意識(ニューロン)はどこに?

 今からほとんど半世紀前に(はじめて)聞いた用語だが、ずいぶんと月日が経った。「脳幹網様体賦活系」と言えば、意識ニューロンの所在地を表わす言葉であったように記憶しているが、最近では、覚醒のための発生メカニズムを説明するための用語に変わってきているようである。たとえ意識ニューロンが存在しても、それは一種類かどうかわからないし、しかも、一箇所に群生しているかどうかもわからない。『次世代の精神分析統合理論』の中でも紹介しているように、意識ニューロンには沢山の神経伝達のあり方が存在すると考えられるので、その錯綜した神経伝達のあり方を一つ一つ同定していく作業は容易ならざるものであろう。しかし、意識の原理をわきまえてさえいれば、たとえどんなに複雑な神経伝達であっても、やがてその実態は明るみに出されるだろう。(なお、意識ニューロンの所在に関する議論は、意識障害の議論とは別である。)

 

                        意識研究(1)

意識(ニューロン)の在り処の大体の見当

 中脳から間脳にかけて、多くの意識ニューロンが存在しているだろうと(私を含めて)多くの人は予測している。最近、高齢者が増えて、脳梗塞や脳出血などの脳卒中患者をよく診るが、たとえ知覚麻痺や運動麻痺が起こっても、意識に問題のない患者が多いので、大脳半球に意識ニューロンがないことは確実である。しかし、脳卒中を契機に、てんかんを発症すると、一時的に意識がなくなる。また、間脳の視床という場所に血管障害を起こすと、体には何の損傷もないのに、全身に激痛が走る。てんかんの場合は、断続的に意識への(不快)入力が阻害されるのだろうし、視床痛の場合は、継続して意識への(不快)入力が過剰になっているのだろう。つまり、情動脳から意識ニューロンへの神経伝達の遮断、そして視床付近からの過剰な痛み刺激の流入といった点などを考えると、やはり中脳から間脳にかけて、多くの意識ニューロンが存在するという結論になる。(なお、意識ニューロンの所在に関する議論は、意識障害の議論とは別である。)

 

                         意識研究(1)

逆行性収斂

 『次世代の精神分析統合理論』の副題に、意識とは「選ぶための迂回路を進む船頭」としたが、どの刺激を有効にし、どの刺激を無効にするかという選択を可能にするためには、意識ニューロンという迂回路を経由することによって、それを可能にする方法が存在すると考えられる。しかし、その際、意識ニューロンには(選択の)事前に、照らし合わせをするための情報が届いていなければならない。その原理が逆行性収斂である。つまり、逆行性収斂とは、裏街道を急ぐ忍者のような存在である。未だ、この逆行性収斂がお粗末であった頃において、意識ニューロンはうまく選ぶことはできなかっただろうが、次第に記憶し、学習するうちに、極めて性能の良い逆行性収斂を発達させるようになったのだろうと考えられる。そして、その迂回路を(本道に先回りして)進む船頭のプロセスが意識体験である。だから、意識体験を迂回路であると言ってもいいし、あるいは迂回路プロセスであると言ってもよい。

 

                         意識研究(1)

夢は意識ではない

 まず「前意識⇔無意識」という本道があり、次に「⇔前意識⇔意識⇔無意識⇔」という迂回路がある。むろん、夢は本道の中で形成される心的現象であり、迂回路が発生すると消失する。その最もドラマチックな状況は、夢の中で誰か(何か)に襲われそうになり、まさに目覚めに追い込まれ、覚醒させられる場合である。いかに無意識と意識が異なっているか、この差は歴然としている。むろん、夢は不快ー防衛系の内容ばかりではない。時には、不快ー制御系が活性化している夢を見て、たいへん清々しい目覚めを体験する場合もある。上記の「前意識⇔無意識」という本道は、不快ー防衛系と不快ー制御系の混合を意味する。それを分別させるために、意識は無意識からの刺激に対して、前意識を味方につけ、何らかの対応を引き出そうとする。それが意識の根源的な意味付けである。

 

                         意識研究(1)

