「とらわれ(こだわり)のない心」という記事の中で、間主観性理論と関係性理論のどちらを選ぶかというテーマについて、その答えを「いずれでもよい」とした、私の考えについて若干の注釈をつけておきたい。話をわかりやすくするために、精神分析統合理論の中の「救いの環」を例に挙げる。すでに紹介したように、救いの環の精神力動(刺激伝達様式)は、「弱い自己→理想的対象→弱い対象→誇大的自己→弱い自己」である。換言すれば、この精神力動は、「弱い自己−理想的対象」と「弱い対象−誇大的自己」の、ふたつのユニットから構成されている。前者の「弱い自己−理想的対象」ユニットを形成する場合は、惚れ込みの体験が必要であり、そのプロセスは極めて間主観的な治療体験である。これに対して、後者の「弱い対象−誇大的自己」ユニットを形成する場合は、患者(自分)が治療者(他者)の限界(弱点)に気づく体験が必要であり、そのプロセスは「二者関係」的な治療体験である。つまり、救いの環は、間主観性理論と関係性理論のいずれの視点をも盛り込まなければ、形成されないということが理解される。

  ところで、間主観性理論も関係性理論も、古典的な精神分析からの脱皮を試みた実践理論であり、その動機や趣旨は極めてわかりやすいものである。しかし、何だかちょっと焦点がぼけているような印象を抱く。それは、なぜか?たとえば、「何をどのように食べさせるか?」と問うた時、まずは「何を食べさせるか?」であり、次に「それをどのように食べさせるか?」である。この問いに上記の議論を該当させると、「何を」は、救いの環であり、「どのように」は、間主観性理論と関係性理論である。したがって、間主観性理論と関係性理論は、あくまでも第二義的な議論である。それを、まるで第一義的な議論であるかのように扱うから、焦点がぼけているような印象を抱くのである。たとえ古典的な精神分析から脱皮したとは言え、(もし精神分析統合理論が存在しなければ、)心は未だほとんど解明されていない状況である。そうした現状においては、やはり心の仕組みの解明が最優先事項である。ほんの少しばかりわかった内容に磨きをかけても、それは目的地を知らない徘徊のようなものである。そういう意味において、今は精神分析統合理論の理解こそ、真に求められている課題である。そして、その理解に基づいて心の仕組みを十分に把握できた時には、今度は間主観性理論と関係性理論のいずれを使用するか、が課題になる。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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