難治と禁忌

 難治とは、様々な疾患群の病状が固定し、それによって、病状の改善や回復が図れない時に使われやすい用語である。特に精神疾患では、知的障害や認知症などの器質性疾患が該当しやすい。その他にも、統合失調症や躁うつ病のような精神病や、重症人格障害を中心とした病的状態で、発症から早期に治療を開始しなかった場合、病状が固定し、患者は日常的な苦しみ方を受け入れてしまっている場合が多い。このような状態では、たとえ改善や回復の方法があっても、患者がそれを受け入れ、治療に専念するという変革が見られない。そうした場合、難治であると表現する場合が多い。

 禁忌と言えば、ある特定の疾患群に対して、ある治療薬を使用してはいけないという時に使用される場合が多い。ところが、グーグルやヤフー・ジャパンで「精神分析療法」を検索すると、「精神分析療法 禁忌」という関連キー・ワードが載っている。さらに、それを検索すると「精神分析療法に関するQ&A-Yahoo!知恵袋」が載っていて、その質問の中に「統合失調症の人に精神分析療法はなぜ禁忌なのですか?教えて下さい」とある。この問いに「精神分析とか、フロイトに科学としての根拠が全くありません。医師という国家資格を悪用して、患者さんを騙すのは、社会通念上、到底、許容できません」と回答してある。これは小池誠さんという方の回答であるが、ベストアンサーに選ばれている。

 この回答に、私のコメントはない。ただし、臨床の場において、通院してくる統合失調症の患者さんの中には、主治医を信頼しようとして、ごく自然な思いを寄せてこられる方も多い。その時、たとえ主治医は患者さんの訴えを聞いているだけであっても、患者さんの方で強い感情転移を起こしてくる場合がある。その転移の性質を見極め、適切に対応しないと、入院治療などの、もっと踏み込んだ治療が必要になる場合もある。あくまでも、これは診療の一場面に過ぎないが、あえて精神分析療法と名付けなくても、感情転移は日常の診療の中で無数に発生している。その対応の際に精神分析療法を知っているのと知らないのとでは、天地をひっくり返すほどの違いがある。それを上記の回答のように片付けてよいかどうか…

 

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精神分析と自己分析

 今ここで、精神分析とは何かをテーマにしない。すでに、当サイトでは、自己分析についても、そして精神分析と自己分析の違いについても紹介している。その上で、もう一度、これらについて取り上げようと思ったのは、はたして「自分で精神分析ができるのか?」という問いに答えるためである。精神分析(精神分析療法)の場合、必ず治療者などの他者に対して感情転移を起こす。だから、その他者がいないと、精神分析はできない。だから、精神分析は自分一人ではできないのである。ところが、グーグルで「精神分析」を検索すると、その検索キー・ワードの中に、まず「精神分析療法 禁忌」があり、次に「精神分析 自分で」がある。何とも奇妙な組み合わせである。しかし、こんなことを取り上げると、専門家から「しょせん、広告検索の域を出ないものを相手にガミガミ言うと、自分もそのレベルに落ちますよ」と忠告されそうだが、指摘できるところは指摘しておいた方が、これから学ぼうとする人に間違った知識を植え付けないためにも意味はあると思う。

 

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認知科学と情動認知科学

 現代の、知覚や思考はもちろんのこと、情動や意識、それに言語についても、その研究母体は認知科学である。換言すると、認知科学は知覚を前提とする科学である。しかし、その知覚から思考以下のすべての精神現象を解き明かそうとするのは無理である。なぜならば、知覚は生命の道具であり、その本質ではないからである。むろん、その本質は「快・不快」である。そして、その「快・不快」を研究の中心に据えるのが、情動認知学である。

 不快を快適に変更するためには、我々は我々に与えられたすべての道具を使いこなす。そのひとつが知覚である。したがって、そこからすべてを説明しようとしても、それは不可能である。しかし、そんなことは(みんな)うすうす気づいているのかも知れない。たとえそれに気づいて、今まで続けてきた研究を止めてみたところで、それにとって代わる素晴らしい研究があるというわけではない。(工学的研究の確立した情動認知学があるわけではない。)だから、わざわざそんなことを言う私に、不快を抱く人もいるだろう。確かに、現時点において、生命の本質である「快・不快」から研究を始めると言っても、「それじゃ、具体的にどうするんだ?」と開き直られると、私の方も困ってしまう。

 

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文脈効果と文脈

 何だかタイトルが逆様で、「文脈と文脈効果」の方が自然の順ではないかという印象を与えるかも知れないが、そうではない。ネットで文脈を検索すると、やたらに文脈効果という用語がクローズ・アップされているので、これもまた、どうしたことかと奇異感に襲われる。そこで、少し調べてみると、まず文脈効果という現象があり、次にそこから文脈の意味が抽出されようとしている実態が浮かび上がってくる。その一例を挙げる。「文脈効果|心理学用語集サイコタム」からの引用である。

 文脈効果は、知覚・認知・言語・記憶に関する概念で、その前後関係から対象となる刺激の知覚過程が影響を受けることです。例えば、「のり取って」と言われたとき、それが食卓であれば食べ物の海苔のことを指していると思い、また、相手が何かを貼ろうとしている状況なのであれば、文房具の糊のことを指しているとわかるでしょう。これが、言語における文脈効果の例です。

 これは、明らかに文脈を取り上げているのではなく、文脈効果と呼ばれる現象についての説明である。まず状況判断を必要とする設定があり、次にどの「のり」がその状況に適しているかを示す例である。しかし、これは文脈と何の関係もない。むろん、この例は文脈について語ってはいない。あくまでも、文脈効果と呼ばれる現象に関する説明である。しかし、文脈という範疇の中で語られているので、なんとも誤解を招きやすい掲載のされ方である。そもそも、文脈とは何かという問いに対する答えが定まっていないので、やむを得ないのだろうが、今後、見直しや改善の必要な個所の多い分野である。

 

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人工精神と精神転送

 人工精神は私の専売特許である。現在は専ら人工知能に関する研究が中心であり、未だ人類は人工精神という概念を実用化するレベルに達していない。しかし、残された課題は「快・不快」の数式化だけなので、そのうち時期が来れば、新型コロナが世界を一変させたように、今度は良い意味で、その発見が世界を一変させる時代が訪れるだろう。

 ところで、人工精神を検索すると、いつもついて回る概念に精神転送というのがある。(その逆に、精神転送を検索しても、人工精神は出てこない。)この精神転送とは「トランスヒューマニズムやサイエンス・フィクションで使われる用語であり、人間の心をコンピュータのような人工物に転送することを指す」用語であるという。これもまた奇妙な言葉(奇妙な発想)だが、わかりやすく言えば、自分の心を何らかの機械に移そうとする試みのようだ。すぐに「何のために?」と問いたくなるが、同時にその答えを知りたいとも思わない。機械に転送し残せるような立派な心であれば、その価値があるかも知れないが、そうでなければ、恥を晒すような結果になるのではないか・・・そもそも、そんなことを考える人は、自分の心について、あまり多くのことを知らない人ではないかと思う。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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