仏陀は、いかなる人であっても、その人の「行ない」を見れば、その人の善し悪しがわかる、と言っている。私も基本的に仏陀のこの主張には賛成するが、それでは無条件に賛成か?と問われると、少し吟味する必要がある。賛成するにしても、反対するにしても、とりあえず「行ない」を規定する要因は何かということを理解しなければならない。一般に「行ない」を問題にする場合、それは自分の行ないを意味するのか、それとも他者の行ないを意味するのか?もし誰かが、自分の行ないは正しいと主張した場合を考えてみよう。たとえ自分の行ないは正しいと主張しても、はたしてその自己申告が信用に値するかどうか?たとえば、多重人格者の場合、ある人格から別の人格へ交代すると、交代する前の自分の行ないを忘れてしまう。したがって、自分の行ないが正しいという主張は極めて疑わしい。それでは、他者の「行ない」の場合はどうか?もちろん、ちょっと会って話しただけでは、わかるはずがない。人によっては、大変まじめで有能な社員であっても、家庭では全く愛情のない人もいるだろうし、家庭では大変すばらしい親であっても、会社では全く仕事のできない人もいるだろう。したがって、人の全貌を観察するためには、その評価の対象になっている人と、終日、行動を共にしなければならない。しかし、それはたとえ家族(夫婦)であっても、不可能であろう。こうした諸々の事情を考え合わせると、単に「行ない」を見れば、と言っても、それは極めて困難な作業であることが理解される。

  しかし、それでも人の「行ない」は、その人の善し悪しを決めるという仏陀の判断は正しいと考える。その理由を、以下の図に示す。

 

            行ない
              ↑
            日常心理
              ↑ ↓
            主体性の程度 ← ストレス
              ↑ ↓
            情動制御

 

  我々の「行ない」は、我々の日常心理から発生する。我々の日常心理について理解するためには、先ずさとり(悟り、覚り)の内容を吟味することによって、さとりの輪郭をはっきりさせなければならない。その上で、次にさとり(悟り、覚り)から見た日常心理を同定し、同定されたその内容の精神力動について理解する。さとりの内容では、直観や経験、静寂や安穏、孤独や創造などの精神力動に関する解明が必要であるし、さとりから見た日常心理では、楽しさや面白さ、うぬぼれやお節介、巻き込みや焦燥、ひきこもりや躁的防衛、義務の果たす役割などの精神力動に関する解明が必要である。これらの精神力動について解明すれば、我々の日常心理は我々の主体性の程度に依存していることを理解することができるようになる。しかも、その主体性は、二つの要因から影響を受けている。ひとつは情動制御であり、もうひとつはストレスである。はたして、仏陀が私の考えを予見していたかどうか、わからないが、人の「行ない」はその人の情動制御を強く反映したものであるということである。ただし、我々は仏陀と異なり、経済的な社会生活を営まなければならない。だから、それによって、我々は様々なストレスを被る。そのストレスによって、我々の主体性は大きく損なわれる。その損なわれた姿こそ、我々の日常心理である。混沌としていて、雑多な日常生活にはびこる様々な心性を理解することこそ、我々にとって最も重要な課題である。

 

          新しい心の分析教室:様々な精神医学(精神分析)用語(Ⅰ)

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