フロイトの夢理論

 フロイトの夢に関する考察については、今まで『精神分析統合理論』ではもちろんのこと、『ダイジェスト版・精神分析統合理論』でも、さらには『次世代の精神分析統合理論』でも、絶えずその時々の文脈に応じて紹介し、吟味してきた。しかし、どの著作の中においても、フロイトは夢の本質を捉え損ね、そのために、長い研究生活を苦しいものにしてしまったという、フロイトの苦闘についても触れてきている。それでは、どういう点を捉え損なったのかと言うと、特に攻撃性の処理に関する正常な(健康な)心のあり方を描写することができなかった点である。『精神分析統合理論』では、フロイトの「痰壺のない夢」を紹介し、それを「怒りの受け皿のない夢」として解釈した。すでに読者もご存じのように、フロイトの精神分析理論には、「死の本能」や「懲罰欲求」という概念はあっても、「許し」という概念がない。夢を通して「許し=反撃+謝罪」という精神力動の発見があり、それが私の研究生活の支柱になった。

 

              新しい心の分析教室:夢の原理

夢の本質

 フロイトの捉え損ねた本質を、私は捉え直し、フロイトを修正して、一連の精神分析統合理論を書いた。ニッタ・クリニックにおいて、根治療法に挑んだ多くの患者と私は、夢分析を怠らなかった。夢の報告が患者の病状を改善することはないが、夢の報告によって、患者の精神構造(人格構造)が改変してきているかどうかを知ることができる。なぜならば、夢によって、人の心の正常(健康)と異常(病気)を区別することができるからである。夢の内容には、不快ー防衛系も不快ー制御系も存在し、それらが混在している。たとえば、ある患者が精神構造(人格構造)第Ⅱ型の夢を報告し、一定の治療期間を体験した後、治療転機が訪れ、その時に報告した夢では、精神構造(人格構造)第Ⅰ型の構造と内容に変化した。このように、夢は人の精神構造(人格構造)を語る最も有力な診断方法である。だから、もし自己分析をやりたいという思いを抱いている人がいれば、自分の詳細な夢分析を通して、自分の精神構造(人格構造)を知ることができる。むろん、一人でそれを変えることはできないが。

 

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夢の原理とは

 すでに、夢の本質に関わる議論は『次世代の精神分析統合理論』の中でも十分に取り上げている。したがって、これ以上、本質に関わる議論はしない。そこで、今回は、夢を精神分析技法論として取り上げるのではなく、夢を意識の原理を説き明かす、ひとつの契機として取り上げてみたい。かつて、フロイトが「夢は無意識への王道である」と語った真実を歪め、最近「夢は意識である」という転倒した考えを抱く人達が出現し、しかもそれを大々的にサポートする人達も多くなり、信じ難いご時勢が到来している。おそらく、そういう人達は夢のことを十分知らず、しかも夢分析も持ち合わせていないような人達なのではないかと憶測したくなるのだが、今回は、そうした人達に対して、あえて夢の原理を明らかにし、その真相を伝えることによって、もう少し慎重な夢の研究を進めてもらいたいと考える。私の考えによると、夢は無意識だけの内容を反映するというよりも、むしろ前意識と無意識との相互関係や、前意識中心の内容を反映する方が多い。さっそく、「夢は意識である」と考える人達を支える明晰夢について取り上げることにする。

 

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明晰夢は意識ではない

 夢を見て、素朴に抱く疑問は二つある。ひとつは、夢を憶えているとは、どういうメカニズムによるものか?そして、もうひとつは、夢の中で「これは夢である」と思う自分には意識があるのかどうか?通常、多くの夢は(覚醒すると)忘れられてしまう。そのような夢の内容は、無意識、あるいは前意識に所属する、未だ十分に記憶されない(思考や体験の)内容として存在していると考えられる。これに対して、覚醒しても憶えている夢は、すでにある程度のまとまった内容を持っている夢、つまり、統合された情報の一齣だったり、あるいはもっと複数の連続した内容だったりするものである。(以前は、それらも忘れられてしまうような内容だったのだろうが、繰り返し、現実的な体験をしているうちに、前意識において、ある程度のネット形成が行なわれ、それがまとまった内容として夢に出現したと考えられる。)

