど自動的に管理職になっていく。そんな道を、私は選ばなかった。なぜならば、すでにその当時、精神病の成因を解明しつつあったが、もし大学に留まって雑用の日々に追われれば、その研究を続けられるという保証はなかったからである。常識的には「大学にいてこそ、研究ができる」のであるが、私の場合は「大学にいると、研究はできない」という判断があった。そして、その判断は正しかった。なぜならば、私は自分のクリニックで一人黙々と精進を続け、「精神分析統合理論」を完成させたからである。

  ところが、この人類初の仕事を成し遂げてみて、今度はクリニックを辞めようと思った。確かに私も年を取り、「これ以上、根治療法を続けるのが辛い」という思いもあったが、もし「精神分析統合理論、第一部、情動制御理論」の中に収められている二つの論文「精神病根治療法の定式化」と「精神病根治療法の具体的定式化」が書けなければ、そのままクリニックで根治療法に挑み続けていただろう。あるいは、それまで私費による根治療法をやってきていたから、これからはむしろ保険診療をする方向への転換を考えても、何ら不思議ではなかった。折角うまくいっているクリニックを畳むよりも、そうした選択の方が柔軟であるとも考えられる。しかし、そうした考えを抱いた時、私は強い違和感を覚えた。なぜならば、保険診療の導入は、薬物療法による通院の維持が主目的だからである。しかも、クリニックを維持するためには、ある一定の通院患者を確保しなければならない。それを考えた時、今まで治すための治療をやってきた私とは、水と油の関係であり、そういう自分自身を承服することはできなかったのである。

  正直言って、「治すシナリオ」を作り出すことは大変であった。精神分析統合理論の最後の部分で触れたように、患者の家族の参加と協力を求めたものの、中断あり、家族の発病あり、といった具合で、根治療法は困難を極めた。しかし、上記の二つの論文を作る上においては、これらの比較ができたからこそ、可能になったという皮肉な結論がある。すべてうまくいけば、はたして精神分析統合理論を書けたかどうか疑わしい。そして、とりあえず「治すシナリオ」はでき上がった。それでは、この「治すシナリオ」が「治す現実」を携えているか?となると、返答できなくなってしまう。家族の参加や協力に限界があるからこそ、二人の分析医でやってみるという発想は、極めて自然なものである。しかし、それをこれから手掛けるとなると、私と組んで根治療法をやってくれるパートナーを探さなければならない。はたして精神病根治療法に挑戦してくれる精神科医はいるだろうか?ただ単にそうした意欲だけ持っていても、それだけでは不十分であり、自らの精神的な問題をも克服していなければならない。しかも、精神病根治療法を手掛ける前に、重症人格障害、たとえば境界性人格障害や統合失調質人格障害の根治療法をやれるだけの治療能力を備えていなければならない。はたして、こうした諸々の条件を備えた精神科医が私の身近にいるだろうか?誠実、かつ謙虚な気持ちで、精神分析統合理論を習得してくれる精神科医はいるだろうか?このホームページの中で、私は「精神科教育の課題」と題したページを作ったが、これから老いて行く私がそうした若い人達とペアを組んで根治療法を手掛け、自分の作った実践理論の実証性を確かなものにしていくという作業は、私の限界を超えるものである。そういうわけで、「治すシナリオ」はできたものの、それを活用する手段が見つからないのである。もったいない限りである。

  たとえ「治すシナリオ」を作り上げても「治す現実」を作り上げることは、至難の業である。精神科医療の現状をみても、未だ入院患者の人権の問題に右往左往している。むろん、これはこれで重要な問題ではあるが、その背後には通院が前提になっている。しかし、その通院の内容は、まさに「処方依存」者である精神科医と、「医原性薬物依存」者である患者との関係の場以外の何物でもない。三か月入院すれば、三か月退院し、再び三か月の入院をする。短期入院と言っても、こんな繰り返しが多くなるのではないか?だとすれば、二十年の長期入院が、二十回という入院回数に代わるだけのことである。はたして、「治す現実」がどこにあるのか?しかも、最近では、精神科においても他の診療科と同様に、いわゆる学術学会が「専門医」制度を作ろうとしている。その真意がどこにあるのか、わからないが、もし精神科医がそれに加盟すれば、加盟したメンバーは専門医になれるらしい。はたして、専門医という称号を与えられた精神科医は私の要求を充たし、かつ「治す現実」を可能にするだろうか?残念ながら、現状においては、そうした展望を抱くことができなかったので、私はそれに加盟しないことにした。いずれにしても、さしあたって必要な「治し屋」の数は、いわゆる専門医の数パーセントで十分であろう。私はそういう人達の資格獲得のための制度化こそ、これからの時代には重要であると考える。選り抜きのエキスパートを養成し、その人達に資格を与える。つまり、そうした人達こそ「治す現実」を担い、患者を減らすことができるのである。

