情動脳と様々な認知学説

 「情動脳」と呼ばれる脳部位(脳領域)が、大脳辺縁系のあちらこちらに存在し、それらがつながって、一種のループを作っている(それが様々な精神力動を生み出している)。それにもかかわらず、その情動が「生理的興奮+認知的解釈」であると言われ続けるのはなぜか?悲しさや怒りが、我々の生理現象を巻き込むという現実は、時々存在する。しかし、たとえ眠れなくて、食欲がなくても、それを(いきなり)鬱病とは言わない。むろん、鬱病に罹ると、その部分症状として、眠れなかったり、食欲がなくなったりすることはあるが、だからと言って、その逆が正しいとは言えない。

 「泣くから悲しい」と、本気で考えている人はいるだろうか?この考えに賛同する人はどれだけいるだろうか?説明するまでもなく、この考えは本末転倒であり、かつて天動説が地動説に変わったようなチャンスが、この考え方にあると錯覚しているような人がいれば、それは誤りである。つまり、それは真実としてあり得ないので、その考えは放棄した方がよい。なぜ、これを正しく「悲しいから泣く」という、ごく自然な方向へ転換できないのだろうか?私にはその理由がわからない。何か、それを覆すと、困ったことにでもなるのだろうか?いずれにしても、本末転倒しているところから、真実は生まれない。(ちなみに、『精神分析統合理論』では、シャクターの「情動二要因論」を取り上げ、この学説を支える実験が一種のトリックに相応するという解説を試みている。)

 

                         情動と言語(1)

自然言語処理と機械翻訳

 自然言語処理については素人であっても、ひとつの大きな(おそらく深刻な)問題が浮上する。ひとまず、自然言語処理の本道は機械翻訳にあるという主張を受け入れる。すると、おそらく近い将来において、翻訳家という職人(研究者)はいなくなるだろうと想像する。ところが、あるサイトでは、将来においても、翻訳家は存続し続けると断言している。一体、これはどうしてなのか?余談であるが、人工知能(AI)に、ある日本語文を英語に翻訳させ、翻訳したその英語をもう一度日本語に翻訳させるという作業をさせると、全く異なった日本語文になってしまうらしい。しかし、それでは一体、何のための自然言語処理なのだろうか?

 自然言語処理を用いた会話の技術はどういう現状にあるのだろうか?かつてのチャットボットは「はじめまして」から「さようなら」まで、その内容は極めて陳腐なものであった。しかし、今は人工知能(AI)同士を対話させることによって、会話能力を高めているらしい。しかし、現時点においては、未だ画期的な会話を作り出せるような人工知能(AI)は存在しないようだ。とにかく、つながった会話を深める(つまり会話を掘り下げる)技術の開発に成功しなければならないが、そのためには、よほどしっかりとした文脈形成が必要である。なお、言語に先んじて(言語に相応した)感情(情動)を作ろうとする方法もあるようだが、そのような人工物が感情言語を理解し、感情言語を表出することができるようになる可能性はないと言っても過言ではない。

 

                       情動と言語(1)

意識から発生する意味と言語から発生する意味

 意識も言語も、その発生の起源は情動(快・不快)にある。生命現象の進化の順として、まず快・不快から意識が発生し、次に快から言語が発生した。意識は不快に対処するための選択的な判断を行なうので、当然、その意味を理解しなければならない。ただし、意識を持つ(人間以外の)動物は(原則として)この域を出ない範囲(不快ー防衛系)の意味理解が可能である。これに対して、言語は専ら快より発生している。かつて、一時的に難を逃れた人間が集まって、様々にコミュニケーションのあり方を模索し続けたのだろう。そして、ついに個々の人間が持つ不快のコントロールのメカニズム(不快ー制御系)を発見し、救いや許しを発達させ、集団、ひいては社会を形成するに到ったのだろう。

 しかし、今や言語は諸々の現象に意味を持たせ、何が言語の本分であるか、わからなくなってしまった感がある。それは、言語が(我々の健康な心を培う本来の意味を遥かに逸脱し、)快追求だけの代物、つまり好奇心をかき立てるだけの代物に成り下がってしまったような印象を与えるからである。そこで、多くの研究者は(上記の)発生メカニズムには気付けなくなり、ただただ(言語の発生源から放射状に)拡散した「感情潜在言語」の虜になってしまった。(確かに、どの部分を取り出してみても、言語は言語に変わりはないのだが、)すでに拡散してしまった言語の領域だけを研究の対象にしても、その解明は限定され、人工的に作れる部分は(原則的に)構文までである。(大規模言語モデルによって、既存の文章を抜粋などして、それなりの要約は可能になっても、生きた会話の力は未だゼロに近い。)つまり、言語の発生源に迫れなければ、文脈を扱うことはできない。

 

                          情動と言語(1)

言語の本質と言語の意味理解

 意識研究は、情動に関する認知的側面をクローズ・アップしやすいのに対して、言語研究は、情動に関する認識的側面、つまりメタ認知的側面をクローズ・アップしやすい。つまり、意識だけでも、体験を通して記憶し、それぞれの状況の際に、どのように記憶したか、そして、その記憶を辿ってどのように行動するかといった認知的理解は可能である。しかし、それぞれの体験と記憶を比較し、いずれの方が良いか、あるいは、いずれの方が優れているかという(もう一段階レベルアップした)選択はできない。さらに換言すると、意識だけの場合、ある快・不快をめぐる選択はできるが、意識に言語が加わらなければ、二つ以上の選択肢のいずれかを選択するという認識的理解はできない。

 ここで、この原理を応用した、ちょっとした例を取り上げてみる。たとえば「悲しい音楽を楽しむ」という場合、悲しみという辛い気持ちを、音楽という手段を用いて、楽しい気持ちにするという意味である。だから、ここに存在する意味は(不快ー防衛系、この場合は「弱い自己ー理想的自己」という自己防衛ユニットが機能するので、)自慰的である。自慰的な体験や記憶は、あくまでも認知的な意味を持つが、認識的(メタ認知的)な意味を持たない。ただし、その悲しい音楽が歌詞を持っているということになれば、話は変わってくる。つまり、もしメロディーだけであれば、その悲しいメロディーがどんなに心地よいものであっても、それは認知であり、認識(メタ認知)ではない。しかし、もし悲しみを表わす歌詞とメロディーであれば、その心地よさは認識(メタ認知)を形成し得る。なぜならば、歌詞は言語だからである。

 

                         情動と言語(1)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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