 さらに、そうした夢を見ている自分には意識があるのではないか?確かに、それは意識と間違えられやすい心的現象である。しかし、それは意識の機能ではない。それでは何か?それは前意識に存在する「入れ子」構造に由来する。つまり「入れ子」構造の再帰性の典型が明晰夢である。明晰夢になりやすいパターンは「無意識から発生した夢を見ている前意識の自分」や「前意識から発生した夢を見ている前意識の自分」である。無意識から前意識に伝達される内容は「不快ー防衛系」に由来する、たとえば願望や恐怖などである。それらが前意識に伝達されると、その時、夢を見ている自分が活性化されると同時に、「不快ー制御系」に由来する内容や、意志の発動機関である孤独型誇大的自己も活性化される。最もわかりやすい例を挙げよう。これは願望である。パチンコをしたことのある人であれば、夢の中でもパチンコをしている光景が出現するだろう。リーチがかかった。その時、自分がパチンコをしていることに気づいていて、極めて意識的な状況が出現する。その気づきは、前意識に存在する入れ子構造に出現した何重もの理想的自己の仕業である。はたして、当たるかどうか? まれに見る夢であれば、なかなか当たることはない。しかし、繰り返しこのような夢を見ていれば、大当たりの夢になるはずだ。むろん、夢には自分の願望を充足させる意味がある。当たっても、外れても、この明晰夢を見た後で、目ざめる。そして、もうひとつは恐怖の夢である。恐怖がピークに達すれば、たいがい目ざめる。なぜならば、恐怖の夢に特徴的な(「不快―防衛系」の中の)「悪い対象−処罰的対象」を、意識が不活性化しようとするからである。そのメカニズムである。悪い対象が無意識から意識に侵入しようとすると、処罰的対象も無意識から前意識を経由して意識に侵入し、両刺激が意識領域で衝突する。(非意識ニューロンが意識ニューロンを賦活する。)すると、目ざめる。ところが、何らかの理由(たとえば心的外傷)によって、その衝突がなかなか発生しなければ、覚醒することができず、恐怖にうなされて、金縛りの状態に陥ったまま、その夢を見続けなければならない。処罰的対象の活性化に連動して、加虐型病的同一化や自責回路も賦活し、その結果、前意識に存在する入れ子構造に何重もの処罰的自己や理想的自己は出現するものの、上記の「悪い対象ー処罰的対象」の結合が強いため、夢のそうした状況に気づきながら、覚醒できず、明晰夢を作り続ける事態が発生する。むろん、健康な人はこのような明晰夢に陥ることなく目ざめるということを知っておくべきである。

 なお、「不快−防衛系」および「不快―制御系」によって構成される情動制御システムへの意識ニューロンの介在の仕方については、著書『次世代の精神分析統合理論』の中の「人工精神AM(artificial mind)創発理論」のところで詳述している。


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夢の中の直観もどき:運河の夢

 実は、明晰夢よりも、もっと意識に肉迫した夢が存在する。ちなみに、私は奇想天外な夢をよく見る。それが、あまりにも日常的だから、いちいち記録することもないが、この夢ばかりは忘れようがない。以下にそれを紹介する。

 場所は能登半島、禄剛崎の近くである。私の友人は漁師で、これから船に乗って漁に出ようとしている。私は尋ねた。「どこへ行く?」動き始めた船の上から、友人は答える。「ちょっと、太平洋まで、明日帰る。」と。私は少し戸惑ったが、「わかった」と返事をした。それから、夢の中で考えた。「えっ?そんな遠い所まで、どうして・・・明日、帰って来れないだろう」と思った。まだ、夢の中である。すると、夢の中で思い出した。「ああ、そうか!運河を通るんだ」と。最近、富山湾に注ぐ神通川と、伊勢湾に注ぐ木曽川との間で、運河ができたという話を聞いたのを思い出したのである。そして、夢の中で、明日帰れることを納得し、その時点で目が覚めた。目が覚めて、びっくりした。思わず「マジかよ!」と呟いた。恥ずかしいことに、その後、地図を見て、本当に神通川と木曽川との間に運河が作れるのか、確かめた。可能性は、ゼロだった。しかし、それにしても、何という夢か!私は自分に呆れてしまった。ちなみに、自分に呆れた夢の数は無数にある。

