いかなる精神療法においても、以下に述べる二つの内容が含まれている。ひとつは、いま発生している症状群に対する対症療法的な側面である。たとえば、不安や抑うつなどの性質を理解することによって、それを解消するための示唆や薬物を提供するやり方である。そして、もうひとつは、そうした不安や抑うつが、患者のどういう感じ方や考え方、つまりどういう人格傾向によって発生してきているか?について、より深く理解し、その根源を明かしていくやり方である。ひとつ目の示唆や薬物の提供という程度のものであれば、さほどの技術や能力を必要とはしない。ところが、ふたつ目の患者の悩みをその根源にさかのぼって理解し、患者にも理解を促すという程度のものになってくると、どうしてもそれなりの技術や能力が要求される。なぜならば、そうした内面についての理解は、患者の生き方に対する情報の分析だけではなく、その患者と接触した時の医療側の、感じたり考えたりする情報の分析も必要になるからである。つまり、患者と医療側との接触によって発生する、いわゆる専門的な対人関係の中から、医療側が疑問や不快を感ずる患者の問題を理解し、その理解を患者と共有する必要があるが、その際に、医療側に発生する疑問や不快が医療側に原因があってはいけないので、それをうまく排除できるような、医療側を支える実践的な方法論が必要になってくる。その点、最も洗練されているのは、精神分析理論である。

  ところで、アメリカの精神医学においては、公認の精神分析家が多数活躍している。公認の精神分析家になるためには、大変な研修を義務付けられているから、そう簡単になれるわけではない。むろん、そのためには、自分も治療を受けて、精神的に健康であることが認定されなければならない。(アメリカにおける、一般の精神科医の研修にも、精神分析は含まれている。)これに対して、日本の場合、制度がないので、まず公認の精神分析家は存在しない。次に、自分の治療を受ける精神科医は、極めて少ない。つまり、精神的に健康であると認定された精神科医が存在しないので、上記した精神療法のふたつ目の内容が扱えないのである。こうした前提があるにもかかわらず、日本の精神科医は最も洗練されている精神分析を「特殊な」そして「すたれた」治療法であると決めつけている。しかし、その決めつけは独断と偏見以外の何物でもない。おそらく、あまり勉強したくない精神科医が、そして自分の問題に直面したくない精神科医が多いせいであろう。おまけに、たとえ勉強しても、それは向精神薬に関するものがひどく多い。私から見れば、認知療法や行動療法こそ、精神医学の「特殊な」領域である。しかも、それらは精神分析ほど内面的な治療関係を扱わない。否、扱えない。それにもかかわらず、まるでアメリカの流行に追随するかのように、安易な方法に飛びつく傾向がある。しかし、アメリカでは、毎年、優秀な精神分析家が世に送り出されている。そうした現状を、どれだけの人が知っているだろうか?すでに、私はフロイトやフロイト以降の研究を超えて、精神分析統合理論を作ったのだから、それに関心を抱かない日本の精神科医は、どんな心性の持ち主なのだろうか? 

              新しい心の分析教室:精神科教育の課題(1)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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