意識は統合機関ではない

 もし「意識⇔無意識」であったり、たとえ前意識が存在しても、フロイトの言うように三層構造(局所論)であったりすれば、私が主張しているような意識の発生メカニズムを見つけ出すことはできない。しかし、そうなると、別に意識の特徴を見出さなければならないが、そうした時に見つけやすいのは、集合した脳内活動電位(の目立った大きさ)である。はたして、そこに生じている活動は何か?一番の可能性は夢であろう。夢による活動電位であれば、周囲から際立って大きいので、それはまるで覚醒している時とほとんど同じような脳内活動電位の様相を呈するだろう。換言すれば、それは周りの脳活動に比べ、「統一性」と「個別化」を保持していると観察され、その所見が意識であると解釈される可能性がある。確かに、不自然な解釈ではない。しかし、はたしてその脳活動の集合体が、本当に意識を表わしているかどうか?脳波上、どんなに夢の波形が意識の波形に似ていても、似て非なる可能性もある。それゆえ、統一性と個別化を備えたニューロンの電気活動の総和を、意識であると決め付けるのは適切であるかどうか、疑わしい。

 *詳細は意識研究(3)を参照

 

                         意識研究(1)

それでも、意識が統合すると言うのだろうか?

 統合失調症にも鮮明な意識がある。しかし、彼らの情報は決して統合されてはいない。混乱した情報で右往左往する彼らの精神状態は、彼らの会話に現われる。しかし、それでも、彼らの意識ははっきりしている。ある時には、現実の声で質問され、それとほとんど同時に、今度は幻聴から別の質問をされ、患者は一体どちらに反応したらよいか、全くわからなくなっている。再び繰り返すが、それでも、なお、彼らの意識ははっきりしている。はたして、そのような状態であっても、意識は情報の統合機関であると主張してよいのだろうか?私には、無理があるような気がする。すでに、意識とは逆行性収斂を用いた迂回路プロセスであると定義付けている私にとって、意識が何をどのように統合するのかという疑問は生じない。まして、夢もまた統合された意識であるなどと主張されると、それは研究の根底に問題があると反論せざるを得ない。

 

                         意識研究(1)

意識への情報入力

 「新」局所論において、意識は前意識および無意識との間で、相互交流を保有する。それを「前意識⇔意識⇔無意識」として表わす。今回は「前意識→意識←無意識」の動態について紹介する。もし前意識が存在せず、「無意識→意識←無意識」の関係であるならば、無意識から意識への入力は、本来「予測なし」であるから、予測のない情報が「突然」両方向の無意識から意識に侵入し、意識はまるで挟み撃ちにあったかのように、敵が攻撃してくるような心的状態を体験する。むろん、そうであれば、意識は本来の機能(理解と判断、差別化とベクトル化)を発揮することはできない。一方からの無意識からの入力は仕方がないとしても、せめて、もう一方からの無意識からの攻撃や侵入を何とか和らげることはできないものか?実は、そのために前意識が機能し始めた。この前意識は記憶を保有することができる。つまり、前意識は「記憶の貯蔵庫」である。前意識に何らかの記憶があれば、意識はそれに関連する突然の事態に対して、前意識の力を借りて、予測することができるようになる。むろん、それは一方向からの入力だけにおいて可能であり、もう一方の方は、たとえ意識が無防備の状態であっても、容赦なく意識に侵入する。無意識からの入力は、意識にとって一種のかく乱だと言ってもよく、いかなる刺激も不快であり、ストレスになり得る。これに対して、先ほどの機能を持つ前意識があれば、「それは、この前のあの時の入力情報のようですね」という具合に、前意識は意識に少しゆとりを持たせることができる。たとえ一方からであっても、意識にとって味方をしてくれる存在がいれば、もう一方からの、無意識からの意識への攻撃や侵入は相当に和らげられる。

 はたして、動物も人間も同じような状況に遭遇するのだろうか?おそらく、人間の場合を動物の場合と比較することはできないだろう。一般に、動物の場合は、侵入する入力情報に対して、それを完全に阻止してしまうほど、記憶の状態は立派なものではない。それゆえ、無意識からの入力情報は、容易く意識に届いてしまう。こうした動態を、情動因子を用いて表現すると、まず前意識の関与しない無意識から、突如、(自己や対象)不快因子が意識に侵入する。すると、意識は動転し、「不安こそ、解離である」パニック状態に陥る。これに対して、貧弱な前意識では、反対側の無意識からの入力の侵入を多少和らげるようにして、意識をサポートする(報酬系由来の)自己防衛因子と、ほとんど予測することのできない(嫌悪系由来の)対象防衛因子の両者が、意識に入って(自己や対象)不快因子と対峙する。これが、不快ー防衛系の精神力動である。これに対して、人間の場合は、動物よりも遥かに前意識が発達するので、自己防衛因子だけではなく、対象防衛因子に対しても、強いネットワークでもって干渉し、意識への侵入に対する影響を奪い取ってしまう。それは、もっと性能の良い不快ー制御系が機能することを意味する。つまり、もし無意識から突如、意識に入力情報が侵入しても、そうした不快因子に対して、前意識は様々な制御因子を準備することができ、それによって不快因子を拘束することができる。換言する。たとえ意識が不快ー防衛系に対して迂回路プロセスを遂行しても、その成果は限定的なものに過ぎない。つまり、前意識のネット形成への見返りが少ないということである。他方、不快ー制御系に対して迂回路プロセスを用いた場合は、前意識において様々な不快因子を拘束することのできるノウハウが蓄積され、(つまり、そのために緻密なネットワークが形成され、)たとえ新たな情報の侵入があっても、それに対する新しいアプローチの仕方を引き出すことができるようになる。そして、その場合に活躍するのは、まさに言語である。

