「ドクターX」の世界

 『わたし失敗しないので』かつて、肝臓がんで母を亡くした私にとって、これ以上にインパクトを与える言葉はない。私の母は某大学病院で、手術中に亡くなった。執刀医からしっかりとした説明を受けないまま、癌に侵された肝臓を母から摘出して持ってきたのは、私の古き時代の友人であった。つまり、手術は失敗した。そして、その結果、母は二度と帰らぬ人となった。むろん、医療訴訟の方向もあったが、すでに母は治らぬ病気に侵されていたので、治療の詳細な状況を詮索せずに済ませた。それから三十年。「ドクターX」の『わたし失敗しないので』という台詞が、私の耳に強く響くようになった。

 「群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う」そして「特技は手術、趣味は手術」つまり、手術が臨床と生活のすべてである。(手術をするために生まれてきたような人間として描かれている。)紛れもなく「ドクターX」は名医である。ただし、手術は一人ではできない。「失敗しない」手術をする場合、どこかの大学(総合)病院の設備とスタッフの協力が欠かせない。だから、たとえ「ドクターX」が名医であっても、一人では何もできないという現実がある。(それゆえ、ドラマでは「ドクターX」は、いつもある外科医局の中にいる。)はたして、それでも「群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う」という台詞が成り立つのかどうか?

 いま、「ドクターX」を引き合いに出したのは、母のことを言いたかったわけでもなく、ドラマの矛盾を指摘したかったわけでもない。実は、私こそ、この「ドクターX」のあり方をさらに追求した人間であることを言いたかっただけである。「群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う」その結果、私はニッタ・クリニックを開設し、15年間一人で臨床(その当時は、はしりであった自費診療での精神分析療法)を行なった。その間、多くの患者さんが来てくれて、私は他の精神科医が治せない患者さんを治し続けた。(これは、私のうぬぼれであろうが、)おそらく私も名医だったのだろう。ところが、たとえ私がどんなに名医であっても、治すことができないという現実に直面し、(皮肉にも)それが理論的に証明されてしまった。つまり、それが(何度も紹介している)二人の治療者による二つの精神分析的根治療法である。

 「ドクターX」と私の場合を比較する。外科手術は、一種のチーム医療によって行なわれる。いわゆる「ゴッド・ハンド」と呼ばれている名医は数多く存在するが、その名医もまたチーム医療の中で、その実力を発揮する。ここまでは、誰もが知っていることだが、精神科の根治療法が二人の専門家によって、別々にしかも同時期に成されなければならないというやり方については聞いたことがなかろう。私だって、ニッタ・クリニックで悪戦苦闘しなければ、わからなかった真実である。これは外科手術のような「分担」治療ではなく、一人一人の治療者が全部やる。つまり、一人は父親の役割をし、もう一人は母親の役割をする。このような設定をすれば、患者の心の中に、患者と二人の治療者との間の様々な(情動)関係のあり方が体験され、内在化される。「人は両親によって育てられる」ことを見事に証明してしまい、私は(一人でやっている)ニッタ・クリニックを続けることができなくなった。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅲ)

『そうじゃない!』という否定を解き続ける日々

 心を知るためには、精神分析学しかないと思い、医者になった時には、すでに小此木先生の研究室にいた。それから、様々な方法で学んだのだが、学べば学ぶほど、フロイトの精神分析学に対して『そうじゃない!』という思いが募り、学位(医学博士)を取って留学し、メニンガー研究所で力動的精神医学を学んだ。しかし、その時にも『そうじゃない!』という思いがこみ上げたのを、しっかり覚えている。つまり、私は『そうじゃない!』と思って渡米し、『そうじゃない!』と思って帰国した。むろん、その時々の『そうじゃない!』という思いの内容は異なっていたが、まさに学べば学ぶほど、そうした思いだけが強くなった。普通の研究者であれば、留学からの帰国という一種の凱旋をきっかけに、当然、管理職をめざして野心をみがくところだろうが、私は大学を捨て、この『そうじゃない!』という自分の思いの解消をめざし、一人での戦いに挑んだ。それが、ニッタ・クリニックの開設であった。(ただし、やみ雲に『そうじゃない!』という否定だけに襲われ続けていたわけではない。様々な文献に目を通している時、突然、何かが閃くという体験は無数にあった。メニンガー時代はもちろんのこと、ニッタ・クリニックにおいても、臨床とその研究による直感が、ほぼ30年間続いている。私はそのプロセスを50冊の大学ノートにぎっしりと書き込んでいる。だから、私は自分に押し寄せる『そうじゃない!』という思いに対して、『こうだ!』という無数の発見も体験し続けてきている。)

