「精神病の原因は、まだわかっていません。」精神病に関する医療機関の案内を見ても、必ずこのような断わりの文が出てくる。しかし、原因がわからないのにもかかわらず、精神病の治療について検索してみると、そこには沢山の治療法が紹介されている。これは一体どうしたことか?と呆れるばかりであるが、はたして精神病を我が子に持つ家族は、そうした状況をどう考えているのだろうか?精神病の原因がわからないという多くの理由は、それを遺伝子や神経伝達物質に求めているからだろうと思われるが、精神科医療サイドにいる者の思いとしては、毎日の忙殺された生活から、ついつい「そんな事はどうでもよい!患者が落ち着いているのだから、それでいいじゃないか!」と思いたくなるようである。しかし、それでも出る所へ出て、改めて質問されれば、やはり「精神病の原因は、まだわかっていません」と答えるに違いない。精神分析に「疾病利得」という言葉があるが、それは病気になって得をするという意味である。そういう意味で、上記の「わかっていません」は、「不明利得」のようなものである。

  これに対して、私の場合は事情が大きく異なっている。すでに精神病の成因を解明し、治療法を確立した。精神病は許しと救いの両方が欠乏しているために生じてくる。すでに私は許しの心や救いの心の作り方を知っていて、それを使えば精神病は治る。だから、許しと救いは立派な原因である。精神病の成因が、許しと救いの心の欠乏にあり、それは治療的に十分治せるものであるという立場に立つと、精神病の原因は「環境」に依存しているということになる。その環境を問題にすると、多くの患者にとっての唯一の環境は「家族」である。つまり、家族こそ、精神病形成の担い手である。もし家族に許しと救いの心が旺盛にあれば、その家族から精神病を発生させることはない。もっとズバリ言えば、「この親にして、この子あり」である。もう一度、話を戻して考えてみたいが、遺伝子や伝達物質などが原因であるという見解は、患者の家族にどういう思いを起こさせるか?絶望感か?それとも諦めか?もし「絶望しても諦めることはない!」と答えるならば、私の実践理論を知って、どう思うだろうか?確かに、私の実践理論には、まだ検証が必要ではあるが、今までなかった治癒への「光」であることは間違いない。しかし、その実践理論が示す精神病の原因が家族であると言われた場合、それを受け入れることは可能だろうか?

  「二人の分析医が同時に治療する」という「二股療法」(あるいは「二重療法」)は、精神病根治療法の究極であるが、この方法を思いつくまで、私はずっと患者の家族に協力を求めた。幸いにして、患者の完治した家族は見事に「改心」した。しかし、不幸にして、治療が中断した場合、患者の家族は私の見解を否定した。最も痛々しかったのは、患者の要求に沿って変わろうとしても変われず、ついに発病した家族であった。むろん、私はその応急にも追われたが、限界に限界を重ねた結果、私はその家族から、もっと距離を置いた治療法を思いついたのだった。激しい苦闘の末、私は家族の持つ問題点を探り当てた。私が得た結論は(家族に巣食っている)二つの無意識的心性であった。そのひとつは「責任回避」であり、もうひとつは「うぬぼれ」である。回避は反撃の使用を困難にする。家族の(患者への)反撃のなさは「憎み合う」治療関係からの脱出を不可能にした。また、うぬぼれは(患者への)共感の使用を困難にする。共感のなさは「救いのない」治療関係からの脱出を不可能にした。おそらく、精神療法をしっかりやっている臨床家は、いま私が話した内容にうなずくだろうが、精神病根治療法が確立した今となっては、患者の家族もまた自分の病的な心性に無関心ではいられなくなってきているということを、しっかりと認識してもらいたい。

 

          新しい精神分析療法:精神分析統合理論の臨床体験

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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