  ここまで書いてきて、少しずつ問題点が整理されつつあるが、大雑把に四つ位の課題が生ずる。第一は、「二人の分析医が同時に根治療法をやる」ことによって、本当に「治すシナリオ」が実証されるかどうか?私の話を聞いた、ある精神科医は、その実証性についても、私が十分に証明してはじめて提出できる課題ではないかと忠告した。それを聞いた私は少々腹が立った。咄嗟に「それじゃ、あんたは何をするんだ?」と尋ねようと思ったが、いろんなことを考慮し、相手にしないことにした。確かに、実証性に関する課題を誰かに任せると危険であるという思いもある。すなおで誠実な検証者であれば心配はないが、己の無知とうぬぼれに気づかぬ検証者では困る。そういう人は、何かを作るというよりも、むしろ壊してしまう傾向を持つので、注意を要する。こうした懸念は、第二の分析医の養成という課題につながってくるが、とにかく真剣に「治す現実」を作っていこうとする思いを抱き続けられる分析医がいなければならない。そうした思いを共有できれば、この課題については、一定のメドが立つだろう。第三は、どういう施設を使用するかという点が課題になる。いきなり、そうした施設を設けることは不可能であろうから、どこかでこうしたプロジェクトを企画してくれる場を見つけなければならない。私の単純な思い付きとして「心のセンター」あたりが妥当ではないか?多くの人に「心のセンターとは、何をするところですか?」と尋ねても、答えられない人が多い。ある精神科医は「啓蒙的役割」を持つところであると答えた。しかし、どこかの県のセンターの所長の作ったパンフレットを読んでみたら、「統合失調症は家族のせいではなく、くすりを飲めば治る病気」であると書かれてあった。一体、これのどこが啓蒙なのか?実際にはいろんなことをやっているのだろうが、やっていることが目立たず、はたして効果的な内容なのかどうかも疑わしい。だから、そうしたところを改善し、「根治療法の場」にすればよいと思うが、私の一方的な思い込みだろうか?さらに第四は、それにかかる費用、つまり予算の問題である。これはそんなに難しい課題ではない。「くすりによる通院の維持」にあてている保険診療のための予算を一部削り、「治す現実」の予算に回しさえすればよい。クリニックで処方される薬物が、患者の家のダンボールの中に仕舞い込まれているという現実については、すでに紹介したが、実際のクリニックでは、もっと露骨なことが生じている。数分の面接によって、まず三千五百円を、そしてその上に高額な薬を処方するので、一万円ほどの請求になるが、クリニックでは患者様に治療費控除の申請を提案し、その負担を一割程度に抑える。こうした内容は極めて一般的である。しかし、この方法で本当に患者は救われているのだろうか?救われているのは、クリニックを経営する精神科医ではないか?常識的には、何の治療技術も持たない精神科医の面接時間が三十分にも満たない場合は、千五百円から二千円で十分である。つまり、半額で十分であり、残りの半額はエキスパート養成のための資金や、エキスパートの報酬にあてるべきである。

  はたして、本当に患者のことを考えている医療機関がどれだけあるだろうか?もし、こうした私の憂いに対して、「そうではない!」と、はっきり否定してくれる医療であれば、私が提案する「治す現実」という視点に関しても、真剣に考えてくれるはずである。経済的にみても、たとえば二十歳代に発病した統合失調症の患者が、八十歳まで生きられる場合、年間たとえば百万円の補助金を出すとして、六千万円の負担になる。しかし、もし根治療法が可能になって患者が健康になり、社会的にも生産的に生きていけるようになれば、一時的にかかる費用は三分の一以下に減少する。そうした点を、厚生労働省によく考えてもらいたい。我々が「治す現実」を獲得できれば、社会そのものの心の健康というレベルも上げることができる。そうすれば、多数の自殺者を出すこともなくなるはずである。ぜひ、私が二十年以上をかけて作り上げた「治すシナリオ」を有効に使ってもらいたいものである。

              新しい心の分析教室:精神科医療の課題(1)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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