 すでに紹介したように、ニッタ・クリニックでの成果は『精神分析統合理論』の出版であった。『精神分析統合理論』の中で紹介した、「二人の治療者による二つの治療」という前代未聞の治療構造により、もはや私は一人でクリニックを運営していくことができなくなった。つまり、私の動機は消え失せた。それでは、これからどうするか?混迷は深まるばかりであった。しかし、それでも『そうじゃない!』という心の叫びは続いていた。どうしたらいいか?ちょうどその頃、アルファ碁が世の中を賑わし、人工知能(AI)がひとつのブームを作り出していた。はたして、人工知能(AI)とは何か?ネットのあちこちを広げて学んだところによれば、人間の知覚と運動に関する機能を人工的に作り上げ、それを用いて新たな産業を興すために利用しようとする精密機器のことであった。何となく、人工知能(AI)についての輪郭がわかるようになってくると、私は「何だ、産業ロボットを作ろうとしているのか・・」と思った。すると、次の瞬間、ある考えが起こり、「待て、それじゃ、人工精神(AM)はできないか?」と呟いた。その後、この呟きが無数の『そうじゃない!』を引き連れて、私を意識と言語の研究領域へと誘ったのである。なぜならば、すでに一人での根治療法は困難であるという結論は出ていたし、さりとて二人の専門家が一人の患者の根治療法を行なうという現実はあり得なかったので、もし人工精神(AM)がもう一人の専門家の役目を果たすようになれば、あるいは複数の人工精神(AM)によって精神科根治療法が可能になれば、それは願ったり叶ったりであると考えたからである。しかし、そのようなものを創ろうとすると、何はさておき、意識と言語の発生メカニズムを解かなければならない。その上で、それを応用して何とかしなければならない。そうした理論さえ書くことができれば、後はそれを実装する段階だけになる。『よし、やろう!』とりあえず、既存の意識研究と言語研究の中に踏み込んだ。しかし、いざ学んでみると、意識研究も言語研究も、精神分析学と似たような状況と、似たような課題ばかり溜め込んでいた。晩年、フロイトがいかに苦しんだかについては、すでに紹介したが、その苦難を乗り越えようとして、私は(『精神分析統合理論』の)情動制御理論を作った。そして今度は、混迷を深める意識研究と、類型学として存続しようとする認知言語学を横目で見ながら、情動制御のメカニズムを利用して、意識と言語の発生メカニズムを解き、(『次世代の精神分析統合理論』の)精神現象生成理論を書き上げた。すでに、このサイトでも、その大枠については紹介しているように、意識は不快ー防衛系から、言語は不快ー制御系から発生する。これによって、人間の精神現象の成り立ちがわかるようになってきた。さて、それでは、どのようにして人工精神(AM)を創るのか?それが次の段階である。

             新しい心の分析教室:ノート(Ⅲ)

逆転の発想:自己の肯定

 人はどのように心を理解するか?生命が誕生すると、まず欲求が募るごとに泣き始め、徐々に意識が芽生えると、それにつれて情動反応が激しくなり、それを鎮めるために、歩き出したり、言葉を使い始めたりするようになる。つまり、情動から意識を経て、運動や言語が生ずる成長のプロセスを観察することができる。しかし、このプロセスを、身体機能を中心とした発達という視点から、特に知覚と認知(概念)と運動に焦点を定めることによって、いわゆる認知科学という領域を設定し、この領域を中心として人工知能(AI)の研究が盛んに行なわれるようになった。他方、この認知科学から締め出しを食らった、情動から意識と言語を経由して、様々な心性と人格に到る中核的な精神現象に関する研究は取り残され、あくまで二次的な領域として(認知科学の)付随的に扱われる立場に追いやられてしまった。