 ところで、この夢に呆れている自分こそ、意識のある自分である。それでは、呆れられた夢の作り主は、何者か?もちろん、自分であろう。奇妙な言い回しだが、仕方がない。(友人と話している自分、どこか別の所で運河の話を聞いている自分、その運河の存在に納得している自分など、あたかも連続しているような構成だが、それぞれが異なった情景の中にいる自分であり、それらが組み合わされているだけである。)もし運河の話が現実的な様相を帯びてくるようであれば、それは一種の予知夢に匹敵するだろう。しかし、この夢でわかるように、私は預言者にはなれないということである。世の中には宝くじに当たる人もいるわけだから、予知夢が現実になり、預言者としての信用を勝ち取る人が出てきても、何ら不思議ではない。

 

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いわゆる超能力者

 目覚めている時に、たとえば宇宙からのテレパシーのようなものを感ずると言っても、それは非現実的なために、人から信用されることは少ないだろう。しかし、たとえ宗教でなくても、何らかの学術的な集まりで、ある専門家をカリスマのように感じ、(そのカリスマに惚れ込んだ結果、)理論の中身よりも、その権威的な集まりにすっかり酔いしれて、あたかも自分が真実の真只中にいるかのように感ずる研究者は数え切れない。その点、私は例外で、そうした集まりに縁遠く、超能力者だと言われると白けてしまう方だが、夢によって、いわゆる「お告げ」を受けて、それを世界に広めようとする人も多く存在するようだ。(上述した)私の夢もまた、「運河」の予知夢であったりすれば、おそらく私は腰を抜かしてしまっただろう。しかし、所詮、夢に生ずる直観は偽物である。よって、夢は意識にはなり得ないが、そうした考えが世界中を席巻しているようなムードを感ずる。それは私の力では如何ともしがたい。もはや、世界は(いわゆる)超能力者によって、ひどく毒されてしまっているのかも知れない。

 

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夢と前意識的言動

 前意識的な内容だけであれば、基本的に無難な夢が多い。なぜならば、前意識は十分に学習してきているからである。そして、多くのネット・ワークを有している。それを「すでに統合された情報」と表現して差し支えないと考える。まるで、ドラマのように展開する夢のシナリオは、その統合された情報が夢の中で活性化されたということである。流れるように展開する夢に、意識を必要とする危機的な状況は少ない。

 ところが、夢は必ずしも前意識的な内容だけではない。つまり、時々、無意識的な内容が、前意識的な内容に加わる。夢に無意識的な内容が入ると、状況は一変する。なぜならば、無意識的な欲求が、時々、不快な情動を引き連れているからである。その不快さを、前意識が処理できるかどうか?たとえ処理できても、できなくても、目覚める場合が多い。処理できなければ、当然、目覚めて意識の力を借りなければならないが、たとえ前意識がその不快さを処理したとしても、前意識にやってきた対象防衛因子は意識を経由して無意識へ帰るという「防衛サイクル」を活性化させるので、結局、目覚めてしまうのである。そして、目覚めた後で、「ああ、夢だったのか!」と安堵するのである。

 夢は純粋に心的現実の産物であるが、意識は物的現実に対応するという特徴を持つ。この特徴は重要である。確かに、意識は疲れやすいし、すでに前意識が十分に学習している内容であれば、ほとんどそっぽを向いている。たとえば、こうして文章を書いている時であっても、ほとんど何も躊躇することなく、スラスラと書いていて、何か流れの止まるような疑問でも出てくれば、意識的になることもあろうが、そうでない時の方が遥かに多い。しかし、こうした状況とは正反対な場合もある。つまり、何か没頭して考え事をしている時などである。そういう時は、たとえハンドルや包丁を持っていても、意識はしっかりと別なところで働いている。さらに、何か非常事態にでもなれば、「あっ、いけない!」と、咄嗟の判断を行なう。だから、そういう時にたとえ情報が統合されていなくても、現実的に行動しなければならない。はたして、そのような場合においても、統合された情報が有効に機能するだろうか?夢では間に合わないし、(情報の統合という)空振りはボールが行った後、成立するものである。

 

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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