 

                       意識研究(1)

意識からの情報出力

 「新」局所論において、意識は前意識および無意識との間で、相互交流を保有する。それを「前意識⇔意識⇔無意識」として表わす。今回は「前意識←意識→無意識」の動態について紹介する。もし前意識が存在せず、「無意識←意識→無意識」の関係であれば、いかなる意識体験も記憶されることはない。そうなると、思い出すことはなく、むろん内省することも学習することもない。しかし、その結果、意識への入力情報に対しても、予測することのできない心的状況が続く。むろん、そのような状態が日常的に続けば、意識は間違った理解や判断を繰り返すことになり、生存が困難になってしまう。換言する。もし記憶の貯蔵庫である前意識がなければ、つまり、一旦、意識から無意識へ情報が出てしまえば、その瞬間、すべてを忘れる。その忘れ方は半端ではない。すっかり忘れてしまい、思い出すことはない。それを精神分析的に表現すると、その忘れを防衛と呼び、(何を忘れるかによって)抑圧や否認などを区別する。これに対して、意識から前意識へ情報が出れば、その出力情報は前意識に留め置かれることによって、意識を支えることができる。ネットワークの形成である。ある記憶が連なって概念が形成され、その概念から様々な表象が形成される。特に重要な表象と言えば、ひとつは人物表象であり、もうひとつは言語表象である。つまり、前意識は(様々な情動を持つ人物表象によって構成された)情動制御システムの担い手であると同時に、(情動制御システムに沿って発達し続ける)言語システムの担い手でもある。この両者について簡単に触れておこう。

 様々な情動を持つ人物表象が形成され、それが情動因子として活躍する情動制御システムを構成するようになると、人格つまり自己を形成するようになる。ただし、そうした人物表象に匹敵する表象は、動物でも「不快ー防衛系」の中に存在する。再三、紹介しているように、動物に存在する人格(自己)は、人間にとって病的な人格(自己)であり、多様化して存在するほどのものではない。(不快ー防衛系の「自己」に匹敵する情動因子は「理想的自己」と「処罰的自己」だけである。)これに対して、人間の健全な人格(自己)は、救いの環や許しの環を形成することによって、様々な人格を作り出す。そして今度は、その「人格としての自己」が意識にいろいろ語り掛けるという心の仕組みが出来上がる。つまり、人間の健全な(言語的)意識は、自分に必要な「人格としての自己」を作る手助けをするだけではなく、それが十分に機能するように注意や理解を傾ける。その意識と人格をつなぐ立役者は言語である。いわゆる言語学は、ソシュールからチョムスキーを経て、類型論としての認知言語学に到る歴史を持っているが、私はこの変遷だけによって言語学全体を語ることはできないと考える。多くの言語学者は、言語の本質は言語の「普遍性と多様性」にあると考えているかも知れない。しかし、私はそれらと違った見解を持つ。私は言語の本質を情動、つまり「快・不快」に求める。そして「情動認知言語学」を提唱する。(誤解のないように言っておくが、私は認知言語学を否定しているのではない。その不備を補おうとしている。)意識研究(2)の中の「意識のハードプロブレム」においても紹介するが、「⇔知覚系⇔思考系⇔情動系⇔」の三つ巴の関係の「知覚系⇔思考系」の二者だけに注目して認知科学を標榜しても、そこから意識や(本質的な)言語は発生しない。やはり、情動系の存在は極めて大きい。そこで、類型論としての認知言語と、情動制御に基づく情動認知言語(感情言語、感情関連言語、感情潜在言語)の両者をドッキングさせてはどうかと考える。なぜならば、言語システムは情動制御システムに則って機能していると考えるからである。情動制御システムの作り出す人格構造が、正常と異常とを区別する(健康な自己と病的な自己とを区別する)ことのできる、様々なレベルの言語理解と言語表出を提示する。その区別を厳密なものにするために、「言語的意識」を持つ人工精神(AM)を創発しなければならないと考える。

 

                        意識研究(1)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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