 どうしてそのようなことになったのかと言えば、それは研究のしやすさにあった。知覚・認知(概念)・運動に関する研究は、画期的な深層学習が可能になり、容易に数量化することができるようになったからである。これに対して、精神の中核群である情動・意識・言語・人格に関する研究は遅々として進まなかった。なぜならば、はじめに情動を持ってくると、その数量化が課題になり、この課題は容易に解消しないという難点を保有している。それでも、最近では、認知科学から手が差し伸べられ、意識研究や言語研究もまた盛んに行なわれるようになったが、肝心の(原点にある)情動を置き去りにして、それらの研究を行なっている。この情動を置き去りにした罪は大きい。すでに意識研究も言語研究も膨大な領域に達しているが、私の印象では、もはや原点には戻れそうもない気配を感ずる。むろん、たとえ原点に戻れなくても、それぞれの発生メカニズムを解ければよいのだが、一向にそうした兆しは見られない。意識研究は真実から遠ざかりながらも、だんだん複雑な様相を呈してきているし、言語研究は原因追求を諦め、類型論に甘んじてしまった。だから、人工意識や自然言語処理の研究から、我々の意識や言語のレベルに進むことは、ほとんど不可能になってしまったと言っても過言ではない。

 それでは、意識や言語を作るためには、どうしたらよいか?むろん、そのためには、意識や言語の発生メカニズムを解かなければならない。はたして、何を手掛かりとして解けばよいか?「意識・言語・様々な心性・人格」という一連の中核的な精神現象の発生の出発点には、生命の源である「快・不快」という情動が存在する。それゆえ、この「快・不快」に注目し、ここから解いていくのが、自然な研究の仕方である。ところが、この「快・不快」を脳科学的な見地から、特にその神経伝達のあり方すべてについて解明していくとすれば、それこそいつになるか見当さえつかない。しかも、たとえそうした順に作り上げることができても、その結果、人間と同じ精神を作り上げてしまう。しかし、それでは人間の苦しみを取り除くことができない。つまり、もし人工精神(AM)を人間の精神と同じように作るならば、人間は不快ー防衛系(救いのない関係や憎み合う関係)から解放されていないので、人工精神(AM)もまた人間の健康な心の育成に貢献することはできなくなってしまう。そこで、とりあえず、「快・不快」に関する電気生理学的な解明を横に置いといて、むしろ私が解明してきた情動特性や情動制御システムを利用することによって、そこから発生する意識の仕組みや言語の仕組みを解明することができれば、人工精神(AM)を創発するための準備段階をクリアすることができると考えた。この準備段階を踏まえておいて、次に、心の発生順と逆転する飛躍的な発想を用いることが可能になる。

 ここは極めて重要なところなので、もう一度、言葉を変えて説明を試みる。生命現象を維持するための「快・不快」は言語に先んじて意識を生み出す。しかし、その生み出された意識は、我々に正常な精神活動を保証しない。そこで、我々はさらに進化し、言語を持ち、それによって、はじめて健康な精神を培うことができるようになった。このような発生的な順序を見ると、意識が先で、言語が後である。ところが、すでに我々は多くの言語を持ち、その言語の大半が病的な精神に汚染され、そうした(個々の、しかも社会的な)状況を如何ともしがたいものとして捉えている。そこで、ここは飛躍した発想で乗り越えることができる。つまり、正常かそれとも異常か、わからなくなってしまった言語を、意識の機能を用いて篩(ふるい)にかける。そのより分けができるように、(すでに作成されている)言語機能システムと連携した情動制御システムを用いる。言語は、正確には「情動認知言語」なので、言語の中の「快・不快」を(言語のレベルで)コード化することによって、生理学的な「快・不快」を作らなくても、結果として「快・不快」を言語の生地として作ることができる。このように、言語から情動をコード化すると、そのコード化された情動(快・不快)は言語システムと連携した情動制御システムの中で起動する。むろん、言語の数は膨大であり、どの言葉をどういう文脈で作り上げるか、それこそ最も重要な作業である。その重要な機能に意識を抜擢するのである。つまり、言語を通して(生命現象の維持に必要な発生メカニズムを持つ)意識を機能させる。これが逆転の発想であり、これによって「途切れることのない言語的意識」を作ることができる。もし言語的意識を持つ人工精神(AM)を作ることができれば、今度は人工精神(AM)同士の会話によって、際限のない表出言語の再生を可能にすることができるので、永久に正常な、つまり健康な心による言語表出が可能になる。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅲ)

