「老」と「死」は、自然な現象であり、「病」ではない。「老」は多くの人に共有されているし、「死」は万人に平等である。自然な現象について、何の条件も設けずに、その意義や価値について議論しようとしても、はたして上手くいくかどうか、わからない。しかも、私の専門は「病」にあり、「老」や「死」について、哲学的、宗教的な考えを披露することはしない。ただし、巷では、よく「死に方」がテーマにされやすいので、この点について、少し言及しておくことにする。

  死んだ人にとって、死に方は全く問題ではない。ところが、死ぬ人にとって、死に方は(大きな)問題であると、多くの人は考えている。死ぬ人もまだ(僅かに)生きているから、この問題は専ら「生」の中にある。死に方を「生」の問題として考える時、それは二つの視点に分けられる。ひとつは、死んでいく自分の問題であり、もうひとつは、残される人の問題である。死んでいく自分の問題は、覚悟性の有無である。覚悟とは、「いつ、どこで、どういう形で、死んでもよい」という、とらわれのない心によって生ずる。むろん、様々なとらわれがあれば、死に方も悶々としてくるであろうが、そうした内容については、このサイトのいろんな所で言及したので、それを勉強してもらいたい。残される人の問題は、対象喪失の程度である。人によっては、事故や事件に巻き込まれ、悲惨な死に方をすることもある。そうした場合、残された人は、いかにして対象喪失を切り抜けるか?これが、自分の「生」の大きな問題になる。また、身近な人に死なれて意気消沈したり、自分もまた死にたくなったり、死ぬんじゃないかと怯えたりする反応は、当然のものである。そうした思いをどう処理するか?これらの点についても、このサイトのいろんな所で言及したので、それを勉強してもらいたい。

  最後に、もうひとつ言及しておきたいことは、これから死ぬ人の、残される人に対する配慮についてである。死ぬ人の最も整った情動制御は、謝罪的自己と誇大的自己の同時活性化である。この組み合わせの具体的な心性は「感謝」である。「生」に感謝する気持ちがあったり、そうした思いを残される人に伝える機会があったりすれば、それは大変結構な配慮である。なぜならば、残される人は、死ぬ人を謝罪的対象や理想的対象として取り入れたり、再確認したりすることができるからである。つまり、死ぬ人はできるだけ自己不快因子(悪い自己や弱い自己)を活性化しない方がよい。なぜならば、残される人が死ぬ人から刺激を受けて、不快因子同士の連動性を起こす可能性があり、対象喪失からの解放に時間を要するからである。

              新しい心の分析教室:ノート(Ⅵ)

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精神分析統合理論は、革命的な精神分析理論である。心の健康と病気を定義付け、諸々の精神現象のメカニズムを解明している。その中でも、精神病である躁うつ病と統合失調症の成因を解明し、治癒をモットーにした根治療法を確立している。それによって、人類に課せられた最も大きな難問が解決されている。また、意識や自我意識の解明、「さとり」への道など、想像を絶する内容が含まれている。さらに、症例研究は比類なき圧巻である。精神医学や心理学の専門家だけではなく、心に関心を抱く知識人の方々にとっても必読書である。

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