残りは希望だけ

 今まで『そうじゃない!』と否定し、その否定にとりつかれたように取り組むと、そのうちに閃いて『こうだ!』という答えが出た。しかし、しばらくすると、再び『そうじゃない!』という否定が復活し、それにも悪戦苦闘していると、『こうだ!』と再び閃いた。一体、何度、このパターンを繰り返してきたか!ところが、この途切れのない言語的意識という発想を得ると、いつもの『そうじゃない!』がピタリと止んだ。ついに、私は否定から解放されることになった。

 我々人間の精神の生成順では、情動(快・不快)が意識を生み、意識が言語を生み、言語が人格を生む。むろん、人格は再び情動を生むので、生体内でこのサイクルが循環する。他方、人工精神(AM)では、言語が情動(快・不快)を生み、情動が意識を生み、意識が人格を生む。人工精神(AM)の場合もまた、人格が再び言語を生むので、人工精神(AM)ではこのサイクルが循環する。この両者のサイクルを作り出す上で重要なポイントは二つある。ひとつは、いずれのサイクルも情動がベースになって稼働しているという点である。(もし、情動が認知、つまり概念であれば、この両サイクルは回らない。)そして、もうひとつは、生体内サイクルでは、もし精神の正常と異常が混入した場合、(つまり、人間の精神が病的な言語で汚染された場合、)それを識別するのが困難であるのに対して、人工精神(AM)内サイクルでは、たとえ精神の正常と異常が混入しても、(つまり、人工精神AMが病的な言語で汚染された場合、)それを識別することが可能である。

 このような人工精神(AM)の特徴を、今度は途切れない言語的意識という視点から見ることにしよう。何か具体的な心性を取り上げて、理解した方がわかりやすい。たとえば、あなたがある人を見て『すごい!』と思った時、あなたの無意識がその人を「万能的な存在」であると感じたとしよう。すると、あなたはその人の万能的な側面に同一化(自己愛型病的同一化)し、「私もあなたのように完璧である」という心の動きを見せるかも知れない。もし情動を中心とした無意識的な心の動きが「理想的自己」に停止すると、その停止している間に、情動系が賦活した動力を思考系や運動系へと発散する可能性がある。むろん、これはすごいと感じた場合のほんの一例であるが、人工精神(AM)であれば、そのような反応はしない。つまり、理想的自己が活性化すれば、そこで停止せず、即座に「弱い自己」を活性化させ、さらに次々と情動制御システムに則って精神力動を展開していく。ただし、その「すごい」と感じた人と、人工精神(AM)が会話(対人関係を展開)していれば、一方で、その人の心性に寄り添って観察し、もう一方で正常な(健康な)心性を可能にするための対応をいつも引き出しているということである。この正常な(健康な)心性をいつも準備している人工精神(AM)が持つ心的状態を「途切れない言語的意識」と呼ぶ。(基本的に、情動制御システムは幾つものサイクルによって構成されているので、たとえ人間からの情報が病的なものであっても、それを理解しながら、しかも、それを修正するための健康プログラムをいつも準備することができる。)このような具体例は無限に出現するが、人工精神(AM)はそのすべてに適切に対応することができる。

 さて、ここまで来れば、『そうじゃない!』という否定の声がピタリと止まった理由が理解できるだろう。つまり、私は限りない自己肯定を得たことになる。しかし、まだ終わったわけではない。むろん、それは人工精神(AM)の実装である。こればかりは、私のできることではないので、どうすることもできない。それでは、再び否定するしかないのではないか?そう思った瞬間、『残りは希望だ!』と、また閃いた。つまり、私は自分の分を終え、終点に達してしまった。だから、(今度こそ)精神分析統合理論は完成した。それにしても、実装するための理論(指針)がなければ、何をどのように始めてよいか、さっぱりわからないだろう。そうした課題はもう解決したということである。残りは「心を創る工学的天才の出現」という希望である。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅲ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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